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Date: 1月 3rd, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その17)

JBLの4343への想いとは別に、コーネッタへの想いもつのっていった。
いつかは4343と夢見ていた──、けれど現実には10代の学生には手が届くモノではない。
なんとか手が届く範囲での憧れとしてコーネッタを見ていたわけだが、
けっしてそればかりともいえない。

コーネッタを買ったら、アンプは何にしようか、とHI-FI STEREO GUIDEのページをめくりながら、
組合せを考えていた。

コーネッタの価格はエンクロージュアとユニットを含めて16万円(一本)だから、
価格的バランスを重視するなら、アンプはプリメインアンプとなる。
となると第一候補はラックスのLX38がくる。

五味先生のオーディオ巡礼に登場された鷲見氏は、
IIILZにラックスのSQ38Fを組み合わされていたから、
第一候補としてLX38を外すわけにはいかない。

これでもきっと充分に満足のいく音が鳴ってくれるとは思っている。
それでもオーディオマニアとしての欲を捨て切れずにいる(まだ10代だったのだから)、
となるとセパレートアンプにしたい、という気持が同時にあった。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」の「くつろぎの城」の主は、
コーネッタをラックスのCL30、ダイナコのMarkIIIの組合せで鳴らされている。

タンノイだから真空管アンプ、
ということを優先してアンプを選んでいくと、さらに価格的バランスも考慮すると、
この時代では、たしかにラックスとダイナコの組合せは順当といえよう。

ダイナコの真空管アンプをアメリカ的ととらえている人もおられるだろうが、
実際にダイナコのアンプを使ったことがある人ならば、
真空管の選択を注意することで、意外にもアメリカ的な音が色濃くでるわけでもない。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その12)

何回目に聴いたときだったのかは、もう憶えていない。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤でだけ「パルジファル」を聴いていた時期、
マーラーの第二交響曲の第二楽章の美しい旋律に、ある日ふと胸打たれたように、
「パルジファル」に美しい旋律がある、ということよりも、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づいた。

気づいた、というよりも、そう感じるようになった。
それまでは宗教的な気配に意識がどうしても行きがちだった。
だからこそクナッパーツブッシュのバイロイト盤は、
シーメンスのオイロダインで聴きたい、と強くおもってしまう。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴いていたから、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づくのに時間がかかったのか、
それともクナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴きつづけてきたから、そう感じられるようになったのか、
正直どちらでもいい。

とにかく気づくことができた。

「パルジファル」はワーグナーの作品中、もっとも美しいのかもしれない。
そうおもうよになって、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、と思うようになっていった。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その1)

HI-FI STEREO SUIDEが10冊ほどある。
田中一光氏デザインの表紙のものだ。

記憶を呼び起こすために、パラパラとめくる。
あっ、こんな製品があった、あった、となる。

スピーカーやアンプ、プレーヤーに関してはあまりそんなことはないけれど、
アクセサリー関係となると、あった、あったと思う回数が増える。

ずいぶん様相が変った、というところもある。
あまり変らないな、と思うところもある。

1970年代と比べて、大きく変ったともいえるし、
別の面からみるとあまり変っていないともいえるのが、ラックである。

アンプやCDプレーヤーなどのオーディオ機器を収納する、あのラックである。

以前のラックは横型、縦型があり、
レコードも収納できるようになっていた。

いわゆるシステムコンポーネント用のラックともいえる。
中にヤマハのBLCシリーズは、マリオ・ベリーニによるデザインのラックで、
ヤマハもそのことを広告、カタログで謳っていたし、
BLC103は五味先生も使われていたラックだ。

このころのラックは、音質的に優れていることを謳っていたモノはひとつもない。
音質に考慮したラックが登場しはじめるきっかけとなったのは、
ヤマハのGTR1ではなかろうか。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その11)

ワーグナーの「パルジファル」にも、そういう美しい旋律があることを、
何度か、通しで聴いていくことで気づくことができた。

マーラーの第二交響曲の第二楽章の、美しい旋律に、
ほんとうの意味で気づいたあとは、それまで聴いてきたレコードを聴きなおし、
己の聴き方の未熟さを思い知った。

それでも気づくことができたから、いい。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤で「パルジファル」を聴いてきた。
1980年代、クナッパーツブッシュのバイロイト盤のほかにも、「パルジファル」のレコードはあった。
カラヤンがあり、ショルティ、ブーレーズのレコードがあった。
私が聴いてきたのはクナッパーツブッシュだけだった。

つまりは、クナッパーツブッシュのレコードしか、「パルジファル」に関しては持っていなかったからだ。
持っていないレコードは聴きようがない。
なぜ、ほかの指揮者のレコードを買わなかったのか。

特にこれといった理由はなかった。
私にとって二枚目の「パルジファル」はカラヤン盤である。

こんな聴き方を人にはすすめはしないけれど、
クナッパーツブッシュでのみ聴いてきたことを、後悔はしていない。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その10)

マーラーの交響曲第二番の第二楽章。
美しい旋律である。

初めてマーラーの第二交響曲を聴いた時にそう感じた。
感じたけれど、その時は、あとでふり返ってみると、なにもわかっておらずにそう感じていたことがわかる。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」でこう書かれている。
     *
マーラーの交響曲中でもおそらく彼の書いたもっとも美しい旋律の一つといわれる同じ『第二交響曲』第四楽章とともに、この第二楽章アンダンテ・モデラートの——たしかにシューベルトのレントラーを想わせる個所はあるが——弦にはじまる冒頭から第一主題への、旋律の美しさに無関心でいるためには余程鈍感な感性が必要だろう。
     *
実は、ここまで美しい旋律とは思えなかった。
幾多の、美しい旋律のひとつとしか、その時は感じられなかった。

それからいくつものマーラーの第二交響曲を聴いてきた。
マーラーの交響曲は、オーディオ機器の試聴にも使われることが多いから、
自分で買ったレコード以外であっても、聴く機会はあった。

そうやって聴いてきて、何枚目の第二交響曲のレコードだっただろうか、
誰の指揮だったのかも、いまとなってはなぜだか憶えていない。

それでも、その時の第二楽章の美しい旋律は、
それまで聴いて感じてきた美しい旋律は、表面的にしか捉え切れなかった美しい旋律であって、
その奥に、五味先生が書かれている通りの「美しい旋律」が流れていることに、やっと気づいた。

こんなにも美しい旋律なのか、ととまどうほどに、そう感じられた。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: 再生音

聴きたいのは……(蛇足)

こんなことを書くのは蛇足だというのはわかっている。
だから昨日はあえて書かなかった。

それでも、やはり書いておく。

五味先生は「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」と書かれている。
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストの音だからだ。」とは書かれていない。

文章のアマチュアであれば、
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストの音だからだ。」と書きたいところを、
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」と勢いで書いてしまうことはある。

だが五味先生はプロフェッショナルである。
いかに五味先生がプロフェッショナルであったかは、
ステレオサウンドの原田勲会長からきいたことがある。

プロフェッショナルの五味先生が
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」
と書かれているわけだ。

Date: 1月 1st, 2014
Cate: 再生音

聴きたいのは……

つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。
     *
これは五味先生の言葉だ。
短い、この一行は、私にとって、
オーディオ歴の最初に読んだこと──音に肉体の復活を錯覚できる──に直結する大事な一行である。

「五味オーディオ教室」の最初の章には、
再生音の肉体の介在する余地はないにも関わらず、
聴き手は「肉体の復活を錯覚できる」わけだが、
すべての再生音が「肉体の復活を錯覚できる」わけでもない。

肉体のない音が世の中には、ある。
それがどのくらいあるのかはわからないけれど、少なからずあるように感じるのは、
それなりの理由はあるけれど、いまここでは書かない。

「聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ」は、
「五味オーディオ教室」からオーディオが始まった私にとって、
長いこと考えてきたことへの答といっていいのかもしれない。

聴きたいのはピアニストである。

Date: 12月 31st, 2013
Cate: 1年の終りに……, 岩崎千明, 瀬川冬樹

2013年の最後に

今年は12月31日のブログに、
個人的なオーディオの10大ニュースを選んで書こう、と思っていたけれど、
結局、10も選ぶことができなかった。

ならば書くのをやめようかと思ったけれど、ひとつだけはどうしても書いておきたかった。

オーディオに関することで個人的なトップは、
ステレオサウンドから岩崎先生と瀬川先生の著作集が出たことだ。

ステレオサウンドが、なぜ30年以上も経ってから復刻・出版した、その理由はなんなのか。
私は部外者であるからはっきりとしたことはわからない。
私が考えている理由とはまったく違う理由によるのかもしれない。

理由は、でもどうでもいい。
本が出た、ということ。
出たことで生れてきた意味、
これをどう捉えるか、のほうが大事だからだ。

結果として、岩崎先生の「オーディオ彷徨」の復刻、瀬川先生の著作集は、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちに、つきつけている。

つきつけられている──、
そう感じていない人のほうが、実のところ多いのかもしれない。

感じていない人は、何をつきつけられているのか、も、わからないままだ。

Date: 12月 31st, 2013
Cate: 数字

100という数字(その7)

でかい音を、どう表現するか。

でかい音を聴いたことのある人が、その時について話す時に注意してきいていると、
あの音圧はスゴかった、と音圧で表現する人もいるし、
あの音量にはまいった、と音量で表現する人もいる。

意識して音圧と音量を使い分けているとは思えないからこそ、
ここでの音圧と音量の、いわば無意識の使い分け(というよりも選択というべきか)は、
おもしろいと思うこともある(そうでないこともある)。

音圧はsound [acoustic] pressure、
音量はthe volume、である。

Date: 12月 31st, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・番外)

今年はワーグナー生誕200年だった。
ルートヴィヒ」が12月下旬から公開されている。

「ルートヴィヒ」といっても、ルキーノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」ではなく、
ドイツの新作映画としての「ルートヴィヒ」である。

ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」は1990年ごろだったか、
完全版として銀座の映画館で上映された時に観に行っている。

同じタイトルであり、ワーグナーはもちろん、ふたつの「ルートヴィヒ」に登場しているとはいえ、
比較して観るものではないだろう。

ドイツ映画の「ルートヴィヒ」はあまり話題になっていないようである。
私も二、三日前に偶然知ったばかりだ。

おすすめできる映画なのかどうかもいまのところなんともいえないけれど、
ワーグナーを聴いてきた者には無視できないものは確かである。

Date: 12月 30th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その16)

コーネッタ(SSL1)の価格は、前に書いたように95000円(1本)。
コーネッタのキットが登場した時、
タンノイの10インチの同軸型ユニットの現行品はHPD295Aで、価格は65000円(1本)。

コーネッタの価格は160000円、ということになる。
このときのタンノイのスピーカーシステムで同価格となると、
バークレー(Berkeley)が、165000円。

バークレーは12インチ同軸型、HPD315Aがついている。
エンクロージュアはバスレフ型。

どちらが使いやすいか、といえば、おそらくバークレーのほうだろう。
コーネッタはコーナー型だし、フロントショートホーン付ということもあって、
セッティングの制約がいくつか出てくる。

それにエンクロージュアはキットだから、組み立ての手間もかかる。
それでも私はコーネッタが、いい。

同じ金額を支払うのなら、
どちらをとるかは違ってくるだろう。
扱いやすく、ユニットの口径も大きいバークレーをとる人もいれば、
私のようにためらうことなくコーネッタ、という人もいよう。

「コンポーネントステレオの世界」に登場したコーネッタの置かれた部屋で、
アンプはラックスとダイナコの組合せとQUADのペアだった。

五味先生はステレオサウンドの試聴室では、
コントロールアンプがGASのThaedra、パワーアンプはマランツの510Mという組合せだった。

Date: 12月 30th, 2013
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その1)

松下秀雄氏のこと(その2)
オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(「土」について)
オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(あとすこし「土」について)
この三つで、「土」にたとえていることがある。

土にたとえることと、
五日前に書いた、この項で、あどけない夢を忘れたくないから、と書いた。

つまりは、そうやって書くことは、これまで培ってきたもの(土)をたがやしているようにも感じてきた。
たがやすことを忘れてしまえば、その土には何が実るだろうか。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

Date: 12月 29th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その15)

五味先生がコーネッタで鳴らされたピアノのレコードは、
ラフマニノフ自演の「前奏曲」。

マランツ・ファーイーストがスーパースコープのシリーズとして出したもので、
ラフマニノフの生きていた時代には録音機はなかったわけで、
ピアノロールによる記録であり、それを鳴らしての録音である。

「よせばよかったのであろう。」と書かれている。
ラフマニノフの「前奏曲」は4343で、コーネッタの前に聴かれている。
     *
 さてト短調の『前奏曲』が鳴り出した。唖然とし、私は耳を疑った。狼狽しました。何たる下らん「前奏曲』か。極言すれば、もうラフマニノフではないのである。
     *
五味先生の文章はこの後も続いている。
そしてオーディオが抱える再生ということの難しさへの重要な問いかけともなることを書かれている。

コーネッタはいいスピーカーではある。
けれども、世の中にひとつとして完璧なスピーカーシステムが存在しないことは、
このコーネッタの音についての五味先生の文章が語っている。

それでもコーネッタは充分に優れたスピーカーだ、と私は五味先生の文章から感じていた。
クラシックを聴いていくのであれば、そうである、と。

「IIILZと〝オートグラフ〟では低音の伸びに格段の差はあるが、鳴り方そのものの質は変らぬ」
とも書かれている。

オートグラフとコーネッタとではエンクロージュアの構造も違い、サイズも大きく違う。
ユニットのサイズも15インチと10インチという差がある。
「低音の伸びに格段の差」があって当然で、
それをコーネッタに求めたところで、それは聴き手の無理な要求ということになる。

Date: 12月 28th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その14)

五味先生の書かれたものを、少し長くなるけれど書き写しておく。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
これを読めばコーネッタが欲しくなる、というものだ。
絶賛に近いではないか、と五味先生の文章をそう受けとめる人もいよう。
このあとに、五味先生はピアノのレコードを鳴らされている。

Date: 12月 26th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その13)

つまりはコーネッタの本当の音、と呼べる音を出しているのは、
ステレオサウンドの記事に載っているコーネッタ、それだけということになる。
ダイヤトーンが製作したモノだけ、ということになる。

だからといって、そのダイヤトーン製作のコーネッタだけが素晴らしい音で、
コーネッタ(SSL1)を購入し組み立てた人による音が、それよりも劣る、とは限らない。

私は耳にすることはなかったけれど、
ダイヤトーン製作のコーネッタよりもいい音を奏でているコーネッタは、きっとあると信じている。
スピーカーとは、そういうところがあるものだからだ。

コーネッタにはSSL1の他にも、いくつか出ている。
コーネッタの評判が良かったためであろう。

あるエンクロージュア・メーカーからは、15インチ同軸型ユニットように、
サイズを大型化したモノが出ていたし、
コーネッタと同じ寸法ながら、外観をオートグラフに似せたモノもあった。

それではコーネッタの音とは、いったいどんな音なのか。
ダイヤトーン製作のコーネッタの試聴記はステレオサウンドの記事に載っている。
これ以外に私がくり返し読んだコーネッタの音に関する文章は、
五味先生の「ピアニスト」である(新潮社「人間の死にざま」所収)。