Archive for category テーマ

Date: 3月 15th, 2019
Cate: ディスク/ブック

THE DREAMING(その2)

20代のころ、
私のオーディオはケイト・ブッシュの“THE DREAMING”をどう鳴らすかが、
大きなテーマの一つとして、ずっとあった。

LPが発売されたとき、イギリス盤の他にも日本盤も買っている。
音の点ではイギリス盤なのだが、
どうしても日本語訳が欲しくて、日本盤も買っていた。

イギリス盤の“THE DREAMING”を聴いての不満は、
日本盤で解消されることはなかった(当り前のことだが)。

CDが登場してからも、三枚ほど買っている。
リマスターとか、そういうことではなく、
当時ヨーロッパのCDは入荷時期によってプレス工場が違っていることが多かった。

“THE DREAMING”も最初に買ったCDは西ドイツプレス、
二枚目と三枚目はイギリスプレスだったが、工場が違っていた。

それぞれに音の違いは、確かにある。
それでもスタティックな印象は,常にあった。

ならば、そういうものだと諦められるといいのだが、
オーディオのおもしろい、そして不思議なことは、
意外なところで、そうでない音を聴かせてくれることがある。

“THE DREAMING”に関しても、そういえることがあった。
1985年12月、SUMOのTHE Goldの中古を、秋葉原で見つけた。

欲しい、と思っていたアンプだっただけに、その場で購入を決めた。
とはいえ、THE Gold(にかぎらずボン所る設計のアンプ)は、
故障率200%と冗談めいて語られていた。

そういうアンプだから、The Goldが届いてまずやったことは、
分解して、各部のクリーニングだった。

プリント基板も、パワートランジスターを固定しているネジまで、
クリーニングできるところはすべてやった。
そして組み立てての音出しである。

Date: 3月 14th, 2019
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その26)

100Hzから4kHzまでの帯域をほぼフラットに再生する、ということ。

ステレオサウンド 70号に、
岡先生の「わが家のJBLスーパーウーファー騒動顛末記」が載っている。

70号は1984年。
このころJBLからは18インチ口径のウーファー搭載のB460、
15インチ口径ウーファー搭載のB380といったスーパーウーファーが登場していた。

当時の岡先生のシステムは、かなり大がかりであった。
詳しいことを知りたい方は、70号をお読みいただきたい。

ここで70号の岡先生の記事を取り上げているのは、
岡先生がシステムのフラットを目指した結果、
100Hzから4kHzまでフラットに仕上げられているからだ。

そこのところを引用しておく。
     *
わが家の場合は100Hz以下は仮に記録紙ではフラットにちかい状態にしても、聴感との折りあいがつかない。同様に、リスニングポジションで5kHz以上を完全にフラットにすると、再生された音楽は極端なハイあがりになってきかれたものではないということは、オーディオをかじっているひとならば常識といえるだろう。高域のロールオフをどのくらいのカーヴにするかはいろいろな説があるが、ぼく自身は経験上4k〜8kHzのオクターヴ間をほぼ3〜6dB、その上は2〜3dBの偏差にはいっているのがいいように考えている。
 一応こういう目標をたてて、マイクの位置と高さをいろいろと試したあげくに、最終的なポイントをきめて、L・Rのバランスも含めて、100Hzから4kHzを1dB以内、100Hzから8kHzのLRのレベルバランスを0・5dBにおさえこむまでに、ものすごく時間がかかってしまった。おかげさまで、歌人から、毎日、ピーピーとんへな音ばかり出しているという苦情が出たほどである。
     *
ここでも、100Hzから4kHzという、40万の法則が出てくる。
当時は、そのことに気づかなかった。
いまごろになって、100Hzから4kHzという帯域がフラットであること、
そこでの40万の法則との関係性について考えることになった。

Date: 3月 13th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

audio wednesdayは、毎月第一水曜日だから、
次回までは四週間か五週間となる。

3月は6日、次回4月は3日。
四週間である。

あと三週間で、メリディアンのULTRA DACが聴ける。
これが、あと四週間でないのが、嬉しい。
わずか一週間の違いであっても、
待ち遠しい楽しみがある場合の一週間は長い、とても長く感じる。

三度(みたび)ULTRA DACまで、あと三週間だ。
ULTRA DACを聴くのは三度目になるから、
今回は少し実験的なことをしてみたい、と思っているけれど、
実際に三週間後、ULTRA DACの音を聴いていると、
そんなこと後回しでいいや、と思えてくる。

とにかく聴きたいディスクをじっくり聴きたい気持になってしまうからだ。
愛聴盤をぜひ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 3月 13th, 2019
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(デザインの強度・その2)

その1)は、さっきまで「簡潔だから完結するのか(番外)というタイトルだった。

(その2)を書くつもりはなかった。
けれど先週読んだ、ある対談に「強度が高いデザイン」という表現が登場した。
この表現に刺戟され、続きを書く気になったし、
(番外・その2)とするのも、ちょっとアレだな、と思い変更した。

その対談とは、賀来ゆうじ・三浦建太郎、二人のマンガ家によるものだ。

その伍)に、強度の高いデザインという表現は出てくる。

賀来ゆうじ氏の発言に出てくる。
     *
賀来:自分が描いている作品の中でも、楽しい部分でもあり気を遣う部分でもあるんですけど、三浦先生のキャラクターデザインがとても気になっているんです。たとえば自分が好きな作品に永井豪先生の『デビルマン』がありまして、永井豪先生の描かれるデザインって、自分なりの言葉になるんですが“強度が高い”と感じるんですよね。誰が描こうと『デビルマン』の怖くてかっこいい永井先生の要素が出てくるんです。もし少女漫画家さんが描いたとしても、怖くてかっこいい、崇めそうになってしまう感じがデザインに埋め込まれていると思うんですよ。僕はそれを“強度が高い”デザインと呼んでいて、そこを目指しているんです。
     *
強度が高いデザインの一例としてのデビルマン。
永井豪氏の他のマンガのキャラクター、
たとえばマジンガーZも強度が高いデザインといえる。

強度が高いデザイン──、
このことを基準にいろんなキャラクターをふり返えれば、
ミッキーマウスは、三つの円のシルエットだけで、それとわかるわけで、
相当に強度が高いデザインということになるのか。

円のシルエットをもつキャラクターで日本で有名なドラえもん。
意外にも、ドラえもんを何も見ずに描くとなると、
けっこうデタラメなドラえもんになったりする例を、けっこう見ている。

となると、意外にもドラえもんは、強度がそれほど高くないデザインとなるのか。

Date: 3月 13th, 2019
Cate: よもやま

清進商会の閉店

秋葉原の清進商会が、今月末に閉店する。

ラジオ会館が2011年に建て替えのため閉店し、2014年に新たに開店したときに、
清進商会が、以前と変らぬ規模で健在だったことは、意外でもあり嬉しくもあった。

私自身は、清進商会でオーディオ機器を購入したことはないが、
友人数人は、ここでいくつか購入している。

いまも秋葉原に行けば、十回に一回くらいは清進商会を覗く。
代り映えしない品揃えのようで、時々、意外なモノがあったりする。

ずっと以前からある中古オーディオ専門店である。
私が上京したころのラジオ会館は、ほぼすべてオーディオ関係の店舗だった。
三栄無線があったし、光陽電気、キムラ無線もあった。
他にも店名を忘れてしまっているが、いくつも店舗があった。

それらが一つ欠け、二つ欠け……、と消えていった。
清進商会は残ってきた。

それでも今月末で終る。
特に寂しいという気持は、私にはないが、
平成最後の年に、昭和そのままのオーディオ店が、一つなくなるのは事実だ。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その12)

100%理想の録音、100%理想の再生(部屋を含めて)が可能になったときに何が起るか。
そういう時がいつくるのかわからないし、
実際にその時を迎えてみないことには、想像だけでは語れないことがいくつも出てくるはずだ。

それでもひとついえることがあると考えるのは、音量について、である。
100%理想の録音を100%理想の再生をするのであれば、
音量設定は聴き手の自由にはならなくなる。

100%理想の録音を、100%理想の再生を行うということは、
そういうことである。
音量を、ほんのわずかでも再生時に聴き手の自由にしてしまったら、
もうそれは100%理想の再生から遠ざかることになる。

私たちは、もうあたりまえのようにボリュウムを操作する。
同じ曲をかけるにしても、昼と夜とでは音量も違ってくることがあるし、
独りで聴くのか、誰かと一緒に聴くのかでも違ってこよう。
気分によっても体調によっても変ってくる(というか変えてしまう)。

音量の自由が奪われてしまったら、
それはオーディオといえるだろうか。

このことをたいした問題ではない、と考えるか、
重大な問題と考えるか。

オーディオの出発点ともいえるアクースティック蓄音器。
アクースティック蓄音器には音量調整という機能は、元からなかった。

電気蓄音器になり、はじめて音量が調整(設定)できるようになった。

100%理想の録音と100%理想の再生が可能になっときに、
音量についてどう考えるのか。
時代を遡って考える必要が出てくるのかもしれない。
(私は、そこまでは生きていないであろう。)

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その21)

先日、ある人と話をしていた。
瀬川先生の話が出た。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と実感のこもった感じでいわれた。
私より六つ上の人で、
西新宿にあった山水のショールームで定期的に行われていた「チャレンジオーディオ」、
行かれたことがある,という。

けれど、当時はオーディオはまだまだブームだった。
瀬川先生の「チャレンジオーディオ」は盛況だったときいている。
実際、すごい人の多さだったらしい。

その人は、その人のあまりの多さにめげてしまって、
そのまま帰ってしまったそうだ。
定期的に行われていたから、また行ける、という気持があってのことだろう。

その機会が訪れることはなかった。
だからこその「瀬川先生に会いたかったなぁ」という後悔である。

瀬川先生が亡くなられて今年の11月で38年が経つ。
それほどの月日が経ってもなお「瀬川先生に会いたかったなぁ」という気持が、
強くその人の心には残っている。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」ということばを聞いた日に、
私はステレオサウンド 210号を読んだ。

黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」を読んだ日である。

「瀬川先生に会いたかったなぁ」と話してくれた人は、
ショールームの奥の端っこでいいから、その場に残っておくべきだった──、
という後悔が残る──、
そのことを強く実感していた。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その11)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号に書かれていることを、
ここで思い出す。
     *
 しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき究極の姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
 まあそれは冗談で、少なくともアンプの音の差は、縮まりこそすれなくなりはしない。その差がいまよりもっと少なくなっても、そうなれば我々の耳はその僅かの差をいっそう問題にして、いま以上に聴きわけるようになるだろう。
     *
52号の特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」からの引用である。
ここではアンプのことだけを書かれているが、
《入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず》、
録音の現場で鳴っていた音を、そのまま再生の現場(家庭)で鳴らさせるようになったら、
《もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがいなど一切なくなってしまう》わけだ。

それに使いこなしなどということも、ここでは無関係になってしまう。
誰が鳴らしても、同じ音がする──、
録音の現場での音がそのまま鳴ってくれる──、
いわゆに原音再生の理想が100%実現されたとして、
瀬川先生と同じように《索漠とした味気ない世界》と感じるか、
素晴らしい世界と感じるか──、
私ははっきりと前者である。

けれど、世のすべてのオーディオマニアがそうだとは思っていない。
後者の人も少なくない(というか多い)のではないのだろうか。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その10)

七年前から「ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)」というテーマを書いている。
一年ちょっと、このテーマで30本以上書いてきた。

どんなものであろうと、非可逆圧縮を絶対に認めない、というオーディオマニアは、
原音→げんおん→減音という発想はしないだろうし、
こんな発想はおかしい、ということになるだろう。

ここで使っている減音という言葉の意味あいとは違うが、
録音、再生どちらにも、情報欠落が生じる箇所が、それこそ無数にある。

マイクロフォンが音の疎密波を電気信号に変換する時点で、
情報の欠落はすでに生じている。
それを増幅してミキシングコンソールへ伝送する時点でも、情報の欠落は生じる。

ケーブル一本を信号が通るだけで、まったく情報の欠落が生じないといえるだろうか。
接点でも同じだ。

こんなことを一つひとつ挙げていくようなことはしない。
延々と書きつづけなければならなくなるからだ。

情報の欠落と同時に、欠落する箇所では、何かが元々の信号に加わる。
ノイズが加わったり、歪だったり、
測定できる要素として、このくらいであっても、
機械的な共振、電気的な共振などによっても何かが加わる。

これらの情報の欠落と、何かが加わることを極力排除していく方向が、
技術の向うべき途であるのはわかる。

あと十年後、二十年後……、どのくらい未来なのかはなんともいえないが、
そういう時代が来るのかもしれない。

そんな時代が来たとして、オーディオマニアにとって理想といえる時代なのか。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

知識人とは何か(その2)

エドワード・W・サイードの「知識人とは何か」を読み終えたわけではない。

第三章の「専門家とアマチュア」は読み終えている。
この章に、こうある。
     *
 では、知識人にかかる圧力は、今日、どのようなかたちで存在しているのだろうか。そしてそれは、わたしが専門主義(プロフェッショナリズム)と呼んだものとどのようにかかわるのだろうか。ここで論じてみたいのは、知識人の独創性と意志とを脅かすかに思われる四つの圧力である。これら四つの圧力のうち、どれひとつとして特定の社会にしかみられないというものはない。どれも、あらゆる社会に蔓延しているのだが、その蔓延ぶりにもかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。
     *
エドワード・W・サイードのいう四つの圧力については、ここでは引用しない。
ぜひ「知識人とは何か」を手にとってほしい。

ここで考えていきたいのは、サイードのいうところのアマチュア主義についてである。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その4)

四時間における変化要素はいくつもある。
アンプやCDプレーヤーのウォーミングアップのこともあるし、
スピーカーに関しても、少々意味あいが違うが、やはりウォーミングアップといえることはある。

特に喫茶茶会記のスピーカーのように、
私を含めて、複数の人が鳴らしているスピーカーでは、
前に鳴らしていた人の癖のようなものを払拭するという意味でも、
ある一定の時間は必要となる。

たいてい18時ごろから音を鳴らしはじめる。
三時間後、21時すぎあたりからの音が、鳴りはじめてきたな、と感じられる音である。

だから最初にかけていたディスクは、21時すぎにもう一度かけるようにしている。
「Cinema Songs」も、もう22時近かったけれど、もう一度鳴らした。

「Cinema Songs」には、
ボーナストラックとして12曲目に「セーラー服と機関銃 Anniversary Version」が収められている。
1981年の、この歌を、当時はそれほどいい歌とは感じてなかった。
ヒットした曲だから、一番の歌詞は記憶していた。

二番、三番の歌詞はそのころはほとんど知らなかった。
二番、三番の歌詞まで、つまり「セーラー服と機関銃」という歌を最後まで聴いたのは、
それほど昔のことではない。

20年ほど前に、薬師丸ひろ子の歌が無性に聴きたくなった。
新品で買ったもの、中古で買ったもの、
薬師丸ひろ子のCDを揃えた。
そのとき初めて「セーラー服と機関銃」を最後まで聴いた。

三番の歌詞、
 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

ここまで聴いて、いい歌だなぁ、と思った。
三番の、ここのところは聴くだけでなく口ずさむこともある。

重い荷物を、実際の重たさ以上に重たそうにもつ人が少なくない。
そういう人が少なくないように、昨今は特に感じる。

そういう人は笑顔を見せない、しんどそうな顔をする。

Date: 3月 10th, 2019
Cate: High Resolution

High Resolution to Higher Resolution(複雑化?・その1)

「MQAのこと、リファレンスのこと」に、facebookでコメントに、
プログラムソースの多様性はいいけれど、現実にはお金がかかる、というのがあった。

確かにそう感じるところはある。
それに複雑化といっていいのか、少し迷うところもあるが、
そうなりつつあるとも思う。

MQAの登場を、メリディアンのULTRA DACでその音を聴いて私は歓迎しているけれど、
新たなフォーマットが一つ増えたことは確かだし、
しかも世の中に登場したCDプレーヤーで、すべてのディスクフォーマットが再生できる機種は、
一つもない(はずだ)。

通常のCD、SACD、DVD-Audio、Blu-Ray Audio、MQA-CD、
これらすべてを再生できる機種は、私の知る限りない。

オーディオマニアからすれば、そんなことは当り前のように受けとってしまいがちだが、
オーディオにあまり関心のない人たちからすれば、不思議なことのようにうつるのではないだろうか。

CDプレーヤー単体で、高価なものならば500万円を超えている。
でも、この非常に高価なCDプレーヤーは、すべてのディスクフォーマットを再生できない。

別に、できないことを批判しているのではない。
それが現実であり、すべてのディスクフォーマットを満足のいく音で聴こうとしたら、
数台のCDプレーヤー(CDプレーヤーという呼称は便宜的に使っている)が必要となる。

私はメリディアンのULTRA DACにぞっこんだが、
ULTRA DACでSACDを聴こうとしたら、リッピングしたファイルを再生するか、
ダウンロードで購入できるのであれば、そういう方法しかない。

以前別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)」で、
ハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない、と書いた。

DSDも2.8MHzから始まって、5.6MHz、11.2MHzとなり、
このあたりで落ち着くのかなぁ、と思っていたら、22.4MHzも出てきた。

PCMも同じである。
どこまで周波数は高くなるのだろうか。
ビット数も同じだ。

まさしくハイアーレゾ(Higher Resolution)になっている。
それでもハイエストレゾ(Highest Resolution)とはいえないのが現状なのだろう。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その1)

別項「MQAのこと、ステレオサウンドのこと」で、
第一特集は小野寺弘滋/傅 信幸/三浦孝仁/柳沢功力/和田博巳と五十音順なのに、
第二特集は山之内正/土方久明/逆木 一と五十音順ではないことを指摘した。

210号を手にして、既視感もあった。
どこかで見た記憶がある、と。

なので書店に行き、音元出版のNet Audio Vol.33をパラパラめくった。
山之内正、土方久明、逆木 一の三氏は、私のなかでは音元出版の筆者というイメージがあるからだ。
特に山之内正氏は、音元出版の編集者だったことも強く関係している。

Net Audio Vol.33には、ライターズセレクションという記事がある。
山之内 正、土方久明、逆木 一、鈴木 裕、岩井 喬、角田郁雄の六氏が登場されている。
この名前順にである。

そう、最初の三人の登場順とステレオサウンド 210号の第二特集の登場順は一致している。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その2)

七年前に「情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情)」を書いている。

ステレオサウンド 210号の「オーディオファイル訪問記」を読んでいたら、
そこに「音情」とあった(212ページに載っている)。

それを見て、そういえば以前書いていたなぁ、と思い出した。
自分で書いておきながら、もう七年前なのか……、と思っていた。

210号の「オーディオファイル訪問記」に登場されている桑原光孝氏は、
おそらく私と同世代の方だろう。
あと数年で定年とあるし、
大学に入って初めて買ったステレオサウンドが63号ともあるからだ。

そして歌謡曲をよく聴かれる、とある。
そうかそうか、と思う。

私が先に「音情」を使ったと主張したいわけではなく、
瀬川先生の文章を読み感銘し、歌謡曲をよく聴いて、という人だから、
音情が思い浮ぶのだろう、と思ったからだ。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その3)

黒田先生は、
《薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶり》
と以前、ステレオサウンド 80号にそう書かれていた。

先日のaudio wednesdayで最初に鳴ってきた音は、
とうてい楚々とした声とはいい難かった。

こういう時は、きちんとセッティングをやっていき、
そのあいだ「Cinema Songs」を鳴らしつづけていた。

18時くらいに鳴らしはじめ、
なんとか19時くらいには、薬師丸ひろ子らしい特徴が聴きとれる程度にはなっていた。

今回は「Cinema Songs」だった。
毎回、そういうわけではない。
前回はクルレンツィスのマーラーの交響曲第六番だったり、
「THE DIALOGUE」だったりする。

そんなわけでCDプレーヤーのなかに「Cinema Songs」が入っていたから、
19時からの開始にも、そのまま鳴らしつづけた。

毎回こんなことをやっているけれど、その度に思っているのは、
18時から19時までの音の変化は、けっして小さくない。
この一時間の音の変化を聴いていれば──、ということだ。

仕事の関係で19時すぎにならないと来れない人は仕方ないけれど、
早く来られるのであれば、この時間帯の音の変化を聴かないのはもったいない。

鳴り始めの音は、それほどいいわけではない。
そんな音は聴きたくない──、のであれば、仕方ない。
それはそれでいい。

けれど、私がaudio wednesdayで聴き取ってほしい、と思っているのは、
約四時間のなかでの音の変化である。

19時以前に、すべてのセッティングをすませておくことはできる。
けれど毎回、いくつかを残して、四時間のうちに何度か音を変えていっている。
それは音の変化を聴き取ってほしいからである。