Archive for 2月, 2016

Date: 2月 18th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その12)

ステレオサウンドのベストバイ特集の一回目の35号と二回目の43号までの二年間には、
六冊のステレオサウンドと二冊の別冊の他に、
HI-FI STEREO GUIDEが夏と冬に刊行されていた。

いまのステレオサウンドはどうだろう。
毎年冬号でベストバイは第二特集として定番となっている。
けれど前年の冬号からの一年間に、どれだけの内容を世に送っているだろうか。

まず別冊は出ていない。
そういうと、出しているだろう、という反論があるのはわかっている。
確かに別冊は出ているが、それはステレオサウンド編集部とは別の編集部による別冊であり、
1970年代に出ていた別冊と違う別冊である。

だから同じには考えられない。
そしてHI-FI STEREO GUIDEも出ていない。

特集記事を見ていくと、どうだろうか。
徹底試聴、総テストと呼べる特集が、いまのステレオサウンドで組まれているのかといえば、
残念ながら、そうではない。

43号のベストバイ特集と、現在のベストバイ特集とでは、
背景が大きく違っている。

こう書くと、時代が違う、という反論をいってくる人がいる。
時代は確かに違う。

だからといって、時代が違う、は何のいいわけにもならない。
編集者が「時代が違うから……」と、もしいっているようでは、
口にしていなくとも、心の中でそう思っているのであれば、
その本には、もう期待できないといっていいだろう。

では読者が「時代が違う」というのはいいのか。
私は、これも問題だと捉えている。

結局、そういってしまったことが伝われば、編集部を甘やかすことに、
編集部にいいわけを与えることにつながっていくと考えるからだ。

時代は変っていく。
ただ変っていくだけなのか。
どう変っていっているのか。
そのことを見極めずに「時代が違うから……」といってしまって、どうするというのか。

Date: 2月 18th, 2016
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その2)

「五味オーディオ教室」のまえがきに、こうある。
     *
 なお、筆者が音楽を聴き込んでから——おもにクラシック音楽だが——感じたことを、ここ十年来『藝術新潮』に載せてきた。それを『西方の音』『天の聲』(いずれも新潮社刊)の二冊にまとめたが、本書は、右の二冊のオーディオに関する部分と、オーディオ専門誌である季刊『ステレオ・サウンド』に連載した文章を中心にして、音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条を立て、新たに加筆したものである。
     *
「五味オーディオ教室」にある必要最少限の心得四十箇条。
最後の四十箇条目の大見出しは
「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」となっている。

この四十箇条目の最後には、こう書いてある。
     *
 もちろん、S氏が二人いても同じレコードが残されるとは限らないだろう。人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。同じレコードでさえ、当然、違う鳴り方をすることにもなる。再生装置でもこれは言える。部屋の残響、スピーカーを据えた位置の違いによって音は変わる。どうかすれば別物にきこえるのは可聴空間の反響の差だと、専門家は言うが、なに、人生そのものが違うせいだと私は思っている。
 何を残し何を捨てるかは、その意味では彼の生き方の答になるだろう。それでも、自らに省みて言えば、貧乏なころ街の技術屋さんに作ってもらったアンプでグッドマンの12インチを鳴らした時分——現在わが家で鳴っているのとは比較にならぬそれは歪を伴った音だったが——そういう装置で鳴らしていい演奏と判断したものは、今聴いても、素晴らしい。人間の聴覚は、歪を超越して演奏の核心を案外的確に聴き分けるものなのにあらためて感心するくらいだ。
 だから、少々、低音がこもりがちだからといって、他人の装置にケチをつけるのは僭越だと思うようにもなった。当然、彼のコレクションを一概に軽視するのも。
 だが一方、S氏の、きびしい上にもきびしいレコードの愛蔵ぶりを見ていると、何か、陶冶されている感じがある。単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。
 レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
ここには「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」という見出しがつけられている。
この「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」が、「五味オーディオ教室」の最後にあるわけだ。

「五味オーディオ教室」から多くのことを学んだ。
大切なことがいくつもある。
そのうちのひとつが「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」である。

《単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。》
とある。

これはゲーテ格言集にある《味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる》につながっていく。

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる、
と書いた。

そのためにはくり返し聴くことが、当然のこととして求められる。
くり返し聴くために必要なものは何か。

Date: 2月 17th, 2016
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その1)

クラシックを聴き始めた頃と、五味先生の本と出逢ったころは近い。

バッハの平均律クラヴィーア曲集とベートヴェンの後期のピアノソナタのことは、五味先生の本に出てくる。
くり返し出てくる。
こんなふうに書かれている。
     *
 古今のピアノ奏鳴曲の中で、いちばん好きな曲を問われたら、ベートーヴェンの第三十二番ハ短調(作品一一一)を私は挙げる。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を旧約聖書とするなら、ベートーヴェンの後期ソナタは新約聖書だという有名な言葉がある。たしかに後期の四曲(作品一〇六、一〇九、一一〇、一一一)は、聖書にもたとえるべき宗教性・崇厳感・偉大さ、更に人類の有った最も典雅で、輝かしく美しいしらべをちりばめているが——とりわけアダージオでそうだが——そんな四曲の中でも作品一一一を最高の傑作に私は挙げたい。
     *
平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書。
聴く前に、この言葉があった。

聖書を読んだこともない中学生が、旧約聖書、新約聖書のたとえにとらわれて、
特別な曲である、と思い込んでいた。

それは思い込みではなく、聴き込むほどに、
平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書の感は深くなる。

それでも、そのことをうまくは説明できる自信はなかった。
「ゲーテ格言集」に聖書についてのところがある。
     *
私の確信するところによれば、聖書をよく理解すればするほど、即ち、われわれが一般的に解釈し、特にわれわれ自身にあてはめて考える一つ一つのことばが、ある事情、時、場所の関係に従って、独自の特殊な直接個人的な関連を持っていたことを悟り、味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる。
     *
このゲーテのことばを読み、
まさしく平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書、ベートヴェンの後期ソナタは新約聖書である、と思った。

ゲーテの「聖書」を平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタにおきかえる。
《味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる》とある。
ほんとうにそうだと、聴き込んできた人ならば、首肯くはずだ。

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

Date: 2月 17th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(続・ガウスの輸入元のこと)

先日、twitterでガウスの輸入元に関する指摘があった。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の今井商事の広告に、
ガウスが紹介されている、ということだった。

214ページ、215ページの今井商事の広告を早速見ると、
当時今井商事が扱っていた10ブランド、16機種のスピーカーシステムの集合写真があり、
後列中央にガウスのスピーカーシステムがいる。

新製品ということで、型番は”Monitor System”とあるだけで、価格はない。
他のスピーカーシステムは外形寸法、重量が記載されているが、ガウスのシステムにはない。

フロントショートホーンのエンクロージュアに、15インチ口径のウーファーが二発、
その上にかなり横幅のあるラジアルホーンが乗っている。

広告の右下に〈価格は、10月1日現在のものです。〉とある。
1975年10月1日の時点で、ガウスの輸入元は今井商事だったことがわかる。

となるとステレオサウンド 41号での告知、
1976年10月から、輸入元はウェストレックス、販売業務は今井商事で正式に販売されている、ということは、
何を表しているのだろうか。

おそらく今井商事が1975年の時点で正式な輸入元になったのだろう。
その後、1976年に、ウェストレックスが自社製のスピーカーシステムにガウスのユニットを採用することを発表。
前身がウェスターン・エレクトリックであるウェストレックスと今井商事では会社の規模が相当に違う。
結果、輸入元はウェストレックス、販売業務は今井商事で落ち着いたのだろうか。

Date: 2月 16th, 2016
Cate:

オーディオと青の関係(その5)

「青」で思い出すのは、カラヤンの「パルジファル」である。
カラヤンの「パルジファル」に関しては別項で書いている途中だが、
ここでも、「青」ということでどうしても書いておきたい。

カラヤンの「パルジファル」が、文字通り満を持して登場するまで、
「パルジファル」といえばクナッパーツブッシュの「パルジファル」だった。

「パルジファル」を聴くのは、クナッパーツブッシュの演奏から、と私は思っていた。
いまもそう思っている。

当時は、いまよりも強くそう思っていた。
そういう時にカラヤンの「パルジファル」があらわれた。

ジャケットはクナッパーツブッシュ盤とは対照的に青を基調としていた。
クナッパーツブッシュ盤とカラヤン盤のふたつのジャケットを並べてみて、
このふたつが同じワグナーの「パルジファル」をおさめたものとは、
まったくクラシックの知識のない人ならば、すぐにはそうとは思えないだろう。

私は五味先生の影響を強く受けている。
それは音楽の聴き方においてもである。
カラヤンを熱心に聴いてきたとは、いえない。

そんな聴き手の戯言と思ってもらっていいのだが、
「パルジファル」以降、カラヤンの録音で、青が印象的であるものがいくつかある。

モーツァルトの「レクィエム」がある。
それからワグナーの管弦楽曲集もある。ウィーンフィルハーモニーとのライヴ盤のほうだ。

青を基調としているわけではないが、カラヤンの隣にいるジェシー・ノーマンのドレスがそうだ。
このディスクを、いいディスクだと思う。

「パルジファル」以降、つまり晩年のカラヤンと青との関係、
そういっていいのかとも思い、カラヤンの晩年と青との関係といったほうがいいのか、
はっきりとはわからずにいるが、カラヤンは青という色を、どう捉えていたのだろうか。

Date: 2月 15th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その5)

調教ということになれば、そこには主従が生れる。
主はスピーカーの使い手(鳴らし手)、従はスピーカーということになり、
主従の契りがある。

別項で、このことについて書いた。
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用を、もう一度添えておく。
     *
用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
     *
《器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増す》とある。
器は、ここではスピーカーだ。

この主従の契りがない調教では、スピーカーは決していい音で鳴ってはくれない。
いいかれば、主従の契りがあるからこそ調教が成り立つ。

と同時に、別項の最後に書いたように、主従の関係を逆転させる時期をもったことのない者には、
モノの調教はできない、といえる。
私はそう信じている。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その1)

「西方の音」を読んでいると、ワグナーのことが出てくる。
オーディオを介してワグナーを聴くことについて、いくつ書かれている。

「タンノイについて」では、次のように書かれている。
     *
 最近になって、ワグナーのステレオ盤が相ついで欧米でも発売されている。ステレオは、ワグナーとマーラーを聴きたくて誰かが発明したのではあるまいか? と思いたくなるくらい、この二大作曲家のLPはステレオになっていよいよ曲趣の全貌をあらわしてくれた。それでも、フルトヴェングラーとラインスドルフを聴き比べ(フルトヴェングラーのは米国では廃盤。ショルティやカラヤンのワルキューレ全曲盤は、この時はまだ出ていなかった)ステレオのもつ、音のひろがり、立体感が曲趣を倍加するおもしろみを尊重しても、なお私はフルトヴェングラーに軍配をあげる。音楽のスケールが違う。最もステレオ的な曲と思えるワグナーでさえ、最終的にその価値をとどめるのは指揮者の芸術性だ。曲の把握と解釈のいかんであって、これまた、当然すぎることだが、しばしばそれがレコードでやってくる場合、装置の鳴り方いかんが指揮者の芸術を変えてしまう。
     *
「ワグナー」では、こう書かれている。
     *
 ドイツ民族のサーガ神話は、楽劇のストーリーとして興味があるにすぎない私は聴衆だから、膨大な『ニーベルンゲンの指輪』の序夜に、ファーフナーなる巨人が登場したことなど、二日目の『ジークフリート』を聴く時には綺麗に忘れている。ジークフリートの剣に刺される大蛇が実はファーフナーだと、解説を読んでもぴんとこないくらいだ。神話に対しては、それほど私はずぼらな聴衆である。つまり真のワグネリアンでは断じてない。いつかはワグナーの楽劇の膨大さそれ自体にうんざりする日がくるかも分らない。
 が今はまだ、ワグナーの楽劇をその完璧なスケールの大きさで再生してくれる、わが家のステレオ装置をたのしむ意図からだけでも、繰り返し聴くだろう。ドイツ的なワグナーがテレフンケンではなくて英国のタンノイでよりよく鑑賞できるのは、おもえば皮肉だが、バーナード・ショーは死ぬまで、イギリスは自国のワグナー音楽祭を持つべきだと主張していたそうだ。前にも書いたことだが、タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。
     *
いうまでもなく《タンノイの folded horn》とは、五味先生のオートグラフのことである。
オートグラフでワグナーを聴いた経験は、私にはない。
けれど、五味先生がいわんとされることはわかる。

オートグラフの現代版といえるウェストミンスター。
構造的には同じといえる、このふたつのスピーカーシステムの違いは、
私にはオートグラフはベートーヴェンであり、ウェストミンスターはブラームスである、と以前書いた。

その意味でいえば、ワグナーを聴けるのはオートグラフともいえる。

このことはひどく主観的なことであり、賛同される人はいないであろうが、私にはいまもそう感じられる。
おそらく死ぬまで変らないのではないだろうか。

五味先生の書かれたものを読みすぎたせいかもしれない、と思いつつも、
ワグナーをオーディオで聴くという行為は、
他の作曲家の作品をオーディオで聴くという行為とは違う面があるように感じてしまう。

それはなんだろうか、と考えていた。
単なるワグナーへの思い入れ、思い込みからきているだけのものとは思えない。
だから考え続けていた。

答らしきものとして出てきたのは、演出である。
菅野先生はレコード演奏といわれた。

たしかにそのとおりである。
そこにワグナーの場合、レコード演出が加わってくるのではないだろうか。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その11)

ベストバイという企画は、人気のある特集である。
だからこそ43号以降、毎年一回、ステレオサウンドはベストバイを特集にもってきている。
実際にベストバイの号の売行きはいい、ときいているし、
最近では年末の号(ベストバイが第二特集となっている)では、特別定価である。

つまりベストバイの号だけ買う読者がいる、ということである。
その一方で、ベストバイの号だけは買わない、という読者がいる、ということもきいている。

買わないという人たちに共通する意見として、
ベストバイはカタログ誌(号)である、というのがある。
口の悪い人になると、ベストバイだけではない、最近のステレオサウンドすべてがカタログ誌だ、と。

以前も書いたことだが、ほんとうにいまのステレオサウンドはカタログ誌だろうか、
もっといえばカタログ誌たりえているだろうか。

昔からステレオサウンド、その別冊を読んできた者にとっては、
年二回刊行されていたHI-FI STEREO GUIDE(のちのStereo Sound YEAR BOOK)こそが、
カタログ誌と呼べる内容の本だった。

ベストバイの号をカタログというのは、侮蔑の意味が込められている。
けれどカタログは必要でもあり、
カタログ誌も必要なものである。

カタログはメーカーや輸入商社、もしくはオーディオ店から貰うものかもしれないが、
これらはカタログは、当然のことながら、
そのメーカーの、スピーカーならスピーカーだけ、アンプならアンプだけのカタログであることが多い。

けれど、これがカタログ誌となると、すべてのブランドの、すべての機種を一冊で網羅している。
HI-FI STEREO GUIDEは、その意味でカタログ誌であり、そこには侮蔑の意味はまったくない。

HI-FI STEREO GUIDEは地味な存在である。
けれど大切にしなければならない存在でもあった。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その7)

ステレオサウンド別冊「魅力のオーディオブランド101」に、
日本マランツの商品企画部部長の株本辰夫氏の発言が載っている。
     *
株本 ついこのあいだ、マランツさんに会ったんですよ。私にとっては2度目なんですが……。
 相当なお年なんですが、矍鑠として、自分のあたらしい会社で、自分の気に入った製品をつくっておられます。
「実はおれのところにCDがほしいんだ。おまえのところにはCDのいい技術があると聞いているんだが、売ってくれないか?」というお話があったわけです。
 いま、とても小規模にやっておられるのですが、一番教えられたのは、メーカーとしての機能をギブアップされないのですね。
 私どもからCDの供給を受けるといっても、完成品を買うのではなくて、最後の仕上げは自分のところでやりたいようです。
 自分のところにメーカーとしての機能を残しておかなければ、満足するようなものは作れない、というのが、マランツさんの考えかたです。
     *
「魅力のオーディオブランド101」は1986年だから、
このころのマランツの新しい会社というのは、ジョン・カールが参画していた会社のことかもしれない。

そのへんの詳細ははっきりしないが、この株本氏の発言に出てくる「メーカーとしての機能」、
このことについて考えてしまう。

メーカーとしての機能とは、いったいどういうことなのか。
残念ながら、「魅力のオーディオブランド101」には、その説明は出てこない。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: 川崎和男

KK塾(DNPのこと)

別項「続・再生音とは……(その15)」に、
オーディオの世界も、音による空気への印刷と捉えることができる、と書いた。

KK塾では毎回、DNPの社員によるプレゼンテーションがある。
今回もそうなのだが、このプレゼンテーションを見ていると、
印刷は出力であり、出力するためには入力が必要であり、
その入力されたものを処理する技術も必要になる。

このことを改めて実感する。

印刷といえば、やはり紙への印刷であり、
DNPにとっても紙への印刷がメインであっても、
印刷領域の拡大と、その精度は確実に進歩している。

オーディオの世界も入力、信号処理、出力からなる世界である。
だから、DNPの取組みをみていると、
もしかしたらDNPはオーディオの世界に進出することもできるのではないか、とさえ思えてくる。

そうなったら、既存のオーディオメーカーとは違う「印刷(出力)」を見せてくれそうな予感すらある。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(信頼性のこと・その4)

NASA、ハンダで連想するものに、アルミットがある。
日本のハンダがNASAに採用にされたということで、当時話題になった。
秋葉原でも売っていたので使ってみた。

そのころ使っていたハンダはアメリカのキースターのモノ。
アメリカにはキースターという優れたハンダがあるのに、NASAが日本製のハンダを採用したということは、
それだけの信頼性がアルミットにはある、そう判断しても間違いではなかった。

当時の、アルミット以外のハンダの製造がどういう状態なのかを、
サウンドボーイの編集長のOさんに聞いていた。
電子機器の信頼性に深く関係してくるハンダが、その程度の製造なのか、とがっかりした。

そういう時期にアルミットは登場した。
期待は大きかった。
いいハンダだ、と思う。

けれどキースターを使い続けた。
理由は、ハンダをやり直す際のことを考えて、だった。

キースターのハンダは、ハンダ付けした部品を取り外すときに、ハンダがきれいに除去できる。
アルミットは、キースターのハンダよりも面倒だった。

アルミットも改良されているだろうし、それに他の人はどう思っていたのかはわからないが、
少なくとも30年ほど前、当時使っていたハンダゴテと私の腕では、
アルミットよりもキースターの方が、部品を交換するのが楽で確実にできた。

でも考え方を変えれば、アルミットのそういう性質は、決してマイナスになるとはいえない。
人工衛星は打上げれば、修理をすることは考えられていない。
ならばハンダ付けのやり直しのしやすさを考慮する必要はない、ともいえよう。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: audio wednesday

第62回audio sharing例会のお知らせ(マッスルオーディオで聴くモノーラルCD)

3月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

1988年も終りに近いころだった。
JR荻窪駅で電車を待っていたら、ホームで携帯電話をかけている人を見かけた。
携帯電話といっても、当時のそれは肩からかけるモノで、バッテリーも大きく、
固定電話のような受話器がついているモノだった。

その少し後だったか「帰るコール」という言葉が一時期流行った。
私がみかけた人も、まさしく「帰るコール」をしていた。

携帯電話(というよりも持ち運び可能な電話)が出ていたことは知っていたけれど、
本体価格、通話料金ともに高く、使っている人はどのくらいいたのだろうか。

後にも先にも、私が見かけたのが、この人だけだった。

それから約20年。2007年にiPhoneが登場し、スマートフォンという言葉も流行っていく。
確かに、あの頃の携帯電話からの進歩は、スマートフォンといえるほどである。
小さく軽く、バッテリーも持つようになり、
ただ電話をかけるだけのモノから、さまざまな機能を盛り込んだモノになっている。

スマートという言葉を使いたくなるのもわかるし、
スマートという言葉にふさわしいモノでもある。

いま、あのころの、大きくて重くて単機能の携帯電話が使えたとして、誰が使いたいと思うだろうか。
けれど、オーディオはそこが違う。

オーディオの世界も、スマートオーディオといえるようなモノが出てきている。
スピーカーにしても、大きくて重い、そして高能率のモノよりも……、という傾向はある。

スピーカーユニットにしてもそうだ。
3月のaudio sharing例会で予定しているのは、
JBLの2441を二本、2397ホーンに取りつけて、モノーラルCDを聴く、というものだ。
2441には600Hz以上を受け持たせる。

これがコーン型ユニット、ドーム型ユニットであれば、
ユニットの重量はせいぜい数kgである。
軽く片手で持てる重さでしかない。

たとえばATCのスコーカーがある。
ATCのスコーカーは400Hzあたりから使えるし、能率はホーン型よりは低いものの、
最大出力音圧レベル、リニアリティに関しては、
スタジオモニターとして高い評価を得るだけの能力をもっている。

そういうユニットがずいぶん前から登場しているにも関わらず、
金属のかたまりのようなコンプレッションドライバーをひとつのホーンにダブルで取りつける。
ひどく時代に逆行しているようなことをやるわけだ。

それはお世辞にもスマートオーディオとは呼べない。
その対極にあるだけに、マッスルオーディオと、だから呼びたい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(信頼性のこと・その3)

高信頼性の部品を使ったオーディオ機器が、高信頼性を実現できるかといえば、そうではない。

ときどき、音質最優先を謳い、アクロバティックといいたくなるような配線をやっているアンプが登場する。
そういうアンプを一部の人は高く評価する傾向にあるが、
こと信頼性において、高く評価できるモノだろうか、
そして人に薦められるモノであるだろうか、と疑問をもつことがある。

井上先生から以前聞いたことがある。
試聴が終り、オーディオの雑談の時間になったとき、
ハンダ付けの話題になった。

1980年代の話だから、部品で音が変ることは当然であったし、
ハンダの種類によっても音が変ることも常識になっていた。

アンプ製作においてハンダ付けは欠かせない。
どんなにいいハンダを使い、高信頼性の部品を使っていても、
ハンダ付けがいいかげんであっては、トラブルの原因となり、
信頼性を低下させることにつながる。

ハンダ付けの技術は音と信頼性に関係してくる。

では、部品と部品の結線、ワイヤー同士の結線において、
どういう方法がいちばんいいのか、ということになった。

そのとき井上先生は、NASAのマニュアルには、こう書いてある、といって、教えてくれた。

いまならインターネットの検索を使いこなすことで、NASAのマニュアルを探し出すことはできるかもしれない。
けれど井上先生がNASAのマニュアルについて話してくれたのは1980年代のことだ。
しかもつい最近見たという感じではなく、けっこう前のことのように話された。

どうやってNASAのマニュアルを入手されたのか、そこまで聞かなかった。
井上先生が、そこまで調べられていたことに、正直驚いていた。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その10)

一回目のベストバイの35号、二回目のベストバイの43号、
この二冊のステレオサウンドのあいだに、六冊のステレオサウンドと二冊の別冊が刊行されている。
性格には「世界のオーディオ」シリーズも刊行されているが、
編集意図が異る別冊なので除外する。

36号の特集は「スピーカーシステムのすべて(上)」、続く37号は「スピーカーシステムのすべて(下)」で、
この二冊で80機種のスピーカーシステムを試聴している。
38号は「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
39号は「世界のカートリッジ最新123機種の総試聴」、
40号は「世界のプレーヤーシステム最新50機種の総試聴」、
41号は「コンポーネントステレオ世界の一流品」、
42号は「プリメインアンプは何を選ぶか 最新35機種の総テスト」となっている。

別冊は1976年夏に「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」が出ている。
ここでは72機種のセパレートアンプの試聴が行われている。

もう一冊の別冊は1976年暮の「コンポーネントステレオの世界 77」で、
45の組合せが登場する。

この時代のステレオサウンドは、総試聴、総テストという言葉があらわしているように、
徹底した試聴と、そして測定を行っていた。

スピーカーシステムの総テストを二号にわたっておこなう。
このスタイルは44号、45号でも引き継がれている。
この二冊は「フロアー型中心の最新スピーカーシステム総テスト」であり、
さらに46号では「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」で、
つまり三号続けてのスピーカーシステムの特集となっていた。

25号と43号のあいだで、
ステレオサウンドはアナログプレーヤー、カートリッジ、プリメインアンプ、
コントロールアンプとパワーアンプ、そしてスピーカーシステムと、
全ジャンルの総テストを行っている。
(カセットデッキ、オープンリールデッキは隔月刊のテープサウンドが行っていた。)

これだけのことが行われてきたうえでの、43号のベストバイ特集である。

Date: 2月 12th, 2016
Cate: 川崎和男

KK塾(五回目)

KK塾、五回目の講師は、内藤廣氏。

内藤廣氏の話の中に、西洋と東洋の時間の概念を図で表したものが出てきた。
西洋のそれは右肩上がり直線、
東洋のそれは弧を描く二本の線が円を成していた。

このふたつを合わせたものとしての螺旋状の図がスクリーンに表れた。
螺旋状の図は、コイルである。
この螺旋状の図は、未来予想図でもある。

まっすぐに規則正しい弧を描いているものが、外的要因で曲がったり、弧が崩れたりする。
そういう話をききながら、こんなことを思っていた。

この螺旋状の図は、何の未来予想図か。
世界の、日本の、それぞれの地域の螺旋状の図であり、
ひとりひとりの螺旋状の図であるとすれば、
そしてコイルとみなせば、活動によりコイルに電流が流れ、
コイルの中心には磁力線が発生する。

コイル同士が十分に離れていて、向きが直行していれば干渉は少なくなるが、
そうでなければ互いに干渉しあう。

けれどコイルがトーラス状に巻かれていたら、どうなるか。
つまりトロイダル型のコイルである。

もし螺旋状の図が、直線のコイルではなく、トロイダル状のコイルであれば、
磁力線の漏れはずいぶんと抑えられる──、こんなことを考えていた。

内藤廣氏は建築家だ。
東京・六本木のミッドタウンに虎屋菓寮がある。
内藤廣氏が手がけられている。
オーディオマニアとして、ここに行ってみようと思っている。