夜の質感(その9)
解釈にしても分析にしても、マーラーの作品との距離のとり方は同じかもしれない。
ある一定の距離をつねに保つのがあれば、
少しでも近づいていこう、とするのもある。
片方を俯瞰型とすれば、もう片方は没入型とでもいおうか。
バーンスタインのマーラーは、こんなわけ方をするのであれば、没入型ということになる。
シノーポリのマーラーも没入型といえるほどまでに近づいて、
それからつきはなしたところでのものかもしれない、と思うようになった。
先週、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニー、ワルターのマーラーを聴いていた。
どちらもコロムビア録音である。
昨晩、バーンスタインがヨーロッパに活動の拠点をうつし、
ドイツ・グラモフォンでのマーラーの再録音を聴いた。
第四番、五番をたてつづけに聴いた。
バーンスタインの旧録のマーラーとワルターのマーラーは違う。
でも、このふたりの違いよりも、バーンスタインの旧録と新録の違いの大きさに驚いてしまった。
なにも今回初めて聴いたわけではない。
バーンスタインの新録はよく聴いている。
バーンスタインの旧録とワルターにしても、頻繁に聴いていたわけではないが、何度か聴いている。
にも関わらずバーンスタインの変貌ぶりに驚いた。
旧録と新録とではオーケストラが違う。ニューヨークフィルハーモニーも二番、三番、七番がそうだが、
あとはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とウィーン・フィルハーモニーである。
それに録音方式も旧録と新録のあいだでずいぶんと変化(進化)している。
けれど、そういうことに起因する違いとは思えないほど、違っていたことに今回驚いてしまった。
バーンスタインのマーラーは没入型とはいえる。
新録でバーンスタインのマーラーを聴いていると、没入型というよりも一体型の演奏のように思えてしまう。