Archive for category テーマ

Date: 9月 17th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その4)

オーディオマニアにとっての「純度」といえば、まず音の純度、ということになるだろう。
その音の純度を高めるために、音の純度を少しでも損なう要素を再生系からとり除いていく……。

その項の(その1)にも書いたように、接点がまずそう。
使い勝手は無視してでもとり除ける接点はすべて無くしていこう。そうすることで純度の劣化を最小限に抑える。
中にはヒューズをとりさってしまう人もいるだろう。
自分で使う機器であれば、けっしておすすめはしないが、そういう改造もできる。
ヒューズをとり除いてしまうような人だと、電源スイッチもなくしてしまうかも……。

そうやって接点をひとつでも多くとり除く。
音の純度のためには、さらには信号系から音を濁す原因となりやすい磁性体をなくしていくこともある。
直接電気信号(電源を含めて)がとおるところはもちろん、その近くにある磁性体も音に影響する。
これらも注意深くとり除いていくということは、
以前、ソニー(エスプリ)の広告について書いたところでふれている。

これら以外にもいくつも手法がある。
そしてそれらを根気よくひとつひとつ実行していくことで、音の純度の劣化はすこしずつ減っていく。
音の純度は高くなっていく。高くなれば、以前は気にならなかったところによる音の純度の劣化でも気になってくる。

そうやって、ひとつのアンプができ上ったとする。
これは妥協なきアンプと、はたしていえるだろうか。

アマチュアがあくまでも自分のために、そして自分の環境でのみ使用するアンプであれば、
そういえなくもない、という気はするけれど(それでも抵抗感はある)、
これがプロの作る、つまり製品としてのアンプだったら、妥協の産物、といえることになる。

ここが、アマチュアの立場とプロフェッショナルの立場の根本的に異るところであり、
これを自覚せずに、妥協を排した的なことを謳うメーカーの製品をどううけとるかによって、
その人のオーディオマニアとしての「純度」がはっきりとしてくる。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その3)

チェロの第一作は、Audio Palette と名づけられたフリケンシーイコライザーだった。
マーク・レヴィンソン自身も語っているように新しい会社の第一作としては、
それまで手がけてきたコントロールアンプやパワーアンプの製品化のほうが、
会社として軌道にのりやすいということはわかったうえで、あえてAudio Paletteという、
ジャンル分けの難しいモノを製品化している。

マーク・レヴィンソンはMLAS(マーク・レビンソン・オーディオ・システムズ)では、
第一作のLNP2を別にすれば、
コントロールアンプのJC2、そしてML6、パワーアンプのML2にしても、
レヴィンソン自身もいっているように「ピュアな音を追求するために信号経路のシンプル化」を徹底していた。

そういうマーク・レヴィンソンが、新しい会社「チェロ」では、
LNP2のトーンコントロール(3バンド)よりも多い6バンドのイコライザーで、センターチャンネルの出力、
位相切換えスイッチ、40Hz以下の低音のブレンド(モノーラル化)などの機能を併せ持つ。

直前のML6+ML2で目ざしていた世界とは、一見すると180度異るアプローチのように思え、
それまでのマーク・レヴィンソンのアプローチを徹底したピュアリスト的だと受けとめていた人たちにとっては、
チェロでの方針は、ピュアリストであることを放棄したように受けとめられても不思議ではない。
そのことはマーク・レヴィンソン自身がよくわかっていたことなのだろう。
だからこそ、「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」と語ったのだと、私は思っている。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その2)

「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」──、
こう語ったのはチェロを興したばかりのマーク・レヴィンソンだった。

ステレオサウンド 74号にマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。
この記事は、ほんらいある人に依頼していたものだが〆切ギリギリに、
その人から届いた原稿は分量も依頼したものよりも少なく、内容的にも残念なものだった。
インタヴュアーは、その人だったから、ほんとうだったら、このレヴィンソンの記事には筆者名が入るはずだった。

けれど時間的余裕もないし、書き直しを依頼したところで充分なクォリティの原稿があがってくる保証はない。
だから編集部でまとめて仕上げることになった。
しかもインタヴューを録音したテープからの文字起しは、当時速記会社に依頼していたが、
このときはその人が自分でやるということだったためテープ起しの原稿もなく、
テープに録音されたインタヴューを文字に起すところからやらなくてはならなかった。
そうやってなんとかまにあった記事だけに、印象に残っている。

テープを聞きながら、富士通のワープロ(親指シフトキー仕様)でレヴィンソンのインタヴューを文字にしていく。
その作業中に、個人的に惹かれ、いまでもつよく心に残っているのが、
冒頭に引用した「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」である。

マーク・レヴィンソンはアメリカ人だから当然英語で話しているわけで、
通訳の人が訳したのを、さらにすこし言い回しを変えているわけで、
レヴィンソンが、英語でどういったのかはいまではまったく記憶していないが、
「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」に、
当時のマーク・レヴィンソンの想いがもっともこめられていたように感じた。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(続々続45回転のこと)

ハーフ・スピード・カッティングにやや懐疑的な私だが、
それでもハーフ・スピード・カッティングにはこの方式のよさはあるはず、とは思っている。

たとえばプリエコー(ゴーストともいうこともある)の問題がある。
アナログ録音の時代には、録音されたマスターテープは巻いた状態で保存されるわけだが、
テープが重なっている状態では、転写という現象が起こることがある。
重なり合ったテープ同士が干渉し、
ごく低いレベルではあるがテープに記録されている磁気変化が積み重なっている部分にコピーされてしまう。

つまり無音であるところに、続いてはじまる曲が小さな音でコピーされ、それが音として聴こえる。
これから再生しようとするところの音が鳴ってくるところから、プリエコーと呼ばれる。
実際にはプリエコーだけでなくアフターエコーも生じている。

このプリエコーの主な原因はテープ録音に起因するものだから、
ダイレクトカッティングには生じないものと思われている人かもしれない。
だがテープ録音を介在しないダイレクトカッティング盤でも、わずかだがプリエコーが生じているディスクがある。

なぜ、こういう現象が生じるかといえば、
ラッカー盤に音を記録していくとき(カッティングしていくとき)、
振幅の激しい溝がたまたま無音溝と隣接していた場合、
カッティング時の振動によって無音溝をほんのわずかとはいえ変形させてしまうからである。
ラッカー盤がひじょうに硬質な材質であったならば、こういうプリエコーは発生しないだろうが、
実際にはラッカー盤はそうではなく、場合によっては隣接する音溝の影響による変形が生じている。

これはなにも無音溝に対してのみ発生しているわけではなく、
すべての音溝に対しても同じことがいえる。
ただプリエコー(アフターエコー)のレベルが低いため、無音溝でははっきりと聴きとれるが、
通常の音溝のところでは、そこに刻まれている音にマスキングされているだけの可能性もあるわけだ。

カッティング時のプリエコー発生は、あたりまえだがダイレクトカッティング盤だけの問題ではない。
通常のテープ録音をマスターとするレコードでも同じことは起る可能性はある。

そこで思うのは、このカッティング時の隣接する溝の変形は、
ハーフ・スピード・カッティングと通常のスピードでのカッティングではまったく同じなのだろうか。
感覚的にはハーフ・スピード・カッティングのほうが影響の度合いが少ないように思えるのだ。

Date: 9月 14th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その1)

なにか書きたいことが浮んできて、このタイトルをつけたわけではなく、
ただ、このタイトルが頭に浮んできたから、タイトルからなにか導かれるものがあるかもしれない……、
そういう気持で、また新しいカテゴリー(テーマ)をつくってしまった。

自分で書いておきながら、なぜ、オーディオマニアの純度、ではなく、オーディオマニアとしての、としたのかも、
すこし不思議に思っている。

たとえばピュアリスト、という言葉がある。
オーディオの世界では、肯定的な意味あいで使われることが多い。
音質追求のために使い勝手は無視する、ことも、ピュアリスト・アプローチとして受けとめられる。

入力切換えのセレクターの接点が音質をわずかとはいえ損なう。
だから接点をひとつで減らしていくために、
いい変えれば音質劣化をきたすところをひとつで減らすために入力切換えはいらない。
入力切換えが必要になるときは、ケーブルの差し替えで対応する。

そう説明されれば、納得できないことではない。
だからといって、それが果して、オーディオマニアとしての純度が高い、
といえるのだろうか、と疑問に思うことがある。

私には、こういう行為は、別項で書いている「複雑な幼稚性」ではないか、
もしくはそれに近いことではないか、と最近思えてきている。

私自身も、以前はそういうふうに考えて、そういうことをやっていたことがある。
音質劣化をきたす、と思われるところをできるだけ排除していく──。
だからというわけでもないが、こういうことを体験することを否定はしない。
積極的にすすめはしないが、やりたいと思ったならば一度徹底的にやってみるのはいいことだと思う。

オーディオは、ときにはそういうバカげたこと、幼稚なことに夢中にやって、
それこそが正しいと思えて、視野が狭くなっていることがあり、
いつかそれに気がつくものだ。

そして、こんな日々の積み重ねがバックボーンとなり、
このバックボーンこそが純度と関係している。
つまり重厚なバックボーンをもつことこそ、オーディオマニアとしての純度が高い、といえよう。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その11)

自己表現について考えていく前に、自己顕示について考えてみたい。

自己顕示欲については、ここで触れたように、
自己顕示欲を全否定するわけではない。

ただ……、と思う。
自分の音を誰かに聴かせることになったとする。
そのとき、この自己顕示欲を意識することにならないだろうか。

誰にも聴かせない──、どんな人に頼まれたとしても断わることができさえすれば、
そして家族にさえも聴かせない。
その音を聴くのは、世界に自分ひとりだけという状況をつくり維持していければ、
そこで鳴っている音は、自己顕示欲から解放され、無縁でいられるのかもしれない。

けれど、そこに誰かが存在することになれば、そうもいかなくなる。
ここで毎日書いている文章も、結局は誰かに読まれている。
つまりは、読んでくださっている方に向けての表現といえるところも当然あって、
そこ(そして底)には自己顕示欲が、どういうかたちにしろ、存在している。

あと何年こうやって文章を書いていくのかは私にもわからないけれど、
ひとつはっきりいえることは、最後まで自己顕示欲から完全に解放されることはない、ということ。

けれど、音の表現に関しては、もしかすると、自己顕示欲からの完全な解放が可能なのかもしれない。
それとも、誰にも聴かせなかったとしても、無理なことなのだろうか。

もうひとつ思うのは、自意識なき自己顕示欲は存在するのか、ということ。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かのシステムを調整するということ)

親しい間柄の人の音を聴かせてもらっているときに、
ときどき「どう調整したらいいか、どこを調整したらいいか」という話になることがある。

こういうときあれこれ言うことはあっても、原則としてそこにあるシステムの調整に手を出すことは、まずない。
なにもそれは面倒だからではなく、こまかいところまで口を出して手を出さないほうが、
ときに面倒というか、まどろっこしく感じもする。
それでも手は出さない。私が直接やったほうがずっと早く終ることでも、そのシステムの持主にやってもらう。
ときに手本が必要と思われることに関しては、手本を見せるけれども、それでも手は出さない。

それはあくまでも、そこにあるシステムは、その人のものだから、である。
そのシステムは、その人だけが触れて調整すべきもの、と私は思っているからだ。

Date: 9月 10th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(続々45回転のこと)

もうひとつ、倍速で回転させたアナログディスク再生の音を、76cm/secで録音して38cm/secで再生した音がある。
一度実験してみたいけれど、いまとなってはなかなか器材を揃えるのが大変。
試す機会は、これから先もないだろう。
どういう結果が得られるのか、想像するしかない。

いったい、どの音が、どんなふうに鳴るのだろうか。

じつは私がいちばん聴いてみたいのはアナログディスクを倍速で回転させた音である。
回転数が増せば、トレースの困難になることが顕在化してくる。
倍速で回転させてもトレースの安定したものを使うことになるし、各部の調整はしっかりと行なうことになるが、
トレースの問題をクリアーできれば、アナログディスク倍速を録った音が、いちばんいい音、
というよりも、私がアナログディスク再生に求めている音の良さを、もっとも色濃く持ってそうな気がしてならない。

これは考えての予測ではなくて、感覚的な直感による予感でしかない。
もし私の予感があっていたら、ハーフ・スピード・カッティングに対しての疑問がその分大きくなる。

とはいってもカッティングとトレースは、まったく別の運動であるから、
片方での結果が、もう片方の結果を予測するためのものとして有効かどうかは、正直わからない。
それにカッティングの経験も、当然ない。

だからどれだけ考えても……、というところがある。
ただそれでも直感的には、カッティングもトレースも「勢い」という要素を無視できない、と感じている。
これが、私のハーフ・スピード・カッティングに対する疑問につながっている。

Date: 9月 9th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(続45回転のこと)

たとえばこんなことを考えてみた。

ハーフ・スピード・カッティングが本質的に優れた方法であるならば、
アナログディスクの再生において、その逆、つまりハーフ・スピード・トレースもいいのか、ということである。

もちろんアナログディスクの回転数を半分に落してしまっては音楽にならない。
だからテープに録音して、その音を比較してみる。
ここで使用するテープデッキはテープスピードが変えられるものということでオープンリールデッキとなる。

通常回転で再生した信号を38cm/secで録音する。
ハーフ・スピードで再生したものを19cm/secで録音する。
再生時には、どちらも38cm/secでまわす。
ハーフ・スピード・カッティングと反対の手順を踏むわけである。

こうやって録音した音は、いったいどういう結果になるのだろうか。
ほとんど差がわからないほど、つまり同じ音になるのか、
それともハーフ・スピード・トレースしたほうが、より音溝を正確に信号に変換したと思わせる音になるのだろうか、
意外にも通常の回転数で再生したときの音が、いちばんよかったりするのだろうか。

Date: 9月 8th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(45回転のこと)

ステレオサウンド 45号に、マーク・レヴィンソンのインタビュー記事が載っている。
そのなかで、レコードのカッティングについて語っているところがある。
     *
音質という点から見ると、ディスクに直接カッティングするのに比べて、テープに録ったものをハーフ・スピードでカッティングする方が、実際に優れた面があると云えます。レコードのカッティングに関しての根本的な制約のひとつは、カッティング・ヘッドそのもののスルーレイトです。マーク・レビンソン・アクースティック・レコーディング社では現在のところまだハーフ・スピード・カッティングを行なってはいません。いま私たちはハーフ・スピード・コレクターを開発中で、これはちょっと考えるよりずっと難しい仕事なのです。
     *
マーク・レヴィンソンが語る、カッティング・ヘッドのスルーレイトが問題になるというのは、
彼が制作していた45回転のLPについての問題なのか、それとも通常の33 1/3回転のLPに対しても、
カッティング・ヘッドのスルーレイトが不足している、といいたいのかは、この記事でははっきりしない。

このカッティング・ヘッドのスルーレイトは、
33 1/3回転よりも45回転のLPをカッティングするほうがより問題になるし、
さらにオーディオラボの「ザ・ダイアログ」の78回転盤では、さらに大きな問題になってくる。

音のよいLPをつくるために回転数をあげると、再生側ではレコードのわずかな反りも、
33 1/3回転では問題にならなくても、
使用機材や調整の不備があれば45回転では顕在化してくることもあると同じように、
制作・製作側でも、回転数があがることのメリットを最大限に発揮するためには、
ただ単にいままでのやり方のまま回転数をあげれば済む、ということではないことが、
マーク・レヴィンソンのインタビュー記事を読むとわかってくる。

だが、それでもその問題の解決法としてハーフ・スピード・カッティングが、
はたして本質的な解決法だろうか、とは思っている。
たしかにカッティングの回転数を半分にする。
45回転ならば22 1/2回転、33 1/3回転ならば16 2/3回転にして、
テープデッキのテープスピードも、
38cm/secならば19cm/secに、76cm/secならば38cm/secにおとして再生することになる。

カッティングの回転数が半分になれば、カッティング・ヘッドのスルーレイトは等価的に高くなる。
これで問題解決、いい音のレコードができるのか、という直感的な疑問がわいてくる。

Date: 9月 8th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その29・追補)

昨夜(9月7日)の、「幻聴日記」の町田秀夫さんとの公開対談で「レコード演奏家」について、すこし語った。

「レコード演奏家」を英訳すると、町田さんが「幻聴日記」に書かれているように、Record Player となる。
菅野先生も最初「レコード演奏家」の英訳として、Record Player と書かれている。
その後、JBLのスタッフの「レコード演奏家」の概念について話し合われて、
英訳は Record Music Player と改められている。

ただRecord Player にしてもRecord Music Player にしても、そして「レコード演奏家」にしても、
オーディオにさして関心のない方にこれらの表現を使って、概念は伝わり難い。
レコード(アナログディスク、CDだけでなく記録されているメディアすべて)とオーディオとの関係、
それぞれの存在性について語っていかなければ、まず理解はされない、と思う。

「レコード演奏家」論をきちんと読んでいる人に対しては、
Record Player、Record Music Player、どちらもストレートに、その意味するところが伝わるし、
むしろ「演奏者」ではなく「演奏家」という表現に、
すこしばかり抵抗(そこまでいかなくてもそれに近いもの)を感じている人にとっては、
日本語での「レコード演奏家」よりも、
Record Player、Record Music Playerのほうがより抵抗感なく使えるのかもしれない。

私自身、菅野線瀬の「レコード演奏家」論には賛同・共感しても、
私自身の年齢もあってのことだが、「演奏家」という表現には中途半端な年齢にも感じていて、
まだ「演奏者」のほうがいいのだが、
「レコード演奏者」となると、なんとなく語感がしっくりこないところも、感じてはいる。

これらのことをふまえて、私としては、Player よりも、Reproducer としたほうが、よりいいのでは、と考える。

この項、それに別項の「音を表現するということ」でも書いているように、Re(リ)にあえてこだわりたい。
いまではHi-Fiと略されることが多いが、正確には High Fidelity Reproduction である。

Record Music Reproducer──、
これが、現在の私の「レコード演奏家」論に対する解釈でもある。

Date: 9月 8th, 2011
Cate: 録音

50年(その10)

テープやなにがしかのメディアに音を記録することを「録音」という。

昨日書いたことの、脳にいったん記憶して音を聴いているとすれば、
それは「憶音」と呼びたい。

Date: 9月 7th, 2011
Cate: 録音

50年(その9)

同じ場所で、同じ時間に、同じ音を聴いても、聴く人によって、その印象は同じところもあれば、
まったく異ることも珍しくはない。

同じ場所で、同じ時間といっても、厳密には、それぞれの人が坐っている位置にはわずかの違いがある。
そのことによる音の違いは当然あるわけだが、
ここでいっている受け手による印象が大きく異ることに関しては、そんなことが関係してのこととは考えにくい。

あきらかに、他の要素が関係しているはずである。
そう考えたとき、妄想じみた考えではあるが、人はその場で鳴っている音を聴いているのではなく、
実のところ、いったん脳に記憶にされた音を聴いているのではないだろうか。

つまり3ヘッドのテープデッキのような仕組みである。
録音ヘッドがテープに記録した磁気変化を、すぐ隣りにある再生ヘッドが読み取り電気信号へと変換する。
テープが脳にあたる。
ただひとつ違うのは、テープには「記録」されるのであって、脳には「記憶」されることだ。

記憶は、まわりの事象と無関係ではない。
むしろそういった事象と密接に関係している、と私は思う。
だから同じ音を聴いていても、人によって事象との関係性の広さ・深さは違う。
つまり脳にいったん記憶される音がすでに違っている。

音を聴くという行為が、それを再生しているのであれば、
そこで鳴っていた「音」が人によって違っていて、むしろ当然であり、
完全に同じであることの方がむしろおかしい、ともいえる。

Date: 9月 6th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その6)

80Hzから5kHzのバンドパスフィルターを通して、
国産の、ウーファーが30cm口径のブックシェルフ型スピーカーシステムを鳴らしたとしよう。

高域を5kHzでカットしているから、どのスピーカーシステムの音も、高域が伸びていないと、まず感じるだろう。
そしてしばらく、といっても数分間ではなく数十秒ほどそのまま聴いてみると、
高域が5kHzでカットしてあることをずっと意識させられる音を出すスピーカーシステムと、
意外にも耳が馴れてしまうのか、最初に聴いたときほど意識しない音を出すスピーカーシステムとに分れるはず。

高域の伸びが足りないことをずっと意識させられる音のスピーカーシステムでは、
そのまま音楽を聴きつづけていくことはしんどく感じられるようになる。
もう一方の、それほどナロウレンジになったことを意識させない音のスピーカーシステムでは、
そのまま音楽を聴きつづけていくことはできる。

なぜ、このようなことがおこるのか(前回書いたように実際に試したわけではないが、ほぼこうなるはず)。
それはスピーカーシステムそのものの音の質に関係している、と言われるだろう。
では、その音の質は、スピーカーシステムのどういうところと関係しているのか。

国産の30cm口径のウーファーをもつ3ウェイのブックシェルフであるなら、
どのメーカーのスピーカーシステムをもってきても、その周波数特性は80Hz〜5kHzは余裕でカヴァーしており、
ほぼフラットな特性でもある。
つまりこのことは80Hz〜5kHzのバンドパスフィルターを通して状態では、
周波数特性的には同じになるといっていい。
多少この帯域内において凹凸があっても、それすらもレベル的には小さい。

なのに高域が常に足りないと意識させる音と、そうでない音とに分れるということは、
聴感上の周波数特性的に差が出るということは、ほぼ間違いなく応答性・過渡特性に密接に関係しているはずだ。

Date: 9月 5th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その38)

12インチ・シングルでは、クラシックのディスクは出ない(まったく、というわけではないけれども)。
少なくとも私にとっては、12インチ・シングル = ケイト・ブッシュであり、
ロック・ポップスを堪能するためのメディアということである。

だから当時妄想していたのは、アナログプレーヤーを2台用意することだった。
1台はクラシックのディスクをうまく鳴らすために(つまり33 1/3回転用)、
もう1台は12インチ・シングル専用(45回転用)で、
プレーヤーについている回転数切替えを使うのではなく、
かけるディスクにおさめられている音楽の性格、傾向、鳴らし方がまるっきり違うのだから、
いっそのことそれぞれにうまくピントをあわせたプレーヤーを用意した方がいいのではないか、
そう考えて、リンのLP12を2台使いについて、妄想していたわけだ。

LP12は33 1/3回転専用のシングルスピード仕様だが、
モーターのプーリーを変えることで45回転のシングルスピード仕様にすることができた。

それぞれのLP12には、それぞれの目的(ディスク)に応じたカートリッジとトーンアームを組み合わせる。
33 1/3回転専用には、トーンアームはSMEの3009RかオーディオクラフトのAC3000MC。
ただオーディオクラフトにすると、ダストカバーが閉まらなくなる。

45回転専用には、12インチ・シングルの音楽によりぴったりとくるカートリッジを使いたい、
そうなるとEMTやエラック、オルトフォンといったヨーロッパ系のカートリッジではなく、
エンパイア、ピカリング、スタントンなどのアメリカのカートリッジをもってきたい。
これらは比較的軽針圧のものだから、トーンアームはSMEでも3009Rではなく、3009/SeriesIIIでまとめたい。
さらに贅沢が許されれば、それぞれにフォノイコライザーアンプも選びたくなる。

12インチ・シングルを楽しむためにできることは何があるのか。
こんなことをあれこれ妄想させるだけの「何か」が、
ケイト・ブッシュの12インチ・シングルから感じとれていたわけだ。