Archive for category テーマ

Date: 6月 24th, 2020
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その5)

いま、目の前にあるスピーカーから、いい音が流れてきた──、とする。
その「いい音」というのは、
これまでオーディオに情熱、そのほかさまざまなものを注ぎ込んできた結果としての「いい音」のはずだ。

結果であるからこそ「音は人なり」となる、ともいえる。

そう考えながらも、「いい音」というのは、人によっては、答ということもある。
すべてのオーディオマニアにとって答とはならないのは、
すべてのオーディオマニアが問いを常に求めているとはいえないからだ。

結果としての「いい音」、
答としての「いい音」。

そんなことを考えている。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition

フランス・ブリュッヘンの名前を知ったのは、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」でだった。

大村櫻子さんという女性の(架空)読者からの手紙に、愛聴盤のしてあげられていたのが、
ブリュッヘンの「涙のパヴァーヌ」だった。

他には、ミルシテインのメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、
シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」、ジム・ホールのアランフェス協奏曲だった。

この四枚のなかで、「涙のパヴァーヌ」がとても気になっていた。
1976年12月の時点で、四枚のうち、聴いていたのは一枚もない。

ブリュッヘンは、私にとってカザルスと同じで、
指揮者としての活動のほうに強い感心がある。

ブリュッヘンを熱心に聴くようになったのは、
フィッリプスから出た一八世紀オーケストラによるベートーヴェンとモーツァルトがきっかけである。

それまでは古楽器によるオーケストラの演奏に、あまり関心をもつことはなかった。
コレギウム・アウレウム合奏団のコンサートは、
ブリュッヘン/一八世紀オーケストラを聴く数年前に行っている。

私のなかで、がっかりしたコンサートの数少ない一つであるから、わりと記憶に残っている。
だからといって古楽器にアレルギーのようなものを持ったわけではないが、
積極的に聴こう、とうい姿勢は持てなくなっていた。

そこにブリュッヘンのモーツァルトとベートーヴェンは、新鮮だった。
それからブリュッヘンに夢中になった数年間が続いた。

ふたたびブリュッヘンのリコーダー演奏を聴くようになったのは、それからである。

Frans Brüggen Edition」は十二枚組のアルバムである。
すでに持っていたものとダブるけれど、
持っていないものもあったし、それに再発ボックスの例にもれず、
この「Frans Brüggen Edition」はとても安価だ。

メリディアンの218で聴くようになってから、ブリュッヘンのリコーダーをまだ聴いてなかった。
昨晩遅く、久しぶりに聴いてみた。

聴いていたら、今度のaudio wednesdayに持っていくことに決めた。
コーネッタで聴きたい、と思ったからだ。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

二時間ほど前に、喫茶茶会記にコーネッタを搬入してきた。
一週間後のaudio wednesdayで鳴らすコーネッタである。

ヤフオク!で落札したコーネッタの出品者は、リサイクルショップだった。
実物をみていたわけではない。

リサイクルショップの倉庫に引き取りに行って、初めて実物をみた。
四十年以上のスピーカーだから、ある程度のくたびれ感はしかたない、と思っていた。
実際、倉庫でみたコーネッタは、そんな感じだった。

なのに喫茶茶会記に持ち込んで、とりあえず置いてみると、感じ方がまるで違ってくる。
どんなスピーカーであれ、部屋にスピーカーを持ち込めば部屋の雰囲気は大なり小なり変化する。

コーネッタがおさまった喫茶茶会記の、いつものスペースはいい雰囲気だな、とまず思った。
コーネッタというスピーカーのアピアランスは、わりと素っ気ないともいえるが、
コーナー型ということ、そして実際にコーナーあたりに置いてみると、しっくりくる。

不思議なことに、くたびれた感じが今度はしない。
もちろん細部をみていくと、それなりの年月感はあるけれど、
コーネッタが部屋におさまったときの雰囲気のよさは、
いまのスピーカーからは、まず得られない。

実をいうと、まだ音を聴いていない。
今日は搬入しただけである。
あと一週間、どんな音が鳴ってくるのか、
どんな音を聴かせてくれるのか、楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 23rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER

キングインターナショナルから、
フィルクシュニー名演集(Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER)が、
7月に発売になる。十枚組である。

ルドルフ・フィルクシュニーは、菅野先生がお好きだったピアニストだ。
日本ではフィルクスニーと表記されることが多いようだが、
菅野先生はフィルクシュニーと書かれていたし、
話の中に出てくるときも、フィルクシュニーと発音されていた。

フィルクシュニーの演奏は菅野先生による録音もある。
なので名前は聴いたことがある、という人は少なくないだろうが、
フィルクシュニーの演奏をじっくりと聴いたことがある、
聴き込んでいる、という人は意外と少ないように感じている。

かくいう私も、フィルクシュニーの演奏は、菅野先生が録音されたものぐらいしか聴いていない。
今回発売になる名演集の詳細を眺めていて、
いまさらといわれようが、じっくり聴いてみようという気になっている。

菅野先生の音をきいたことのある人は、どのくらいいるのだろうか。
聴いたことのある人のなかには、既に亡くなっている方もいると思う。
菅野先生の音を聴いている人は、これから少なくなっていくだけで、
増えることは絶対にない。

菅野先生がいわれたことをおもいだす。
菅野先生の音を聴いた人は、
もちろん「素晴らしい音ですね」とか「すごい音ですね」と、菅野先生にいう。

それは本心からのことばであっても、
ほんとうに菅野先生の音のすごさを理解していた人は、そうとうに少ない──、
そんなことをもらされたことがある。

オーディオ業界の人でも、数える程しかいない、ともきいている。
それが誰なのかもきいて知っているが、ここで書くことではない。
みんな、自分がそうだ、と思っている(信じている)ほうがシアワセだろうから。

菅野先生の音を聴く機会がなかった人のほうが、聴く機会があった人よりもずっと多いはずだ。
聴けなかった人のなかにこそ、菅野先生の音のすごさをわかる人がいた可能性はある。

こんなことを書いても、もう菅野先生の音は誰も聴けない。
けれど、菅野先生が愛聴されていた演奏家の録音は、誰でもが聴ける。

そうやって聴いていくことで、菅野先生がどういう音を実現されていたのか、
その手がかりは、きっとつかめるはずである。

どれだけ聴いてもつかめない、という人は、
菅野先生の音を聴いていたとしても、菅野先生の音をわかっているとはいえない──、
私は、そうおもっている。

Date: 6月 22nd, 2020
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(次なるステップは・その7)

日本人のオーディオマニアのなかには、
低音に関して臆病な人が少なからずいるように感じている、と以前書いた。

そこへfacebookでのコメントには、
西洋人と東洋人(日本人)とでは、低音への感じ方が民俗的に違うのではないだろうか、
そんなことが書いてあった。

たとえば虫の音。
西洋人には、単なるノイズとしか聞こえないのに、
日本人に秋の虫の音をそんなふうには受け取っていない。

この感じ方の違いは、かなり以前から指摘されていることであり、
確か虫の音を聞いている時の脳の活動をみると、
西洋人と日本人とでは違いがある、とのこと。

ところが低音に関しては、そうではないことをずっと以前に読んでいる。
1980年代の終りごろに読んでいる。

記憶がかなり曖昧なのだが、100Hz以下の低音は、
身の危険を感じさせる音ということで、
西洋人も日本人も、脳の同じ部位で感じとっている。

身の危険、つまり死に関係してくることで、
本能的ということで右脳で感知している、ということだった。

ここが虫の音と低音とでは、違ってくる。
そうなってくると、オーディオにおいて低音に臆病な人が、
日本人に多いと感じるのは、環境からくることなのか。
それとも、別の何かが関係してくるのだろうか。

もしかすると、1980年代の598戦争が関係しているのかもしれない──、
そんな考えが浮かんでくる。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その20)

オーディオ雑誌でもレコード雑誌でも、昔から録音評というのがある。
つまり演奏と録音をわけての評価である。

けれど、これについては、ずっと以前から、本来おかしいことだ、といっている人もいた。
演奏が平凡でも、録音だけが素晴らしい──、なんてことは本来おかしいことである、と。

ゼルキンのエピソードは、まさにこのことについて語っている。
ゼルキンによるベートーヴェンは、結果として幻のレコードに終ってしまったわけだが、
おそらく、一般的な意味では優秀録音として認められたのではなかろうか。

演奏は素晴らしかったに違いない。
だとしたら、優秀録音といえるのか。

幻のレコードに終ってしまっているのだから、
録音に立ち合った人以外は誰も聴いていない。
おそらく今後も世に出ることはないはずだ。

誰も聴いていない、といえる録音を評価することはできない。
それでもゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といっている以上、
この録音は、もう優秀録音とはいえない。

どんなにピアノの音が素晴らしく録れていようと、
ベートーヴェンの音でない以上、
それはベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したものとして不出来ということになる。
むしろ本質的なところでゼルキンがダメだししているわけだから、
むしろ失敗ともいえるだろう。

ゼルキンは、だからきっとベートーヴェンの音で演奏していたはずだ。
その音を、日本のレコード会社の録音スタッフは録れなかった。

それは空虚な録音でしかないはずだ。
別項で「毒にも薬にもならない」音(録音も含めて)のことを書いているが、
ゼルキンのエピソードでの録音も、実のところ、
「毒にも薬にもならない」録音なのだろう。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるギレリスのベートーヴェン(その2)

今年は、何度も書いているようにベートーヴェン生誕250周年である。
ギレリスのベートーヴェンのピアノ・ソナタも、
今年の9月、MQA-CDが出る。

ギレリスのドイツ・グラモフォンでのベートーヴェンの録音は、1972年から始まっている。
十年以上かかっているけれど、五曲のソナタは録音されなかった。
そこに32番も含まれている。

30番と31番を聴いた人は、誰しも32番を聴きたかった──、と思うはず。
残されていない演奏は、どうやって聴けない。

これだけの時間をかけての全集録音なのだから、
もう少し早く終らせられなかったのか、と思ったりするが、
それでも30番と31番は聴ける。

30番と31番はデジタル録音になっている。
だから、9月発売のMQA-CDには含まれていない。
アナログ録音だけが、MQA-CDとして発売になる。

しかたないことなのだが、
だったらせめてUHQCDとして、30番と31番のディスクを出してくれないだろうか。

MQA-CDは、UHQCD仕様である。
これまでに、素材を変えたりした、いくつかの高音質を謳うCDが出てきた。

どちらかというと、それらに懐疑的な私でも、
UHQCDはかなりいいように感じている。

サンプリング周波数が44.1kHzのデジタル録音であっても、
MQAにするメリットはあることは確認している。

レコード会社にすれば、44.1kHzのデジタル録音まで……、という考えなのかもしれない。
ギレリスの30番と31番がMQAになることは期待できない。

それでもUHQCDとして出してほしい。

Date: 6月 21st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるギレリスのベートーヴェン(その1)

エミール・ギレリスというピアニストの演奏を、
若いころ、なんとなくさけていた。

特に理由もなく、いそいで聴かなくてもいいや、なんて思っていた。
ギレリスよりも先に聴きたいピアニストがいた、ということは理由としてあったけれど、
それ以上の理由はなかった。

まったく聴いていなかったわけではなかったけれど、
聴いていなかった、といったほうがいいくらいの聴き方でしかなかった。

そんな私が、襟を正して聴く、というのは、
こういう演奏に対してなのか、とおもったのが、
ギレリスの最後の録音となったベートーヴェンの30番と31番をおさめたディスクだった。

たまたまステレオサウンド試聴室に、ギレリスのCDがあった。
なぜあったのかは、もうはっきりと思い出せない。

誰かが試聴のために持ってきて、
試聴は数日続くから試聴室に置いていかれたのか。

とにかくステレオサウンドの試聴室で聴いた。
このCDのジャケットのギレリスの表情をみれば、
聴かずにいられる人はいないだろう。

ギレリスの享年は68。
撮影の日時の正確なところは知らないが、録音と同時期なのだろう。
ぞっとする写真だ。

この写真を撮った人は、どう感じたのだろうか。

グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲のジャケットの写真と、
どこか共通するものを感じる。

グールドの写真は、49歳のもののはず。
グールドはなにを眺めていたのか、と、
演奏を聴いたあとでは、誰もがおもうのではないのか。

ギレリスも、なにを眺めていたのか。

吉田秀和氏は、「ギレリス/ピアノ・ソナタ第30番、31番」で、
《こちらを眺めている写真は、もう、これを眺める私たちを通りこして、「死を見つめている」ようなのだ。》
と書かれている。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その4)

ヘンリック・シェリングの無伴奏は、1967年の録音だから、
私がクラシックに興味をもったころにはすでに名盤として存在していた。

皆川達夫氏の評価を読んで、シェリングの無伴奏を買おう(聴こう)と決めたのはおぼえている。
にもかかわらず、あとまわしにしてしまっていた。

初めて聴いたクラシックのコンサートがシェリングだったにもかかわらず、
ふしぎと、そのころの私にとってシェリングは特別な存在ではなかった。

いつかは買おう、そんなことをおもっていると、ずるずるそのままになってしまうことがある。
シェリングの無伴奏が、私にとって、まさにそうだった。

三十年以上聴かずに過ごしてしまった。
なんと堕落した聴き手なんだろう……、と自分でも呆れてしまうけれど、
MQAになっていることで、こうやってであえた。
聴くことがかなった。

CD化されたばかりのころに聴いていたら、どう感じていただろうか。
数字によって何かが決ってしまうわけではないのはわかっている。

それでも44.1kHz、16ビットのCDと、
192kHz、24ビットのMQA。

優劣をうんぬんするつもりはないが、どちらを選ぶかと問われれば、
迷うことなくMQAを、わたしはとる。

e-onkyoには、DSF(2.8MHz)もある。

1967年録音ということは、おそらく録音器材の多くは真空管が使われたモノだろう。
これが数年後の録音ということになっていたら、
トランジスター式の器材もけっこう使われるようになっていたことだろう。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その3)

別項「218はWONDER DACをめざす(ENESCO PLAYS BACH SONATASを聴く)」で、
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータについて書いている。

そこではエネスコの演奏について、だった。
エネスコの無伴奏はめったに聴かない。

それでは誰の無伴奏をよく聴いているのかというと、シゲティが多い。
といっても、そんなに頻繁に聴いているわけではない。

エネスコにしろシゲティも、モノーラル録音である。
ヴァイオリン・ソロの録音、そして再生はなかなか難しいところがある。
へたなステレオ録音よりも、良質なモノーラル録音のほうがいい、と思うこともある。

それでもステレオでの無伴奏を聴くとなると、誰なのか。
クレーメル、ミルシテイン、アッカルドあたりなのか(にしても古いな、と自分でも思う)。
全曲でなければ、他にもいる。

最近ではファウストか。
CDは、わりとすぐに買って聴いた。

そのあとにLPとSACDが出てきた。
そこまで買おうとは思わなかった。

ファウストを絶賛する人がいるけれど、私はそこまで夢中になって聴けなかった。

私にとって、バッハの無伴奏のステレオ録音で、
エネスコ、シゲティに肩を並べる存在にであえてなかった気がしていた。

世の中には、どれだけのバッハの無伴奏の録音が出ているのか。
すべてを聴くことは、もう無理だと思っている。

そのなかに、であえた、とおもえる一枚があるのかもしれないけれど、
20代のころのように聴きまくる、ということは……、とも思うところがある。

そんな時だった。
e-onkyoでMQAでクラシックを検索して、シェリングの無伴奏を見つけたのは。

こういうのを灯台下暗しとでもいうのか。
シェリングの無伴奏は、私が20代のころ、評価が高かった。
特に皆川達夫氏は、畏敬の念をさえ禁じえない、
とまで高く評価されていた、と記憶している。

そうだ、シェリングがあったのだ。

Date: 6月 19th, 2020
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、になる聖域)

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、という聖域)」、
オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいる聖域)」を、2018年11月に書いた。

書いた時から、あと一本、同様のタイトルで書こう、と考えていた。
一年半ほどかけて、このタイトルにした。

タイトルを決めてから、内容を考えているところでもある。
無理矢理という感も拭えないかも……、と自分でも思いながらも書いているのは、なぜだろう。

わがまま、になる聖域とは、どこなのか、なんなのか。
オーディオマニアなのだから、即座に己のリスニングルームという答が浮ぶ。

続けて、私にとっては、この場(ブログ)もそうだ、と思う。

不特定多数の人に向けての場をわざわざつくって、そこで書くということには、
覚悟が必要だ。

なんと大袈裟なと思う人もいるだろう。
ブログなんて日記のようなものだから、気軽に好きなことを書いていけばいいんだから、と。

そういう捉え方もあっていいけれど、私の捉え方は違う。

周りの目を気にしながら、
相手の機嫌を伺うようにして書いていくつもりはさらさらないわけで、
人によっては、好き勝手なことばかり書きやがって、と思うかもしれない。

好き勝手なことを書いて、誰かに嫌われる。
そのことに傷つき嘆く──、
そんな人は「ぼく(私)、ナイーヴですから」といっていればいい。
それも、どこか自慢気にいっていればいい。

覚悟なしに書いているのだから。
そんな人はこれから先もずっと自分のヘソだけを見つめていればいい。

Date: 6月 19th, 2020
Cate: audio wednesday

audio wednesday (first decade)

最初のころはaudio sharing例会といっていたaudio wednesdayの一回目は、
2011年2月2日だった。
2021年1月で十年やったことになる。

いつまでaudio wednesdayを続けるのか。
このまま続けてもいいように思う反面、
十年を区切りにしよう、とも考えている。

Date: 6月 19th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その19)

吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」は、1980年に発表されている。
ゼルキンのエピソードは、大分前のこととあるから、最低でも十年、
もしかすると二十年くらい前のことなのだろうか。

吉田秀和氏は、ゼルキンのエピソードをきいた時から《ひどくひきつけられ》、
その後も「ベートーヴェンの音」のことを考えられていた。

ゼルキンがいおうとした「ベートーヴェンの音」は、
その時点で発売されていたゼルキンのベートーヴェンのレコードをきいても、
はっきりしなかった、とある。

その数年後、バックハウスのベートーヴェンのレコードを、
《ほんの数秒、音楽でいって一小節もすぎたかすぎないかのところで、私は思わず「これこそベートーヴェンの音だなあ」と声に出した》とある。

ゼルキンのエピソードをきいていて、
その後も「ベートーヴェンの音」について考えていたからこその、
これはひとつの啓示のようなものとなったのだろう。

ゼルキンのエピソードをきいていなければ、
「ベートーヴェンの音」について考えていなければ、
バックハウスのベートーヴェンのレコードをきいても、
「これこそベートーヴェンの音だなあ」と感じることも、声に出すことはなかったはずだ。

ただ漫然ときいているだけでは、
バックハウスのベートーヴェンをきいたところで、
「これこそベートーヴェンの音だなあ」と感じることはない。

そんなことを考えながら、「ベートーヴェンの音って?」を、ここまで読んでいた。

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

アメリカの人気ドラマだった「glee」の最後に、このことばが登場する。
このことも思い出していた。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その2)

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのレコードで最初に買ったのは、
シェリングとイングリット・ヘブラーによる演奏だった。

シェリング盤を選んだ理由として、これといった大きなものはなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴きたかった。

誰の演奏(ヴァイオリン奏者)にしようか、と迷っていたはずだ。
そしてシェリングにしたわけだが、何故シェリングにしたのかは、思い出せない。

そのころはヘンリク・シェリングではなく、ヘンリック・シェリングと表記されていた。
外国人の名前のカタカナ表記は、時代によって少し変化することがある。

ヘンリック・シェリングも、ヘンリク・シェリングのほうが、実際の発音に近いのだろう。
それでも、私がシェリングの演奏と出逢った時には、ヘンリック・シェリングだった。

なのでヘンリク・シェリングと書いていると、ちょっとの違和感がある。

シェリングとヘブラーによる演奏は、どこかに強烈なところがあるわけではなかった。
ほかの演奏のレコードも、まだ持っていなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、この盤だけを聴いていた。

シェリング盤を選んだのも、
シェリングのコンサートを選んだのも、同じだったように、いまなら思う。

レコードとのであいには、強烈なであいもある。
私にとって、ケイト・ブッシュがそうであったし、他にもあるけれど、
シェリングはそういうのと無縁だった。

そうではなかったし、シェリングのレコード(録音)をその後、熱心に聴いてきたかといえば、
そうとはいえない。

シェリングのコンサートも、1988年に来日するということで、
行こうかな、とは思っていた。
シェリングは来日前に亡くなっている。

シェリングも、ずいぶん聴いていない。
これも特に、これといった理由はなかった。
なんとなく聴かなくなっていた。

なのに、シェリングのことを書き始めたのは、これもMQA絡みである。
e-onkyoで、クラシックのMQAを検索していたら、シェリングはかなり出ている。

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタもある。
ヴァイオリン協奏曲もある。
モーツァルトもある。

シェリングの人気からすれば、かなりの数揃っている、といえるほどだ。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータもある。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その18)

 そのうち、私は、レコード会社の人からきいた、一つのエピソードを思い出した。
 もう大分前のことになるが、現代の最高のピアニストの一人、ルドルフ・ゼルキンが日本にきた時、その人の会社でレコードを作ることになった。ゼルキンはベートーヴェンのソナタを選び、会社は、そのために日本で最も優秀なエンジニアとして知られているスタッフを用意した。日本の機械が飛び切り上等なことはいうまでもない。約束の日、ゼルキンはスタジオにきて、素晴らしい演奏をした。そのあと彼は、誰でもする通り、録音室に入ってきて、みんなといっしょにテープをきいた。ところが、それをきくなり、ゼルキンは「これはだめだ。このまま市場に出すのに同意するわけにいかない」と言い出した。理由をきくと「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」という返事なので、スタッフ一同、あっけにとられてしまった。今の今まで、そんな文句をいわれた覚えがないのである。
 ことわるまでもないかも知れないが、レコードというものは、音楽家が立てた音をそっくりそのまま再現するという装置ではない。どんなに超忠実度の精密なメカニズムであろうと、何かを再現するに当って、とにかく機械を通じて行う時は、そこにある種の変貌、加工が入ってこないわけにはいかないのである。そう、写真のカメラのことを考えて頂ければ良い。カメラは被写体をあるがままにとる機械のようであって、実はそうではない。カメラのもつ性能、レンズとかその他のもろもろの仕組みを通過して、像ができてくる時、その経過の中で、被写体は一つの素材でしかなくなる。あなたの鼻や目の大きさまで変ってみえることがあったり、まして顔色や表情や、そのほかのいろんなものが、カメラを通じることにより、あるいは見えなくなったり、より強度にあらわになったりする。そのように、音楽家が楽器から出した響きも、録音の過程で、音の高い部分、中央の部分、低い部分のそれぞれについて、あるいはより強調され、ふくらませられたり、あるいはしぼられ、背後にひっこめられたり等々の操作を通過してゆく間に、変貌してゆく。
 その時、「本来の音」を素材に、そこから、「どういう美しさをもつ音」を作ってゆくかは、技師の考えにより、その腕前にかかっている。レコードの装置技師は、いわゆる音のコックさんなのだ。もちろん、それでも、いや、それだから、すぐれた技師は、発音体から得られた本来の音のもつ「美質」を裏切ることなしに、その人その人のもつ音の魅力をよく伝達できるような「音」を作るといってもいいのだろう。
 だが、ゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といった時、日本の最も優秀な技術者たちは、その意味を汲みかねた。「何をもってベートーヴェンの音というのか?」困ったことに、それをいくら訊きただしてみても、ゼルキン先生自身、それ以上言葉でもって具体的に説明することができず、ただ「これはちがう、ベートーヴェンじゃない」としかいえない。それで、せっかくの企画も実を結ばず、幻のレコードに終ってしまった──というのである。
     *
この後も、実に興味深い。
が、引用はここまでにしておく。

シャルランの「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」、
ゼルキンの「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
同じことをいっているはずだ。

若林駿介氏録音の岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェンの第五とシューベルトの未完成のレコード、
シャルランはおそらく「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
「これはまるでシューベルトの音になっちゃいない」といいたかったのではないか。