Archive for 11月, 2014

Date: 11月 26th, 2014
Cate: 基本

ふたつの「型」(その1)

型にはまった、という表現がある。
この場合の型は基本を指していることが多い。

型にはまった音。
もし誰かに音を聴かせたら、こんなことをいわれたら聴かせた方としては嬉しくないはず。
特に欠点はないのだれど、個性のない音とか、その人らしさの感じられない音とか、
そういうふうに受けとることができるからである。

けれどほんとうに基本に忠実な音を出していて、
その音を「型にはまった」といわれたのであれば、それほど悲しむことではないと思う。

基本という型がある。
もうひとつ別の型があると、オーディオには確実にあると思うことが何度もあった。

この場合の型は、その人の音の鳴らし方の癖てある。
どんなにタイプの違うスピーカーシステムであっても、同じ音で鳴らしてしまう人がいる。

こう書いてしまうと、その人の鳴らし方が優れているように思われるかもしれないが、
むしろ逆で、どんなスピーカーにもそのスピーカーならではの良さがあるにも関わらず、
その人が鳴らすと、スピーカー固有の良さは影をひそめ、
その人の癖(個性とは言い難い)にはまってしまった鳴り方しかできなくなっている。

鳴らしている本人は、どんなスピーカーでも自分の音として鳴らせる、と自信満々だったりする。
けれど、その人の音をスピーカーが替るたびに聴いてきた私からすれば、
どのスピーカーでも、結果としての音は同じだから……、と思ってしまう。

スピーカーを替えるよりも、まず自分の型にはまってしまっていることに気づき、
そこから離脱することに精進すべきなのでは、と言おうと思ったことは何度もある。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その10)

バーンスタインの、ドイツ・グラモフォンでの新録によるマーラーを20数年前、
最初に聴いたときも、いまもそうなのだが、
なにか得体の知れない何かが潜んでいるように感じるところがある。

その生き物のうねりとうなりのようなものにふれている気がする。
そう感じるから、バーンスタインとマーラーの作品とが一体化したと思ってしまう。

この得体の知れない何かの正体を知りたい、と思ってきた。
いまも思っている。

そして、この得体の知れない何かを感じる時に、あぁマーラーだ……、と声にこそ出さないが、
心の中でつぶやいている。

これがマーラーの正しい聴き方なんていう気はさらさらない。
ただ、私はそうマーラーを聴いているし、だからバーンスタインの新録のマーラーを聴きつづけている。

得体の知れない何かが潜んでいるところこそ、闇だとも感じている。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(vintage design)

vintageは、なかなか興味深いテーマのように感じている。
vintageのあとにどんな言葉をもってくるのか。
それをどう定義していくのか。

vintageは、いま手垢にまみれつつあるようにも感じる。
いろんなモノに、vintageがつけられるようになってきている。
モノだけでなく、vintage soundの例のように、その範囲は拡がっている。
そういえば、vintage design(ヴィンテージ・デザイン)もあるんだろうな、と検索してみると、
やはりあった。

vintage design。
オーディオのことだけに話を限れば、
そう呼べるモノとして、マランツのModel 7、JBLのSA600、SG520、
スピーカーシステムならば、JBLのハーツフィールドにパラゴンなどがすぐに挙げられる。

挙げられるけども……、これらをヴィンテージ・デザインのオーディオ機器、
オーディオ機器におけるヴィンテージ・デザインと呼んでいいのだろうか、と考えてしまう。

ただヴィンテージ・デザイン、それもオーディオ機器におけるヴィンテージ・デザインとは、
いったいどういうものなのか、私のなかであまりにも漠然としすぎているからだ。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 表現する

夜の質感(その9)

解釈にしても分析にしても、マーラーの作品との距離のとり方は同じかもしれない。
ある一定の距離をつねに保つのがあれば、
少しでも近づいていこう、とするのもある。

片方を俯瞰型とすれば、もう片方は没入型とでもいおうか。
バーンスタインのマーラーは、こんなわけ方をするのであれば、没入型ということになる。

シノーポリのマーラーも没入型といえるほどまでに近づいて、
それからつきはなしたところでのものかもしれない、と思うようになった。

先週、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニー、ワルターのマーラーを聴いていた。
どちらもコロムビア録音である。

昨晩、バーンスタインがヨーロッパに活動の拠点をうつし、
ドイツ・グラモフォンでのマーラーの再録音を聴いた。
第四番、五番をたてつづけに聴いた。

バーンスタインの旧録のマーラーとワルターのマーラーは違う。
でも、このふたりの違いよりも、バーンスタインの旧録と新録の違いの大きさに驚いてしまった。

なにも今回初めて聴いたわけではない。
バーンスタインの新録はよく聴いている。
バーンスタインの旧録とワルターにしても、頻繁に聴いていたわけではないが、何度か聴いている。

にも関わらずバーンスタインの変貌ぶりに驚いた。
旧録と新録とではオーケストラが違う。ニューヨークフィルハーモニーも二番、三番、七番がそうだが、
あとはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とウィーン・フィルハーモニーである。

それに録音方式も旧録と新録のあいだでずいぶんと変化(進化)している。
けれど、そういうことに起因する違いとは思えないほど、違っていたことに今回驚いてしまった。

バーンスタインのマーラーは没入型とはいえる。
新録でバーンスタインのマーラーを聴いていると、没入型というよりも一体型の演奏のように思えてしまう。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(続々・中古か中故か、ヴィンテージか)

サンスイのAU-X11 Vintage。
AU-X11はプリメインアンプだから、AU-X11はVintage Amplifierと受けとりそうになるけれど、
おそらくvintageのあとに続くのはamplifierではなく、soundであろう。
そういう受けとり方もできる。

vintage sound(ヴィンテージ・サウンド)。
私が真っ先に思い出すのは、五味先生のオーディオ巡礼の一回目のことである。
五味先生は野口晴哉氏と岡鹿之助氏の装置を巡礼されている。

少し長くなるが引用しておこう。
     *
 野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
 リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
 装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
 でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
 安っぽいヴァイオリンが、グワルネリやストラディヴァリの音を出しっこはないが、下手なヴァイオリニストはグワルネリを弾いたって安っぽい音しかきかせてくれやしない。逆にどんなヴァイオリンでも、それなりに妙音をひびかせたクライスラーの例もある。ツーリング・カーの運転技術と私が言うのはここなのだが、要するにその人がどんな機種を聴いているかではなく、どんな響かせ方を好むかで、極言すれば音楽的教養にとどまらずその人の性格、人生がわかるように思う。演奏でそれがわかるように。
 音とはそれほどコワイものだということを、野口さんの装置を聴きながら私はあらためて痛感し、感動した。すばらしい音楽だった。年下でこんなことを言うのは潜越だが、その老体を抱きしめてあげたいほど、一すじ、かなしいものが音のうしろで鳴っていたようにおもう。いい音楽をきくために、野口氏がこめられてきた第三者にうかがいようのない、ふかい情熱の放つ倍音とでも、言ったらいいか。うつくしい音だった。四十畳にひびいているのはつまりは野口晴哉という人の、全人生だ。そんなふうに私は聴いた。——あとで、別室で、何年ぶりにかクレデンザでエネスコの弾くショーソンの〝ポエーム〟を聴かせてもらったが、野口氏が多分これを聴かれた過去当時に重複して私は私の過去を、その中で聴いていたとおもう。音楽を聴くとはそういうものだろうと思う。
     *
この野口晴哉氏の音こそ、ヴィンテージ・サウンドだと思うのだ。
17年ぶりに訪問、システムは変っていても、音は変らなかった。

《十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。》
そうだと思う。

名器といわれるプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムを揃えて、
立派な部屋で鳴らしたところでヴィンテージ・サウンドが鳴ってくるはずはない。
鳴ってくると思い込めるほど、目出度くはない。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(その1)

 どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
     *
瀬川先生がこう書かれていることを、最近思い出すことが多い。
ブログを毎日書いているせいである。
書くために考える。

それは時として本末転倒なことになりかねない……、
そういう気持はいつも持っている。

書くために考えて、袋小路に入り込むことだってあるだろう。
たしかに「オーディオは難しいものでもしかつめらしいものではなく、もっと楽しいものの筈」なのであり、
もっとシンプルに捉えればそれでいいのかもしれない、と思う気持がある一方で、
ほんとうに、オーディオがシンプルなモノであるために、考えて書いているという気持も強い。

シンプルにして、いい音で音楽を聴ければ、それこそが最高ではないか。
こんなことをいう人はいる。少なくない。
でも、これをどんな表情で、その人が発するかで、こちらの受けとめ方は違ってくる。

それにシンプルとは、いったいどういうことなのかとその人に問いたい。

往々にして、この言説には、シンプルとはどういうことなのかが語られていないことが多過ぎる。
と書けば、シンプルとはわかりきっていることだから、説明の必要はないだろう、と返ってくる。

だが、ほんとうにシンプルとは、どういうことなのか、
その人は考え抜いているのだろうか。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(続・中古か中故か、ヴィンテージか)

vintageをオーディオ機器の型番に最初につけたのは、サンスイのはずだ。
1981年登場のプリメインアンプAU-X11 Vintageがそうである。

型番からわかるようにこのプリメインアンプは、
1979年登場のサンスイのプリメインアンプとして別格ともいえるAU-X1の後継機である。

この後継機の型番を、単にAU-X11とせずに、Vintageをつけている。
このあと、サンスイはセパレートアンプにもVintageをつけるようになっていく。

このころのサンスイのプリメインアンプは、ひとつのモデルをベースに改良を加えていく手法をとっていた。
AU607、AU707からはじまったプリメインアンプのシリーズは、
AU-D607、AU-D707になり、このとき上級機としてAU-D907が加わり、
その後も型番の末尾にアルファベットがつき、数字の前のDもαに変更されて続いていった。

AU-X1はそんなプリメインアンプをベースに、ひとつ格上のプリメインアンプ、
最上級機としてのプリメインアンプ、セパレートアンプと伍するプリメインアンプとして登場しただけに、
AU-X11のVintageには、熟成という意味も含まれていたことだろう。

当時のステレオサウンドの記事を読めば、音楽愛好家への最高の噌り物という意味を込めて使われたことがわかる。
AU-X11 Vintageが型番のつけ方として優れていたかどうかは別として、
型番に込められているサンスイのおもいはわかるし、
vintageをどう捉えるのか、それは人によって時代によって違ってくるものだから、
あまり言葉本来の意味にとらわれてしまうのもどうかと思う。

マランツのModel 7が登場した時に新品で購入した人もいる。
その人がずっと使いつづけている。
登場して50年以上が経っている。
どんなに大切に使っても、不具合がいままで生じなかったことはないはずだ。
なんらかの修理、メンテナンスが施されている。

このとき、どんな修理、メンテナンスを施すのか。
それによって、Model 7はヴィンテージ・アンプと呼ぶにふさわしいモノになっていくだろうし、
中古として呼べないモノになっていく。

私はヴィンテージ(vintage)をつけて呼ぶことができるのは、メーカーと使い手なのだと思う。
育てていくことができるメーカーと使い手のためのことばである。
販売店が商売のために、オーディオ雑誌が関心をひくためにつけるものではない。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(中古か中故か、ヴィンテージか)

さきほどの「名器、その解釈(中古か中故か)」に対して、facebookでコメントがあった。
「ヴィンテージとも呼ばれますが」とあった。
コメントをくださった方も、ヴィンテージという呼称に違和感をお持ちのようだ。

いつごろから過去のオーディオ機器を取り上げた企画、別冊にヴィンテージ(vintage)をつけるのが増えている。
個人でも、ヴィンテージをつける人は少なくない。
ヴィンテージスピーカー、ヴィンテージアンプ、ヴィンテージプレーヤーといったふうに、である。

ヴィンテージとは、辞書には、古く価値のある物という意味も含まれている。
だからヴィンテージスピーカー、ヴィンテージアンプという使い方は間違っているわけではない。

でも、ヴィンテージを、オーディオ機器の呼称に使ってしまうと、
どこかに違和感を持ってしまう。

ウェスターン・エレクトリックの594A(他の製品でもかまわないが)は確かにヴィンテージ・スピーカー、
もしくはヴィンテージ・ドライバーといえる。
けれどヴィンテージをつけてしまうと、594Aすべてに対して、そういってしまっていいのだろうか、と思う。
594Aでなくてもいい、少し身近なモノとしてマランツのModel 7でもいい。

ひじょうに程度のいいModel 7であれば、ヴィンテージ・アンプと呼ぶことに違和感も抵抗もない。
だがそんなModel 7はごく僅かである。
多くのModel 7は大なり小なりガタがきている。

そんなModel 7もヴィンテージ・アンプと呼んでいいのか、と思うからだ。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(中古か中故か)

現行製品、それも最先端の技術を導入しているオーディオ機器を、
それがどんなに優れていようと名器と呼ぶのは、個人的にはためらいもある。

名器と呼ぼうと思えば呼べる。
けれど、これまで名器だといってきたモノと並べて、はっきりと素直に名器と呼べるかとなると、
やはり考え込んでしまう。

つまり私にとって、いまのところすんなり名器と呼べるオーディオ機器はすべて製造中止になっているモノばかりだ。
ようするに、それらを手に入れるには、中古を探してくるしかない。

それにしても中古という言葉と名器という言葉が相容れないところがある。
同じオーディオ機器を名器とも呼び、中古とも呼ぶことになる。

20数年前に、中古車に変る呼び名が募集されていた。
車にも名車と呼ばれるものがあり、それらは製造中止になっていれば中古車でしか手に入れられない。
まったく使われていないモノが倉庫に保管されていて、それらを新古車(新古品)と呼ぶようだが、
新古とは新旧という意味だし、意味を無視したとしても、それほどいい言葉とは思えない。

以前、伊藤先生がウェスターン・エレクトリックのモノについて、中古ではなく中故と書かれていた。
伊藤先生もおそらく中古と書きたくなかったのだろう、と勝手に思っている。

中古ではなく中故とすることで、中古に対するもやもやがすんなりなくなってしまうわけではないが、
伊藤先生のウェスターン・エレクトリックのモノに対する特別なおもいが、
中古ではなく中故とされたところにあらわれている。
私はそう受けとめている。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その18)

なぜ、プロフェッショナルではない、と私は言い切るのかといえば、
そういう手法を選択してしまった人たちは、
あれこれいうだろう、おまえが気づかないところまで細心の注意をはらってつくっているんだ、とか、
他にもいくつか、そういう人たちがいいそうなことは思い浮ぶが、
そんなことをではなく、プロフェッショナルであるならば問題解決を選ぶべきである。

にも関わらず問題回避を選んでいる。
だから、そういう人たちを私はプロフェッショナルではない、と言い切る。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その17)

コントロールアンプの入力端子のどれを使うかで音は変る。
以前のアンプ、フロントパネルの裏にロータリースイッチがあり、
リアパネルの入力端子からロータリースイッチまで配線を引き延している作りでは、
入力端子による違い、各入力間のクロストークは増える傾向にある。

ロータリースイッチではなくリレーを多用して、
入力端子からごく短い配線でメイン基板に接続し、そこでリレーによって切り替えを行うようにすれば、
各入力間のクロストークは大きく減少するし、入力端子による音の違いも減ってくる。

ゼロに近づけることができるけれど、決してゼロになることはない。
ならばいっそのこと入力端子を最少限にする。
つまりライン入力一系統にする。
そうすれば入力セレクターも省けるし、各入力間のクロストークも問題もなくなる。

そういうコントロールアンプはあったし、パッシヴフェーダーにもそういうものがある。
音質劣化の要素をなくすために、とか、音質最優先の設計を、そういう機種は謳う。

だがこの手の手法は、いかにもアマチュア的だ。
アマチュアが作るものであれば、これもありだが、
少なくとも製品化して一般市販するモノであれば、それはプロフェッショナルのつくるモノであってほしい。
もっといえば、プロフェッショナルのつくるモノでなければらない。

アマチュアでも思いつくことをプロフェッショナルと呼ばれている人がやる。
恥ずかしくないのか、と思う。

低価格でいい音という製品ならば、そういうアプローチもある。
そこまで否定する気はないが、非常に高価なコントロールアンプやパッシヴフェーダーでも、
そういう製品には、プロフェッショナルの矜恃はない。

以前、そういう製品に憧れ、そういうことをあれこれ夢想していたから、なおさらそうおもう。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その2)

こんなことを考えるのは、中学生のころ読んだ手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編の影響があるのかもしれない。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場する。
ふたりは出会い別れ、また出会う。
そこで鬼瓦をつくる。

茜丸の鬼瓦と我王の鬼瓦。ふたりの鬼瓦の違い。
ここで茜丸がとる行動。
我王は残った片腕も失う。

鳳凰編はそこで終りではなく、もう少し続く。

Date: 11月 23rd, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その1)

音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、
自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。

五味先生の「西方の音」にそう書かれているのを遠い昔に読んでいる。

こう言っているベートーヴェンの音楽は、
ほんとうにベートーヴェンの自己表現なのだろうか、という疑問がある。
「西方の音」をはじめて読んだ時は、そんなことは思いもしなかった。

だがやたらと「自己表現が大切だ」的なことを目にしたり耳にしたりすることが多くなってきているから、
疑問をもつようになっているようだ。

オーディオでも、そんなことをいう人はけっこういる。
自分の音は自己表現である、だから自分の音を持つことが大切だ、という人がいる。

淡々と語る人いれば、力説する人もいる。
力説する人の、この手の発言をきいていると、
なぜこの人はこんなにも力説するのだろうか、ということに興味をもってしまう。

自分の音を聴いてくれ、そして自分の音を素晴らしい、といってくれ。
そういいたいわけではないだろうが、そうきこえてしまうことがある。

最近、私はいい音を追求していくことは、仏像をつくることに共通するのではないか、と考えるようになった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その3)

studio productとはっきりといえる録音は、デザインである。
このことに気づいて、グレン・グールドがコンサートをドロップアウトした理由が完全に納得がいった。

グレン・グールド自身がコンサート・ドロップアウトについては書いているし語ってもいる。
それらを読んでも、はっきりとした理由があるといえばあるけれど……、という感じがつきまっとていた。

グレン・グールドが録音=デザインと考えていたのかどうかは、活字からははっきりとはつかめない。
けれどグールドには、そういう意識があったはず、といまは思える。
だからこそ、デザインのいる場所のないコンサートからドロップアウトした、としか思えない。

確かグールドはなにかのインタヴューで、
コンサートでの演奏は一瞬一瞬をつなぎあわせている、といったことを発言している。

それが聴衆と演奏者が一体になって築くもの、つまりは芸術(アート)だとするならば、
スタジオでの録音は、それもグレン・グールドのようなスタジオ・アーティストによるものは、
アートと呼ぶよりもデザインと呼ぶべきではないのか。

グールドは、こうもいっていた。
     *
私はアーティストには用はない。
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グールド以外のすべての演奏者がそうだといいたいのではない。
ただグレン・グールド自身はアーティストとは思っていなかったのかもしれないし、
呼ばれたくもなかったのだろう。

それはなぜなのか。
デザインということだ、と私は思う。