Archive for category テーマ

Date: 11月 13th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その2)

以前、オーディオクラフトの試作スピーカーシステムAP320について書いた。

BBCモニターの音に惹かれていて、
ロジャースのPM510が欲しくて欲しくてたまらなかった当時の私には、
非常に気になるスピーカーシステムだった。

結局試作品だけで終ってしまった。
このAP320のことはステレオサウンド 65号掲載のオーディオクラフトの広告ぐらいしか情報がない。

AP320は、ソフトドーム型のトゥイーターを二基搭載している。
縦に一列、横に一列といった配置ではなく、前後に一列という、
おそらくそれまで例のない使用法である。

パッと見た目は手前のトゥイーターだけが目に入り、
後に配置されているトゥイーターにはすぐには気がつかないかもしれない。

手前のトゥイーターの周囲は、いわゆるバッフル板ではなく、
孔がいくつも開けられている。
パンチングメタルか、パンチングメタルのようなものである。

つまり後方のトゥイーターが発する音は、この孔を通して放射されるわけである。

二基のトゥイーターがどれだけ離されているのかはわからない。
10cm程度だとしても、それだけの時間のズレ、位相のズレは生じる。

ただ単に二基のトゥイーターを前後に配しただけでは、デメリットのほうが多いように思う。
けれど、そこに一工夫、いくつもの小孔を通して後方のトゥイーターの音は、
小孔の位置が仮想音源ともなる。

つまり実音源が前後にひとつずつあり、
手前の実音源の周囲に仮想音源がある。

たとえば小孔が開けられているものが、
537-500のようなパンチングメタルを何枚も重ねたものであったら、
そこにVery Near Fieldができるのではないのか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: カタチ

537-500におけるVery Near Field(その1)

537-500にしてもLE175DLHにしても、
パンチングメタルを複数枚重ねた音響レンズのところに仮想音源ができる。

昔の175は音響レンズが外せたそうだ。
外した音は、指向特性が鋭くなるばかりか、ホーンの奥に音像が定位するため、
ウーファーとの距離的ズレか気になってくる、といわれている。

175では試したことはないが、
スラントプレートの音響レンズも外した音を聴くと、同じ傾向を示す。

音響レンズは形状の違いはあっても、その位置に仮想音源ができる。
ということは、音響レンズの位置は、Very Near Fieldなのか、と思う。

スラントプレートの音響レンズよりも、
蜂の巣と呼ばれるパーフォレイテッド型は、Very Near Fieldがそこにできている──、
そう思えてならない。

もちろんダイアフラムのところにもVery Near Fieldもある。
実音源のところにVery Near Fieldがあり、仮想音源のところにもVery Near Fieldがある。

そう考えられるとしたら、537-500への考え方は修正の必要が出てくる。
いまでは音響関係のシミュレーションソフトがある。

ほとんどが研究開発用であり、個人が使うには高価すぎるものばかりだが、
これらのシミュレーションソフトを使って537-500を徹底的に解析していったら、
音響レンズ新たな発展を遂げるのだろうか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その19)

「狂気の如く」、「狂気の再現」と、
中野英男氏の文章にある。

1970年代のオーディオのキーワードは、
実のところ、「狂気」だと私はずっと感じてきている。
私だけではない、30年以上のつきあいのあるKさん。

私より少し年上で、10代のころJBLを鳴らしてきたKさんも、
同じように感じている。

JBLの4343、4350には、確かに狂気がある。
4344、4355になって、その狂気は薄れたように感じる。

マークレビンソンのアンプ、
JC2、LNP2、ML2、ML6あたりまでは、マーク・レヴィンソンの狂気があるし、
GAS、そしてSUMOのアンプには、ジェームズ・ボンジョルノの、
レヴィンソンとは違う狂気があって、それは音として顕れていた。

これだけではない、他にもいくつも挙げていくことができる。
けれどスペンドールのBCIIIは、私の頭の中では狂気と結びつくことはなかった。
音を聴いていないということもそうだが、BCIIの音からしても、
当時のイギリスのBBCモニターの流れを汲むスピーカーの音からしても、
そこに狂気がひそんでいる、とは考えにくかった。

けれど中野英男氏は、非常に限られた条件下とはいえるが、
「狂気の如く」「狂気の再現」とまで書かれている。

BCIIIも1970年代のオーディオである。
BCIIのまとめ方のうまさからすると、
BCIIIはやや気難しさをもつようにも感じるまとめ方のようにも感じるが、
それゆえに狂気につながっていくのだろうか。

Date: 11月 12th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その10)

ステレオサウンド 31号(1974年夏号)に、
「音は耳に聴こえるから音……」という記事が載っている。

岡原勝氏と瀬川先生による実験を交えながらの問題提起である。
そこに、こういう対話がある。
     *
瀬川 最近特に感じるのですが、受け取る側も作る側も科学というものの認識が根本から間違っているのではないでしょうか。
 これはことオーディオに限らないと思いますが、一般的に言って日本人はあらゆるものごとに白黒をつけないと納得しないわけですよ。ふつう一般には、科学というものは数字で正しく割り切れるもので、たとえば歪みは極小、f特はあくまでフラットでなくては……というように短絡的に理解してしまっている。そのようには割り切れないものだという言い方には大変な不信感を抱くようなのですね。
 寺田寅彦や中谷宇吉郎らの、日本の本物の科学者というのは、科学を真に突き詰めた結果、科学さえも最後は人間の情念と結びつくというところまで到達していると思うのですが。
岡原 それで思い出したのですが、JISでスピーカーの規格を選定する時、大変困ってしまいまして、八木(秀次)先生にご意見を伺いにいったのです。
 すると『音響製品の規格を決めようとしているのでしょう。それならば聴いて良いものが良い製品だという規格を作ればいいのではないですか。』と仰るのですよ。
瀬川 さすがに本当の科学者ですね。しかし、八木先生のような現代日本最高の科学者にして初めて言える言葉ですね。
 ところが、今の科学というのは先に何か条件が決まっていて──しかもそれさえ誰が決めたのだか分らないようなものですが──まだ欠けたところが沢山あるが数字だけは整っているような条件にきちんと合わせてものをつくりさえすれば、それがいいはずで、それが良くないというのは聴いている人の方が悪いと言いかねない。それが今の大多数にとっての科学のような気がするのですが。
岡原 それは現在の科学は仮定の上に成り立っている学問だからなのですよ。
 ある境界条件を与え、その中だけならばそれでいいのかもしれないが、その条件の与え方そのものが間違っているのですよ。
 それより先にもっと大切なことがあるのに、それを無視して境界条件を決めてしまい、その中で完全なものができたと言っても仕様がない。
     *
この短期連載記事は、学ぶところが実に多い。
ステレオサウンドから出た瀬川先生の著作集には、残念なことに収められていない。

ここに出てくる八木先生とは、八木アンテナで知られる八木秀次氏である。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その13)

「いろ(ジャズ)」のワイドレンジと、
「かたち(クラシック)」のワイドレンジとがある、と(その1)から書いてきている。

10月のaudio wednesdayで、グッドマンのDLM2からJBLの075へと変更した。
音が大きく変化したことは、
別項『アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音)』で書いている。

075にして、心地よい朝日のような明るさを感じた、とも書いた。
そのことと密接に関係しての「いろ(ジャズ)」のワイドレンジだと感じた。

明るくなることではっきりとしてくる色がある。
DLM2の音は見えにくかった(聴こえにくかった)、
もしくは見えてなかった(聴こえてなかった)色が、075は提示してくれる。

それは、昔からいわれているようにトゥイーターを替えれば、
トゥイーターの受持帯域だけでなく、中域も低域も変ってくる。

だから色が見えはじめてくる。
まだまだ十分な「いろ(ジャズ)」のワイドレンジではないが、
075によって、ひとつの手応えを得ることができた。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その9)

「急性心不全の患者がいたとします」──法事の席上で中年の医者が話しはじめた。
 故人は五十歳余りでこの世を去った銀行員である。東大を出て一流銀行に入りながら、これからという時に身体をこわし、不遇と憂悶のうちに身罷った。医師は故人の旧友。開業医を営んで三十年近くなる。彼には親友の死が「近代医学」に起因するもののように思われてならない。死因について、大学病院は種々の説明を加えたが、手遅れと化学薬品の副作用がその大きな部分を占めていたことは否定できなかった。
 医師は話を続ける。「心不全なんて病気は聴診器一本で九九%わかるんです。いや、一〇〇%と言い切っていいかもしれません。私の場合、心不全の徴候を見付けたときは確認のために一枚レントゲンを撮り、緊急処置を施して患者を休ませ、何日かして症状が治まったのち、もう一度治癒確認のため写真を撮り、余病の有無を調べてOKであれば退院させます。今迄それで失敗した例はありません。大家はレントゲンなんか撮らないんです。ところが、大病院の若い医者は、病因を確定するために十数枚、ときには七十枚もレントゲン写真を撮影する。聴診器による診断、人間の感性による診断を信用しないし、自信もないんです。その結果、患者の病因が確定するまでに数日、悪くすれば十日以上かかってしまう。心不全だということが証明されたときには、患者の身体が参ってしまっていることすらあります。手当の遅れに加え、検査疲れがひどいからです。検査薬の投与による余病併発だって考えられる。そうしたら大変です。余病の病名確定のため、また検査が始まります。医師にとって一番大切なことは、患者の苦痛を和らげ、生命を助けることである筈なのに、近頃の若い医者は病名の確定を最優先に考え、患者自身の生命を二義的に扱う傾向があるような気がしてなりません。残念なことです」
 ここ一、二年、私はことあるごとに「オーディオ機器の開発はもう一度原点に立ち返るべきだ」と言い続けてきた。ステレオは一体何のために開発されたのか。いうまでもなく、それは「音楽」を聴くために、「音楽」をよりよく味わうために開発されたのではなかったのか。ところが、最近のレコード、最新のオーディオ機器を聴くたびに、私はひどく不安な、たまらなく虚しい気持に襲われることが多くなった。「何か大切なものが失われている、失われかけている」そんな叫びをあげたくなることの多いこの頃である。
     *
中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」のなかから「或る医師の歎き」からの引用だ。

最近、テレビ朝日のドラマ「ドクターX」を見ている。
仕事関係の知人が、以前から「おもしろい」といっていた。
「見た方がいいですよ」ともいっていた。

といわれてもテレビを持っていないし、
日本のドラマを見るくらいなら、見たい海外ドラマがまだまだあるのに……、と思う私は、
医療ドラマならば、もっとおもしろいものが海外ドラマにいっぱいあるよ、と、
その知人に言い返していた。

数ヵ月前から、amazonのPrime Videoで「ドクターX」の配信が始まった。
テレビがなくとも見れるようになったから、試しにシーズン1から見始めた。
(シーズン4まで見終って、シーズン1の内田有紀の美しさは、
なにか特別なものがあるように感じた。)

「ドクターX」の舞台は大学病院である。
ドラマなのはわかっている。
それでも、病名確定のために、かなりの時間が割かれている描き方がある。

「或る医師の歎き」は、いまから40年ほど前のことである。
時代は変っているのはわかっている。
いい方にばかり変っているわけでもないし、
悪い方ばかりに変っている、とも思っていない。

けれど病院での検査は、40年前よりも増えている。
より正確な検査が可能になっている、ともいえる。

聴診器ひとつでわかることに、いくつもの検査をしているのではないか。
聴診器による診断は、人間の感性による診断である。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その11)

ある個人が、完璧な波形再現を目指してスピーカーの開発に取りかかったとしよう。
波形再現を目指しているのだから、耳で聴いての結果よりも、
まずマイクロフォンを使っての測定、そして波形の比較となる。

個人で無響室をもっている人は、まずいない。
個人の場合、自身のリスニングルームが測定の場となろう。
その時、部屋の音響特性の影響から少しでも逃れるために、
マイクロフォンをスピーカーのごく近くに置く。

1mでも、部屋の影響を無視できるわけではない。
もっと近づけて測定することになろう。
50cmか30cm、それとももっと近く10cmくらいのところにマイクロフォンを立てるかもしれない。

部屋が広ければ、そしてデッドであれば、
マイクロフォンの距離はそこまで近づけなくてもすむだろうが、
部屋が小さくなれば、それだけスピーカーとマイクロフォンの距離は近づく。

そうなってくると、Near Fieldと呼ばれるところにマイクロフォンが来ることだってある。
さすがにVery Near Fieldまでマイクロフォンを近づけることはないと思うが、
それだってまったくない、とはいえない。

Very Near Field、Near Field、Far Fieldの違い、
そこでの音のふるまいを十分に理解したうえで、マイクロフォンを立てての測定なのだろうか。

測定の難しさは、ここにある。
測定をしている本人が測定していると思っている現象ではなく、
違う現象を測定していることだってある。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その10)

スピーカーから出た音をマイクロフォンで拾い、その波形を測定する。
この時、メーカーならば、無響室にスピーカーを置き、
スピーカーの正面1mの距離にマイクロフォンを立てて測定する。

スピーカーの音圧は、距離の二乗に反比例することは知られている。
しかも、この現象は、音源から、ある一定以上離れたところから起る現象である。

音源に近いところでは、音圧がまったく変らないわけではないが、
変化はゆるやかで、しかも必ずしも低下するわけでもない。

音響学では、距離の二乗に反比例して音圧が低下する領域を、Far Field、
音源に近く、音圧の変化がゆるやかな領域を、Near Fieldと呼ぶ。
Near Fieldのことを、近傍音響ともいう。

さらにもっと音源に近づいた領域、
この領域の空気は、慣性をもったマスのような性質をもっている、とある。
この領域をVery Near Fieldと呼ぶ。

このことについて、私はこれ以上の知識をもたないが、
スピーカーにごく接近した領域と離れた領域とでは、
音圧ひとつとっても違う変化を見せる、ということは知っておいた方がいい。

それから1mぐらいの距離で測定する場合、
低音に関しては、ほんとうのところはわからない、とは昔からいわれている。
低音の波長は長いからであって、
スピーカーから1mの距離は、音速を340m/secとするならば、340Hzの波長である。
つまり1mの距離があれば、340Hzの音は一波長分確保されている。

けれどそれ以下の音に関しては、1mは一波長の中に、マイクロフォンがあるわけだ。
34Hzで10mの波長。20Hzならば17mの波長。
これだけの距離をとって測定することは、
そうとうに大きな無響室か、
広いグラウンドにスピーカーを植えに向けて埋めて、
グラウンド面を巨大なバッフルとして、上空高くにマイクロフォンを置いて、ということになる。

何がいいたいかというと、
スピーカーに接するかのようにマイクロフォンを置いて測定することの難しさというか、
不確実さがある、ということだ。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その15)

盃と酒。
酒に月が映っている。
その「月」を武士が呑む。

そういうシーンを、時代劇で何度か見ている。

盃は、(さかずき)であって(さかづき)ではない。
それでも、そんな時代劇のシーンを見ると、(さかづき)なのかもしれないとふと思う。

月はひとつしかない。
盃の中の酒にある月は、ほんとうの月ではない。
あくまでも映った月であっても、それを呑む。

盃だけでは、そこに月は映らない。
酒という液体があってこそ、月が映り、呑める。

盃は器だ。
オーディオも、その意味で器である。
月は、原音と考えることもできる。

酒は、なんなのか。

Date: 11月 10th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(書いていて気づいたこと)

(その19)を書こうとしていて、気づいたことがある。
岡先生と瀬川先生のBCIIIの評価というか、
使いこなし(おもにスタンドに関すること)に関係することで、思い出したことがある。

岡先生は長身だ、ということだ。
ステレオサウンドで働くようになって、
岡先生と初めて会った時に、背が高い、と少し驚いた。

瀬川先生と岡先生の身長差はどのぐらいなのだろうか。
ふたりが立って並んでいる写真は、ステレオサウンド 60号に、
小さいけれど載っているとはいえ、身長差を正確に測れるわけではない。

瀬川先生は、熊本のオーディオ店に何度も来られていた。
背が高い、という印象はなかった。

身長差があまりなかったとしても、
椅子に坐る姿勢でも、耳の高さは変ってくる。
前のめりになって聴くのであれば、耳の位置は低くなる。

スピーカーの高さは、床との関係もあるが、
耳との関係も大きい。

昔のオーディオ雑誌には、
マルチウェイのスピーカーシステムであれば、
トゥイーターの位置と耳の位置を合わせた方がいい、と書かれていた。

これがウソだとまではいわないが、
あまり信じない方がいい。
ユニット構成とクロスオーバー周波数との関係で、
バランスのいいポジションは変ってくるし、
たとえば598の3ウェイシステムであれば、
30cmコーン型ウーファーで、スコーカー、トゥイーターがドーム型、
しかもクロスオーバー周波数も各社ともそう大きくは違っていなかった。

専用スタンドがある場合に、それを使い、
用意されていなければ、そのころはいくつかのメーカーからスタンドが発売されていて、
それを使って聴く。
スタンドの高さもそう大きく違うわけではない。

あるレベルまで調整を追い込んだうえで、頭を上下させて音を聴く。
バランスがもっともいいのは、トゥイーターの高さではなく、もっと下にある。
すべての3ウェイ・ブックシェルフ型がそうだというわけではないが、
たいていはウーファーとスコーカーのあいだあたりに耳をもってきたほうがいい。

スピーカーユニットの数が多くなり、縦に配置されていれば、
垂直方向の指向特性は水平方向に比べて、問題が生じやすい。
それもあって耳の高さを変えていくだけで、音のバランスの変化の大きさは、
ユニットの数に比例傾向にある、ともいえる。

スペンドールのBCIIIは4ウェイである。
垂直方向の指向特性はステレオサウンド 44号と46号に載っている。
BCIIの垂直方向の指向特性は45号に載っている。
ふたつのグラフを比較すると、BCIIIは多少問題がある、といえる。

なにしろBCIIIを聴いていないのではっきりいえないが、
耳の高さが変るだけで、音のバランスは変りやすい、はずだ。

瀬川先生は「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
専用スタンドよりも10cmぐらい下げた状態のほうがよかった、といわれている。

岡先生と瀬川先生の身長差、
特に聴いているときの耳の高さの違いは、10cmぐらいだったのかもしれない。
だとすれば、スタンドに関する疑問が解消する。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: 楽しみ方

想像は止らない……(その2)

JBLのパラゴンのオマージュモデルを、
JBL以外のスピーカーメーカーがつくったら……、
こんな想像をしてみるのは楽しいだけでなく、けっこうしんどい作業でもある。

タンノイ、ヴァイタヴォックス、ソナスファベールなどが候補として浮ぶ。
日本のメーカーだったら、やはりヤマハだろうか、と考えるし、
アメリカのハイエンドオーディオメーカーがもし手がけたとしたら、
いったいどうなるのか──、ここまで来ると想像の範囲を超えてしまいそうだが、
あり得なそうでありながら、もしかしたらあり得るかも……、と思えるところが、
パラゴンはある、と私は感じている。

パラゴンは、あのカタチで完成しているではないか、
あれをいじることは無理だよ──、
そう言ってしまったら、そこで終ってしまう。

ヴァイタヴォックスだったら……は、
私にとって、パラゴンのユニットをヴァイタヴォックスのユニットに入れ替えたら……、
というところから始まっている。

タンノイならば、同軸ユニットを使うのであれば、
ユニットの配置をどう処理してくるのか。
比較的想像しやすいのは、パラゴンではなくメトロゴンだろう。

メトロゴンに同軸ユニットを、と考えたことのある人はきっといるはず。

けれど、ここで考えるのはあくまでもパラゴンである。

どのメーカーであっても、パラゴンの中央の湾曲した反射板を省くことはできない。
この反射板にしても、オマージュモデルは、メーカーが違えばずいぶんと違ってくるはずだ。
それから反射板両脇のホーン開口部。
ここの処理も、開口したままにしておくメーカーもあればそうでないメーカーもあるだろう。

パラゴンのオマージュモデルで、私がまず想像しはじめたのは、
全体の姿ではなく、反射板、開口部とか、そういった部分部分から、であった。

そういう始め方をすると、ソナスファベールだったら──、
正確にいえばフランコ・セルブリンだったら──、とまず思ってしまう。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その18)

中野英男氏は、927Dstのイコライザーアンプについても書かれている。
     *
 ところで、これまでの話は未だ前座に過ぎない。たまたま瀬川、松見の両先生が来られたのを機会に、我が家のEMTのトーン・アームを新型の997型に替えようということになった。アームを交換した結果、再生音の質が一段と向上したことは言うまでもない。そのあと、瀬川さんが「中野さん、このプレーヤーにはイクォライザーが内蔵されているでしょう。それを通してアンブのAUXから再生するととてもいいんですよ」と言い出したのである。
 私のEMTは前にも書いた通り十年も前に買ったものだ。その頃のアンプ、特にトランジスター・アンプの技術水準を考えて私は慄然とした。いかに瀬川さんのお言葉とは申せ、これだけは従えない、と思った。ところが同席した役員のひとりと、トーン・アームの交換を手伝ってくれた技術開発部の中村課長が「やってみましょうや、会長。ものは試しということがあります」としきりに言う。実はEMTのイクォライザーは購入した当時、半年余り使用したが、どうも性能が思わしくないので取り除き、アームから他のプリアンプに直結していたという経緯がある。当時のライン・アップはマランツのモデル7と9B、或いはマッキントッシュのC22とMC275、スピーカーにはJBLのパラゴンとボザークのB410を使っていたような気がする。ソリッドステート・アンプ黎明期における名器ソニーのTA1120の出現する前後の話である。その時は、我が社の技術担当重役や若手のエンジニア、その他うるさがたの諸氏が立ち会って下した結論に基づいてイクォライザーをカット・アウトしたのであり、勿論私もその結果に納得していた。
 永いこと使わなかったイクォライザーをカムバックさせるのは大仕事であった。瀬川さんと中村君は汗を拭きながらラグ板の銹落しまでしなけれぱならなかった。十年間ターン・テーブルの下にほっておかれたにも拘わらずEMTのイクォライザーは生きていた。そして、そこから出た音を聴いた瞬間、その場に居あわせた人々の間に深い沈黙が支配したのである。
 小林秀雄の言葉に「その芸術から受ける、なんともいいようのない、どう表現していいかわからないものを感じ、感動する。そして沈黙する」という一節がある。本当の美しさ、本物の感動は人を沈黙させる。沈黙せずに済まされるような、それが言葉で表現できるようなものであれぱ、美と呼ぶに値しないであろう。あの瞬間、私の居間を支配した静けさはまさしく本当の美しさに対する沈黙であった。音楽だけが流れている。そして、それを取り巻く異様なまでの静寂。
(「さらにまたEMTについて」より)
     *
なのでBCIIIとKA7300Dとの組合せでも、間違いなく内蔵のイコライザーアンプの出力を、
KA7300DのAUX入力に接続されているはずだ。

「音楽、オーディオ、人びと」を読めば、中野英男氏が、
スピーカーにしてもアンプにしても、一組ではなく、いくつもあることがわかる。
KA7300Dの何倍、それ以上の価格のアンプもいくつもあるなかでKA7300Dを試されていて、
しかも他の、どんなに高級なアンプでも聴かせることのなかったアルゲリッチの「狂気」を、
その音に感じられている。

「音楽、オーディオ、人びと」は1982年に買って読んでいる。
もう35年前になる。

アルゲリッチは、そのあいだにさまざまなディスクを聴いてきている。
システムもいくつもの音で聴いてきている。

それでもまだアルゲリッチの「狂気」を、私はまだ聴けずにいる。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その17)

その3)にトリオの創業者の中野英男氏の文章を引用した。

「音楽、オーディオ、人びと」で、アルゲリッチについてかかれた文章がある。
『「狂気」の音楽とその再現』である。
     *
 アルヘリッチのリサイタルは、今回の旅の収穫のひとつであった。しかし、彼女の音楽の個々なるものに、私はこれ以上立ち入ろうとは思わない。素人の演奏評など、彼女にとって、或いは読者にとって、どれだけの意味があろう。
 私が書きたいことはふたつある。その一は、彼女の演奏する「音楽」そのものに対する疑問、第二は、その音楽を再現するオーディオ機器に関しての感想である。私はアルヘリッチの演奏に驚倒はしたが感動はしなかった。バルトーク、ラヴェル、ショパン、シューマン、モーツァルト──全ての演奏に共通して欠落している高貴さ──。かつて、五味康祐氏が『芸術新潮』誌上に於て、彼女の演奏に気品が欠けている点を指摘されたことがあった。レコードで聴く限り、私は五味先生の意見に一〇〇%賛成ではなかったし、今でも、彼女のショパン・コンクール優勝記念演奏会に於けるライヴ・レコーディング──ショパンの〝ピアノ協奏曲第一番〟の演奏などは例外と称して差支えないのではないか、と思っている。だが、彼女の実演は残念ながら一刀斎先生の鋭い魂の感度を証明する結果に終った。あれだけのブームの中で、冷静に彼女の本質を見据え、臆すことなく正論を吐かれた五味先生の心眼の確かさに兜を脱がざるをえない心境である。
 問題はレコードと、再生装置にもある。私の経験する限り、彼女の演奏、特にそのショパンほど装置の如何によって異なる音楽を聴かせるレコードも少ない。
 一例をあげよう。プレリュード作品二十八の第一六曲、この変ロ短調プレスト・コン・フォコ、僅か五十九秒の音楽を彼女は狂気の如く、おそらくは誰よりも速く弾き去る。この部分に関する限り、私はアルヘリッチの演奏を誰よりも、コルトーよりも、ポリーニのそれよりも、好む。
 私は「狂気の如く」と書いた。だが、彼女の狂気を表現するスピーカーは、私の知る限りにおいて、スペンドールのBCIII以外にない。このスピーカーを、EMT、KA−7300Dの組合せで駆動したときにだけアルヘリッチの「狂気」は再現される。BCIIでも、KEFでも、セレッションでも、全く違う。甘さを帯びた、角のとれた音楽になってしまうのである。このレコード(ドイツ・グラモフォン輸入盤)を手にして以来、私は永い間、いずれが真実のアルヘリッチであろうか、と迷い続けて来た。BCIIIの彼女に問題ありとすれば、その演奏にやや高貴の色彩が加わりすぎる、という点であろう。しかし、放心のうちに人生を送り、白い鍵盤に指を触れた瞬間だけ我に返るという若い女性の心を痛切なまでに表現できないままで、再生装置の品質を云々することは愚かである。
     *
BCIIIに、プリメインアンプのKA7300D。
KA7300Dは、1977年に登場、価格は78,000円である。
当時としては中級クラスのプリメインアンプである。

アナログプレーヤーのEMTはカートリッジのTSD15のことではないし、
930stのことでもない。
927Dstのことである。

1977年ごろまでは927Dstは250万円だったが、
約一年後には350万円になっていた。
価格的にそうとうにアンバランスな組合せだが、
アルゲリッチの「狂気」が再現される、とある。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その16)

岡先生と瀬川先生の組合せの記事を読むかぎりでは、
BCIIIは、それほどアンプを選ぶようには思えない。

瀬川先生は予算の都合でサンスイのB2000にされているが、
予算があれば、もう少し上のクラス、
具体的にはラックスの5M20シリーズ、トリオのL07MII、オンキョーのIntegra M507を挙げられている。

おそらくコントロールアンプにC240を選ばれているから、
予算の制約がなければ同じアキュフェーズのP400にされたかもしれない。

とはいえ記事中では、
スタンドのこと、BCIIIのセッティングに関することに気をつけるようにくり返されている。

岡先生も、アンプ選びが難しいとは語られていない。
ヤマハのC2aとB3の組合せ以外に、
ラックスのLX38、パイオニアのExclusive M4は、
パワーが小さいこともあってか、
《レコードの音が完全に鳴りきっていないような》もどかしさを感じるとあるが、
100Wクラスのアンプであれば、十分というふうにも読める。

実際のところはどうなのだろうか。

facebookには、アンプ選びが重要なのかも……、とあったし、
中低域あたりにくぐもった印象があった、と聴いたことのある人のコメントがあった。

くぐもったという点に関しては、
元がBBCモニターということからしても、
使いこなし、セッティングの未熟さからくるものと思う。

アンプに関しては……、どうなのだろうか。

Date: 11月 9th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その15)

岡先生はBCIIIの組合せについて、
《第一級のレストランへ行って、そこのシェフのおすすめ料理を食べいている、といったところがある》
といわれ、
UREIの813の組合せは、
《たとえばリード線をかえるとこんなふうに音が変わるぞとか、そういったことの好きなファン向き》、
パイオニアのCS955の組合せは、
《自分の部屋で毎日いじってみたいなという意欲をそそられる》とされている。

瀬川先生は、違う。
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このBCIIIは、なかなか難しいところのあるスピーカーなんてす。イギリスのスピーカーのなかでも、KEF105に似た、真面目型とか謹厳型といいたいところがあって、響きを豊かに鳴らすというよりも、音を引き締めるタイプのスピーカーなんです。
 そして、やや神経質な面があって、置き方などでも高さが5センチ上下するだけで、もうバランスがかわってくる、といったデリケートなところがあります。そのへんをよく知ったうえで、使いこなしをきちんとやらないと十分に生きてきません。
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だから岡先生はBCIIIのスタンドをそのまま使われて、
スタンドの価格も組合せ合計に含まれている。

瀬川先生はステレオサウンド 44号の試聴記でも書かれているように、
専用スタンドを使われていない。組合せ合計にもスタンドの価格は含まれていない。

高さが5cm上下するだけでバランスが変ってくるし、
専用スタンドの高さより10cmぐらい下げた状態のほうが、
ステレオサウンドの試聴室ではよかった、ともいわれている。

いうまでもなく岡先生も瀬川先生もステレオサウンドの試聴室で聴かれている。
試聴中の写真をみると、ふたりとも部屋の長辺の壁側にスピーカーを設置されている。

それでもスタンドのことひとつにしても、岡先生と瀬川先生は反対のことをいわれている。
BCIIIの音は聴いていないだけに、
BCIIIの岡先生と瀬川先生の組合せの違いだけでなく、
そこでの鳴らせ方の違い、ここのところをもっと知りたいと思っても、
「コンポーネントステレオの世界 ’79」には、それ以上のことは載っていない。