Date: 5月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム
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「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その9)

わかりやすさを求めることの弊害、
それを提供する弊害について考えていると、
わかってもらえている、という思い込みをあるような気がしてくる。

誰かにわかってもらいたい──、
こんなに努力しているのに、
こんなにさまざまな知識を身につけているのに、
なのに誰も(自分を)評価してくれない、わかってくれない──。

何を発言する、何かを行動する。
けれど周りの反応が薄いか、返ってこない。
どこか冷たい視線のようなものすら感じることがある。
いたたまれなくなってくる。

そんな場からは足が遠のいていく。

そういう場もあれば、
何か発言すれば、何か行動すれば、
すごいですね、とか、教えてください、とか、
そんな反応が周りから返ってくる場がある。

どちらの場を選ぶか。
ほとんどの人が後者の場を選ぶだろう。

けれど──、と考える。
ほんとうに前者の場の人たちは、そういう人たちなのか、と。
そして後者の場の人たちは、表面的に、そういう反応をしているだけではないのか、と。

前者の場は、いたたまれなくなるだろう。
それでも、ほんとうにその場にいる人たちは、あなたをまったく見ていないのか。
実は、きちんと見てくれているのかもしれない。
あなたはとても未熟なのかもしれない。
その上で、あまやかすことなく、突き放すような態度をとっているのかもしれない。

後者の場は、居心地はいいだろう。
それはほんとうの意味での居心地のよさなのか。
ぬるま湯にいつのまにかどっぷり浸かってしまっていた、
しかもそのぬるま湯は、ひどく濁っているのかもしれない。

なのに、わかってくれている──、そういう思い込みがあって、
わかってほしい、という欲求から、
前者の場を離れて後者の場を選んでいたら……

どちらを選ぶかは、その人の自由である。

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