Archive for category テーマ

Date: 5月 12th, 2019
Cate: audio wednesday

第101回audio wednesdayのお知らせ(Over The Rainbow)

audio wednesdayは、毎月第一水曜日なのだから、
1日から7日のどこかになるわけで、絶対にそれより後になることはない。

つまり6月10日になることは絶対にないわけだ。
ならば6月ということで、今回のテーマは“Over The Rainbow”を聴くにする。

1922年6月10日は、ジュディ・ガーランドの誕生日である。
今年秋には映画「JUDY」が公開される。

だから今回のテーマの一つとして、
“Over The Rainbow”のさまざまなカバーを持ち寄って聴きたい。

私が持っていくのは、“JUDY AT CARNEGIE HALL”である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: ディスク/ブック

音の表現辞典

音の表現辞典」(中村明 著・東京堂出版)を今日、書店で見つけた。
ほとんど行くことのない辞典コーナーで、目に留った一冊だった。

ちょうど別項で「タンノイはいぶし銀か」を書いている。
帯には、
《さまざまな音声・音響をどう語り、微妙なニュアンスの差をどう表現してきたのか? 素のはそうやオノマトペ、比喩表現を中心とする数々の工夫の跡をたどる。》
とある。

読みはじめたところで、読み終ったわけではない。
いぶし銀という表現が出てきそうなところに、さっと目を通しただけだが、
残念ながら、いぶし銀と出てこないようだ。

それでも関連しそうなところがいくつある。

「音の表現辞典」を読んだからといって、
優れたオーディオ評論が書けるようになるわけではないが、
読まないのと読んだのとでは、違ってこよう。

「音の表現辞典」には、【透】と【澄】の項目がある。
このブログでは、瀬川先生が、透明よりも澄明をよく使われいてることを取り上げている。

ステレオサウンド 210号を見ていたら、
山本浩司氏によるメリディアンの218の新製品紹介文のなかに、
この澄明が使われている。

《プライスタグが信じられない切れ味のよい澄明なサウンドを聴くことができ》
とある。

ここでの試聴ディスクは、MQA-CDのようであり、
MQA-CDの音は、確かに透明と書くよりも、澄明と表現したくなるよさがある。

「音の表現辞典」の【澄】のところには、こうある。
     *
 三島由紀夫の『金閣寺』には、「金閣、この不均整な繊細な建築は、濁水を清水に変えてゆくような濾過器のような作用をしていた」と、金閣という建築を「濾過装置」に見立てた奇妙な比喩表現が現れ、次いで、「人々の死後のぞめきは、金閣から拒まれはせずに、吹き抜けのやさしい柱のあいだへしみ入って、やがて一つの静寂、一つの澄明にまで濾過された」と展開する。
     *
【透】のところからも引用したくなるが、
興味のある方は、ぜひ「音の表現辞典」を手にとってほしい。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その1)

このごろ芽ばえてきた感覚として、なにかに呼ばれてきたのか、というのがある。
そんな気がするというだけであって、なにに呼ばれているのか、はっきりとしない。

それでも呼ばれていた、呼ばれてきたのだろうと思うようになっている。
それがなんなのか、おそらくわからないであろう。

ただそんな気がしている、というだけのことだ。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その58)

オーディオの想像力の欠如は、オーディオにおける思考、経験の空白を埋められない。
埋められないことで生じるものがある。

Date: 5月 9th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、パヴァロッティのこと

MQAのサイトのニュースのページに、こうあった。
     *
MQA Format Versatility

Decca Records, the iconic British label celebrating its 90th anniversary this year, has collaborated with MQA on a masterpiece project “Luciano Pavarotti Life in Art”. MQA worked closely with Decca to deliver the legendary tenor’s complete catalogue, including previously unheard recordings, in pristine MQA audio. The files are presented as a limited edition ‘digital box set’ on an Onkyo digital audio player – available for Munich demos – in a bespoke handcrafted wooden case, alongside several ‘money can’t buy’ related experiences and artefacts.
     *
2月14日、別項「Hi-Resについて(ユニバーサルミュージックのMQA)」で、
パヴァロッティがMQAで聴けるようになったことを紹介した。

それでもすべてのパヴァロッティの録音がMQAで聴けるようになったわけではない。
今回のMQAとデッカのコラボレーションの詳細はいまのところ不明だし、
私の英語力はあやしいレベルなのだが、
それでも“complete catalogue”とあるのだから、すべてのパヴァロッティの録音なのだろう。
それがMQAで聴けるようになる。

もう何度も何度もくり返しているが、
MQAで聴く人の声(歌)はほんとうに素晴らしい。

デッカもMQAもよくわかっている、とおもうのは、
パヴァロッティだから、である。

bespoke handcrafted wooden caseとは、これであろう。

Date: 5月 8th, 2019
Cate: ちいさな結論

評論(ちいさな結論)

いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ。

Date: 5月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その9)

わかりやすさを求めることの弊害、
それを提供する弊害について考えていると、
わかってもらえている、という思い込みがあるような気がしてくる。

誰かにわかってもらいたい──、
こんなに努力しているのに、
こんなにさまざまな知識を身につけているのに、
なのに誰も(自分を)評価してくれない、わかってくれない──。

何を発言する、何かを行動する。
けれど周りの反応が薄いか、返ってこない。
どこか冷たい視線のようなものすら感じることがある。
いたたまれなくなってくる。

そんな場からは足が遠のいていく。

そういう場もあれば、
何か発言すれば、何か行動すれば、
すごいですね、とか、教えてください、とか、
そんな反応が周りから返ってくる場がある。

どちらの場を選ぶか。
ほとんどの人が後者の場を選ぶだろう。

けれど──、と考える。
ほんとうに前者の場の人たちは、そういう人たちなのか、と。
そして後者の場の人たちは、表面的に、そういう反応をしているだけではないのか、と。

前者の場は、いたたまれなくなるだろう。
それでも、ほんとうにその場にいる人たちは、あなたをまったく見ていないのか。
実は、きちんと見てくれているのかもしれない。
あなたはとても未熟なのかもしれない。
その上で、あまやかすことなく、突き放すような態度をとっているのかもしれない。

後者の場は、居心地はいいだろう。
それはほんとうの意味での居心地のよさなのか。
ぬるま湯にいつのまにかどっぷり浸かってしまっていた、
しかもそのぬるま湯は、ひどく濁っているのかもしれない。

なのに、わかってくれている──、そういう思い込みがあって、
わかってほしい、という欲求から、
前者の場を離れて後者の場を選んでいたら……

どちらを選ぶかは、その人の自由である。

Date: 5月 7th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その24)

5月4日は、写真家の野上眞宏さんから「来なよ」と誘われていた飲み会の日だった。
行くつもりでいた。

けれど夕方、雹が振ってきて、さらに大変なことになっていた。
こんなことが起るの? といいたくなることが起っていた。

それがおさまって後片づけをしながら、
「しまった、動画をとっておけばよかった」と悔やんだけれど、
その時はそんな余裕はまったくなかった。

行けないな、と思っていた。
けれど、とりあえずなんとかした。
なんとかなれば、行こう、という気が起きてくる。

行くことにした。
片づけは完全には終ってなかったけど、行くことにした。

18時集合だったけれど、一時間ほど遅れて到着した。
私を含めて十一人集まっていた。
大半が初対面の人たち。

行ってよかった、と思った。
以前の私ならば、大変なことが起った時点で、
完全に行く気を失っていたし、取り戻すこともなかっただろう。

でも元号も令和になったし、という、どうでもいい理由をつけて、出掛けていた。

この日は日付が変る直前まで盛り上っていた。
終電の関係でお開きになったけれど、電車の心配がなければもっと遅くまで続いていたはず。

集まった人たちはみな濃かった。
こういう人たちに囲まれていると、自分の薄さを感じる。
(私は)狭い世界で生きているよなぁ……、とわかっていることを実感する。

だからこそ楽しいし、
オーディオをずっとやってきたからこそ、この場に参加できていることも実感していた。

Date: 5月 6th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、ボブ・スチュアートのこと

MQAとボブ・スチュアート。

ボブ・スチュアートのサイトがあるのを今日知った。
BOB TALKSという。

英語のサイトである。
なのでボブ・スチュアートは、Bob Stuartと表記されている。
いまになって気づいた。

スチュアート(Stuart)は、artで終っていることに。

BOB TALKSに、こう書いてある。
“High resolution is an experience, not a specification … ”

Date: 5月 6th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その1)

大久保に、spicy curry 魯珈(ろか)という店がある。
カレー店である。

私が、魯珈を知ったのは、たまたま前を通ったときで、開店してそう経っていない時だった。
この時は並ぶことなくすんなり食べられた。

でも、その直後にテレビで紹介されたようで、行列ができるようになった。
食べれば、行列ができるのも納得する。

二回目も、運が良かったのかすんなり食べられた。
でも三回目は行列(といってもそれほど長くはなかった)だった。

これが2017年のことだ。
2018年は一度も食べていない。

2018年1月に、テレビ番組の情熱大陸で店主が登場してからは、行列はすごくなった。
並ぶ気も失せるほどに長くなっていた。

2018年は一度も行っていないのでどうなのか知らないが、
2017年は、店主(女性)一人でやっていた。
店も狭い。大勢が一度に入れる店ではない。

期間限定のカレーもあるから、また行きたい(食べたい)と思っていても、
2019年も難しそうである。

魯珈のカレーは美味しい。
東京都内にどれだけのカレー店があるのか知らない。
魯珈と同じくらい美味しい店もあるだろうし、
魯珈も美味しい店かあっても不思議ではない。

それでも魯珈のカレーをまた食べたいとおもうのは、
食べてみればわかることなのだが、
店主のカレーが大好きという感情が伝わってくるようなところがあるからだ。

美味しいだけではない、
食べていて、変な表現だが嬉しくもなってくる。

これはなんだろう、なぜなんだろう、と思っていた。
ここで魯珈のことを書こうと一年くらい思っていた。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その2)

人には人それぞれの優先順位がある。
オーディオマニアを自称している人であっても、優先順位は人それぞれである。

オーディオマニアであっても、オーディオが最優先事項であるわけはないだろう。
これも人それぞれである。
そんなことはわかっているつもりだ。

それでも、音楽に対する姿勢・態度、
オーディオ(音・響き)に対する姿勢・態度を、
世代によって……、と乱暴に語ってしまうことはしたくない──、
そう思いながらも、こんなことを書いている。

レコード(録音物)で音楽を聴く行為を、もっと大切にしてほしい、
そんな趣旨のことを言ったり書いたりする人はいる。

私もその一人だし、他にもいる。
けっこうなことだと、これについても思いながらも、
まったく違和感を覚えない、といえば嘘になる。

音を出しているスピーカーの前に坐っていれば、
傍目には聴いていることになる。
本人もそう思っているはずだ。

けれど、audio wednesdayで音を鳴らすようになって,三年以上が経つと、
「聴いていないだろう」と言葉として発したくなることがある。

みればわかるというか、なんとなく感じられる。
「あぁ、聴いていないなぁ」と。

これは聴き方が未熟とか、そんなことではない。
聴き方の姿勢・態度についてのことである。

これも人それぞれなのだろう。
私がそう感じていたとしても、
聴いている本人が「聴いている」と確信しているのであれば、
とやかくいうことではない。

けれど、私が「聴いていないなぁ」と感じてしまうのは、
そこに貪欲さを感じないからなのだろう。

Date: 5月 5th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その1)

タワーレコードのキャッチフレーズである“NO MUSIC, NO LIFE.”。
タワーレコードによると、これはコーポレート・ ボイスであり、
「音楽があることで 気持ちや生活が豊かになる」という意味が込められているようだ。

直訳すれば、
音楽なくして人生なし、
音楽のない人生なんてありえない、とかになる。

“NO MUSIC, NO LIFE.”
そこに音楽への飢餓感が欠けてしまっているように、
最近感じてしまうことがある。

本来としては、そこには音楽への飢餓感が込められている、と思っている。
少なくとも、タワーレコードのキャッチフレーズとしてではなく、
英語の表現としての“NO MUSIC, NO LIFE.”には、そういうことが込められている、
と私は勝手に解釈している。

私は、私より上の世代の方たちが書かれたものに導かれてきたところがある。
伊藤先生は明治、五味先生は大正、
菅野先生、岩崎先生などのオーディオ評論家は、昭和一桁、
瀬川先生は昭和十年の生れである。

この人たちの書かれたものには、音楽への飢餓感、
飢餓感という言葉に抵抗を感じるのであれば、強い渇望とするが、
そういうものが感じられたし、読みとれた。

そういうものを読んで育ってきたわけだ。
昭和三十八年生れの私が、同じくらいの飢餓感を感じていたとはいわないが、
それでも、いまの時代のように好きな音楽、聴きたい音楽をすぐに聴けたわけではなかった。

いまの時代に、飢餓感なんていう表現を、音楽に対して持ち出してくのは、
時代錯誤と受け止められてもしかたない──、とは思っている。

それでも……、とどうしても思ってしまう。

Date: 5月 3rd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、感覚論としてのエネルギー伝送のこと

個人的な感覚論として、
私のなかではアナログディスクはエネルギー伝送、
CDは信号伝送というイメージへとつながっている。

これはCD登場以前に、アナログディスクを、
ダイレクトドライヴ型プレーヤーではなく、
EMTの930st、それに927Dstといったプレーヤーで聴いてきたこと、
そしてノイマンのカートリッジDSTとDST62を、
ある人から借りて、じっくりと何日間も試聴できたことが深く関係しているのであって、
あくまでも私のなかでのイメージである。

私と同世代でも、私が使ってきたプレーヤーと性格がまったく違うプレーヤーで聴いてきた人、
オーディオに目覚めた時は、すでにCDだった、という世代の人、
それぞれにアナログディスクとCDに対するイメージは違って不思議ではない。

これまでメリディアンのULTRA DACで三回、
今回メリディアンの218でMQA-CDを聴いて、
私が感じているMQAの良さというのは、
CD、デジタルにも関らず、エネルギー伝送のイメージを感じているのかもしれない──、
そんなふうに思うようになっている。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その40)

5月のaudio wednesday、
喫茶茶会記の店主、福地さんからの話。

4月に、とあるイベントでジャズのうるさ方が集まっての音出しがあった、と聞いた。
その時の音が、とてもよく鳴っていた、とのこと。
福地さんは何も変えていないのに……、と不思議がっていたけれど、
4月3日のaudio wednesdayで、(その39)で書いているラインケーブルに交換し、そのままになっている。

3月まで使っていたラインケーブルも、私の自作であり、
価格的にはどちらもそれほど違わない。
基本的な構造の考え方は同じであっても、実現の方法が少し違う。
使っているケーブルのメーカーも種類も違う。

なので福地さんが不思議がっているのを、
「変っていて当然なんだよ」と口に出すことなく聞いていた。

黙っていて、誰かが聴いて、音が良くなっていることに気づく。
そのことを聞いて知るのも、オーディオの、ちょっと変った楽しみ方である。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その23)

今年のヘッドフォン祭では、
「(ブログを)読んでいます」と声を、二人の方からかけられた。
どちらも出展社の方である。

そういってもらえると、やっぱり嬉しいし、
少しばかり照れくさいものである。

二人とも社交辞令でいわれているのではないことは、
その後に続く話からもわかる。

好き勝手なこと書きやがって──、
そんなふうに思っている人がいるのは聞いて知っている。

そういう人たちがいる一方で、話しかけてくれたような方たちもいてくださる。
どちらが多いかといえば、たぶん前者だろう。

これから先も、このことは変らないだろう。
変るくらいなら、とっくにオーディオの世界はよくなっている。

書くのは、書く時は独りである。
たまに電車に乗っている時に書くこともあるが、
それでも周りは知らない人ばかりだから、独りといえる。

寂しい、とか、つらい、とか、そんなことはまったく感じないけれど、
会った人から、「読んでいます」と直接いわれるのは、
独りでやっているからこその嬉しさである。