自己表現と仏像(その1)
音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、
自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。
五味先生の「西方の音」にそう書かれているのを遠い昔に読んでいる。
こう言っているベートーヴェンの音楽は、
ほんとうにベートーヴェンの自己表現なのだろうか、という疑問がある。
「西方の音」をはじめて読んだ時は、そんなことは思いもしなかった。
だがやたらと「自己表現が大切だ」的なことを目にしたり耳にしたりすることが多くなってきているから、
疑問をもつようになっているようだ。
オーディオでも、そんなことをいう人はけっこういる。
自分の音は自己表現である、だから自分の音を持つことが大切だ、という人がいる。
淡々と語る人いれば、力説する人もいる。
力説する人の、この手の発言をきいていると、
なぜこの人はこんなにも力説するのだろうか、ということに興味をもってしまう。
自分の音を聴いてくれ、そして自分の音を素晴らしい、といってくれ。
そういいたいわけではないだろうが、そうきこえてしまうことがある。
最近、私はいい音を追求していくことは、仏像をつくることに共通するのではないか、と考えるようになった。