「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その6)
『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その47)』へのfacebookでのコメント。
ひとりの方は、
オーディオ機器選びもSNSの「いいね!」の数を見て選ぶような時代であって、
ステレオサウンドの試聴記のように長いものを読んで、
自分に合ったモノを選ぶという手間のかかることは、
今の若い人たちはやらなくなっている、と。
別の方は、オーディオ機器は、良いモノを長く使いたいと考える人が多いから、
SNSのその場限りに対して、オーディオ雑誌は内容に責任を負っているから、
現在で存在価値を認める、と。
ひとり目の方は、オーディオ雑誌に存在価値を認めているいないではなく、
若い人のモノ選びについて書かれている。
ふたり目の方は、自身のオーディオ機器選びについて書かれている。
若い人のすべてがSNSの「いいね!」の数を見て選ぶわけではないだろうが、
その傾向はあるような気はする。
それに長い文章はSNSでは避けられがちである。
SNSで見かけがちなのが「長くてすみません」ということわり、である。
私の感覚では、特に長くない、と感じるのだが、SNSではそうではないようだ。
長い文章はことわらなければならないのか。
ステレオサウンド 207号の試聴記も、文字数だけでいえば、
SNSでは「長くてすみません」とことわらなければならない。
そういう視点から207号の試聴記をみると、
鉤括弧でディスク名をあげ、その後に続く文章をひとつとして捉えれば、
100文字程度の短文のいくつかが合体しただけ、とも読める。
twitter的でもある。
ディスクごとの印象は、ツイートそのものではないか。
ステレオサウンドの試聴記においても、
さほど長くない試聴記を読ませるための工夫がなされている──、
そんなふうに受けとることもできる。