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Date: 3月 5th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その11)

(その10)へのfacebookでのコメントに、
日本オーディオ協会の存在意義があるのか、とあった。

OTOTENが二年続けて中止ということになると、
日本オーディオ協会の存在意義は? ということに疑問をもつ人も増えてくるだろう。

インターナショナルオーディオ協議会に関しても、そうなるであろう。

日本オーディオ協会は、
OTOTENというオーディオショウを主催している。
オーディオマニアにとっては、これがいちばん目に入る活動である。

それからJASジャーナルを発行している。
以前は毎月発行されていたと記憶している。
それがいつのまにか隔月刊になっていた。

今年になって季刊になった。
一年間に12冊出ていたのが、いまでは4冊になってしまった。

日本オーディオ協会はfacebookをやっている。
といっても、日本オーディオ協会の投稿は、
その大半がオーディオ関係の記事へのリンクである。

こんなふうに書き連ねていくと、
日本オーディオ協会の存在意義はないのでは? と思われる人もいるだろうが、
その人たちに向って、そうじゃないです、と何かいえるかというと、
私も日本オーディオ協会の活動について、いまどうなんだろう……、という程度のことしか知らない。

なので何もいえない。
日本オーディオ協会のウェブサイトをみれば、
活動の詳細はある程度わかる。

個人会員になるメリットも公開されている。
でも、そこに書いてあるのを読んで、個人会員になろう、と思う人はどのくらいいるのか。

昔、山手線で原宿駅に到着すると、日本オーディオ協会の入っているビルが見えた。
いまはそこにはいない。

Date: 3月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その3)

オーディオマニアといっても、
世代によって聴きふけった音は違う。

世代が同じであっても、人によっても、
聴きふけった音は、また違っている。

それぞれに聴きふけった音があるはずだ。
そんなものない、というオーディオマニアもいるかもしれないが、
そういう人はオーディオマニアなのだろうか、と思う。

聴きふけった音に、その時その時で美を感じていたはずである。
少なくとも私はそうである。

多くのオーディオマニアでそうである、と信じたい。

その時その時に感じた美を、すっかり忘れてしまっている人もいれば、
そうでない人もいる。

どちらがいいなどとはいいたくない。
ただ、オーディオマニアとはいい音で音楽を聴く人のことではない、
と最近強く思うようになった。

その時その時に感じた音の美を、いまも忘れずに、
それだけでなく守っていける人がオーディオマニアなのだ、と思うようになったからだ。

Date: 3月 3rd, 2021
Cate: 広告

オーディオ雑誌と広告(その3)

バブルのころのステレオサウンドで試したことがある。
広告ページをすべて取りのぞいた状態のステレオサウンドにしたことがある。

広告が──、という人もふくめて、これは一度やってみたらいい。
広告が、その雑誌を華やかにしてくれていることを実感するであろうから。

もちろん、そうでない広告も多い。
そういう広告を省くことですっきりする、ということもわかる。

雑誌を華やかにしてくれる広告だけを残して、
ごちゃごちゃした印象の広告をすべて省けたら──、
そう思わないこともないが、どちらもあっての雑誌とも思っている。

日本で、広告が載っている雑誌なんて──、という風潮があるのは、
暮しの手帖の影響もあってのことだろう。

暮しの手帖のオーディオ版を、
広告が──、という人たちは望んでいることだろう。

暮しの手帖のオーディオ版は可能なのだろうか。
「広告一切なし」と掲げている「オーディオ大全2021」は、
暮しの手帖のオーディオ版といえるのだろうか。

「オーディオ大全2021」には広告は載っていないが、
だからといって、メーカー、輸入元の協力がなかったわけではない。

暮しの手帖と同じやり方をオーディオ雑誌で貫くならば、
誌上に登場するオーディオ機器をすべて購入することから始めなくてはならない。

意外にも、このことを、広告が──、とすぐに口にする人たちは忘れているのか、
試聴をするには何が必要なのかを、まったく考えていないのか、と問いたくなる。

「オーディオ大全2021」が、
誌面に登場しているオーディオ機器をすべて購入しての記事づくりであったならば、
表紙の「広告一切なし」が光り輝くことだろう。

けれど現実には、断言してもいいが、購入しての記事ではない。

Date: 3月 3rd, 2021
Cate: 広告

オーディオ雑誌と広告(その2)

(その1)へのfacebookでのコメントにあったし、
私もそう思っているのは、広告がある、ないだけで判断するのであれば、
テレビだとNHK以外はすべて信用できない、ということになるし、
NHKだけは信用できる、ということでもある。

新聞は、というと、広告が載っているから信用できない、となる。

広告が載っている雑誌に書いてあることなんて、
まったく信用できない──、と一刀両断する人は、NHKの報道のみを信じて、
ほかのテレビ、ラジオ、新聞の報道はまったく信用していないのか。

おそらくそうではないだろう。
なぜ、雑誌のみ、広告が──、となるのだろうか。

オーディオ雑誌で広告なしは無理なのか、ときかれることがある。
無理ではない。
けれどステレオサウンドから広告ページを省いて、
残りの編集ページがどれだけあるのか。

それをいまのステレオサウンドと同じカラーページの割合、
紙質などを維持したままで出版したとしたら、
一冊あたりいくらになるだろうか、と考えてみてほしい。

広告の分、ページが減るとはいえ、いまの価格と同じとはいかなくなる。
書籍は広告なしだろう、という人がいるが、
書籍と雑誌のつくりを比較してみてほしい。

ここでいうつくりとは、本そのものつくりだけでなく、
そこに携わっている人の多さも含めて、である。

広告があるから、いまの価格で出せる、ということを忘れないでほしい。
そういうと、いくら高くなっても、広告なしの雑誌ならば買う、と、
広告が──、という人は、そういう。

いうのは簡単だ。
誰にでもできる。
ほんとうにステレオサウンドが広告なしで出版されて、
価格がそうとうに高くなったら、今度は高い、というのではないだろうか。
そして広告の分ページ数は減るのだから、
こんなに薄くなったのだから、なぜ値上げするのか、というかもしれない。

Date: 3月 2nd, 2021
Cate: 広告

オーディオ雑誌と広告(その1)

書店をのぞいたら、「オーディオ大全2021」というムックがあった。
手に取るつもりはなかったけれど、
表紙のひとことが目に入った。

「広告一切なし」とあった。
こんなふうにあると、つい手に取った。

表紙から予想される内容だったので、そこには触れない。
それでもこうやって取り上げているのは、やはり「広告一切なし」が気になっているからだ。

帰宅して、「オーディオ大全」の以前の号の表紙をチェックしたところ、
「広告一切なし」の文言はなかった。
2021年度版からのようだ。

確かに広告は載ってなかった。

世の中には、広告が載っている雑誌に書いてあることなんて、
まったく信用できない──、と一刀両断する人がけっこういる。

こういう人は、オーディオ雑誌を読まない人なのだろうか。
信頼できない、と文句をいいつも毎号読む人なのだろうか。

こういう人は、「オーディオ大全2021」を信用できる、というのか。

「オーディオ大全2021」の表紙には、
「一生楽しめる本格オーディオ入門」ともある。
つまり入門書である。

広告が一切ないオーディオの入門書である(謳い文句通りならば)。

Date: 3月 2nd, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その16)

太い音、という表現は褒め言葉である、と、
このことに首を傾げる人もいよう。

オーディオマニア的に、太い音といわれて喜ぶ人はあまりいないと思う。
太い音の表現には、どこかネガティヴなニュアンスを感じさせる。

特に線の太い音となると、そこにいい印象は抱きにくい。

けれどオーディオマニアではない、ほんとうの音楽好きの人は、
太い音を褒め言葉として使うことが多いように感じている。

2月28日、赤塚りえ子さんのところのスピーカーにCR方法をやって出てきた音を聴いて、
赤塚さんは「太い音になった」と喜んでいた。

同じ経験はけっこう前にもある。
その人も音楽好きなのだが、オーディオマニアではない人だった。
その人も、太い音が出るようになったと喜んでいた。

ここでいうところの「太い音」が出るか出ないかで、
音楽の表情の豊かさは大きく変化する。

これまでの経験からいえば、聴感上のS/N比をよくしていくと、
音楽好きの人はたいてい「太い音が出るようになった」という傾向がある。

ナロウレンジでS/N比の悪い音が、太い音なのではない。
むしろ逆なのである。

Date: 3月 1st, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その15)

一週間ほど前に、クラングフィルムのオイローパジュニアに、
CR方法をボイスコイルと励磁用のコイル、両方に実践された方のことを書いている。

この方は「音の憧れ」というブログを公開されている。
2月23日に公開された記事のタイトルは「CR方法」と「CR方法 その2」である。

CR方法に興味をもたれている方の参考になると思う。

昨晩(2月28日)は、赤塚りえ子さんのところのスピーカーにCR方法をやってきた。
CR方法には絶対の自信をもっている。

それでも抵抗とコンデンサーをスピーカーユニットに取り付けて、
いざ音出しの瞬間は、正直なところ、すこしどきどきしている。

ふだんデカイ口をたたいているだけに、そこで出てきた音の変化がわずかであったり、
微妙な感じであったりすると、能書きだけのヤツか、ということになるからではなく、
期待している人のがっかりする顔を見たくないからだ。

昨晩の音の変りようは、赤塚さんだけでなく、いっしょに聴いていた写真家の野上さん、
そして私も、みなニコニコ顔になるくらいのものだった。

チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」を聴いた。
TIDALでMQAで鳴らした。

私のところではそれほど音量をあげられないが、
赤塚さんのところはあげられる。

赤塚さんのところは、roonのnucleus+メリディアンの218(version 9)の組合せだ。
昨晩の音を聴いて、やっぱりroonかな、と思い始めてもいる。

「サンチェスの子供たち」だけでなく、いくつか聴いた。
いい感じで鳴っている。
こまかなところの詰めは、これからやる予定なのだが、
とにかくいまのままの音で、赤塚さんが好きな音楽、
野上さんが好きな音楽、私が好きな音楽、
どれをかけてもうまいこと鳴ってくる。

これは本筋の音だと感じていた。

Date: 2月 27th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その14)

コイルの性質には、いくつかある。

まず挙げたいのがレンツの法則と呼ばれているもので、コイルは、電流の変化を安定化する働きをもつ。
それまで無信号状態のところに信号が流れようとすると、それを流させまいと働くし、
反対に信号が流れていて、信号がなくなる、もしくは減ろうとすると、流しつづけようとする。
この現象は、中学か高校の授業で習っているはず。

つまり定常状態を保とうと働く。
このとき何が起こっているかというと、コイルからパルスが発生している。

音楽信号はおよそ定常状態とはいえない。
つねに激しく変動している信号なのだから、
コイルからはけっこうなパルスが発生していることだろう。
このパルスは、ある種のノイズでもあり、CR方法はこのパルスに対して有効なのだろう。

いまのところ、私自身もCR方法をあれこれいろんなところで試している段階で、
スピーカーユニットにおいて、どこまで細かく値を調整してみる、ということはまだやっていない。

いまのところはコイルの直流抵抗を測ってのコイルと抵抗の値決めである。
この点である。
なぜ、コイルの直流抵抗の値をそのままコンデンサー(pF)、抵抗(Ω)の値になるのか。

これは目安だと考えているが、それにしても不思議である。

小山雅章氏によるCZ回路は発明といえばそうなのだが、
むしろ発見といったほうがいい。

発見なのだから、小山雅章氏も理論的に照明されているわけだ。
だからこそ、CR方法を試した人は、私の周りだけとはいえ、みな不思議がる。
私もその一人だ。

Date: 2月 27th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その13)

私が試している(実践している)のは、再生系のみだが、
CR方法はまちがいなくマイクロフォンにも効果がある(はずだ)。

ダイナミック型のマイクロフォンはもちろんだが、
コンデンサー型においても、
その電源のトランスの一次側、二次側巻線に対してだけでなく、
真空管式であれば、ヒーター用の巻線にも行える。

どこかのレーベルが、同じマイクロフォンでCR方法をしていない録音、
している録音を比較できるディスクを出してくれれば、
CR方法を試してみようと思う人も増えてくるだろう。

CR方法は確かに効果がある。
けれど、CR方法だけでオーディオの問題点がすべて解決できるわけではない。

もう十年くらい前になるだろうか、
ケーブルでオーディオの悩みの90%は解決する──、
そんなことを謳っていたウェブサイトがあった。

こういう人は、CR方法でオーディオの悩みの90%は解決する──、
とかいったりするだろうが、オーディオはそういうものではない。
それでも、ケーブルよりも安価に試せるCR方法に関心をもってほしい。

CR方法は、いったいどう作用しているのか。
誰にもわかっていない、ということしかいえない。

おそらくだが、コイルの発生するノイズに対して有効なのだろう。
ネットワークのコイル(ウーファー用)にCR方法をやってみたことがある。

以前書いているので詳細は省くが、やはり効果はあった。
スピーカーユニットに対しておこなうのと同じ方向の音の変化である。

ネットワークのコイルに効果があるのか。
それまで試してきたのはトランスにしてもボイスコイルにしても、
コイルの中心に磁性体がある。

ネットワークのコイルは空芯。
鉄芯入りならば同じように効果があると思えるのだが、空芯ではどうなのか。
結果は上に書いたように同じである。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その2)

“ECHOES”を聴いていて思い出すのは、五味先生の文章だ。
「日本のベートーヴェン」を思い出す。
     *
カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。
 溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断っておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやプダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。
 ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。
 では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。
 弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。
 このことから、これはワグナーが言っていることだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さで音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。
 ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのではあるまいか。アダージョがフォルテが鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。
 むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。
     *
“ECHOES”を聴いていると、
まずサクソフォンが木管楽器だということを思い出す。

そのことを思い出したからこそ、「日本のベートーヴェン」のことを思い出した。
思い出しただけではない。
最近考えていることにも関係している。

オーディオマニアは、美を守っていくべき、ということに、だ。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ECHOES(その1)

“ECHOES”。
TIDALで知った一枚だ(一枚といっていいのかと思うけれど、つい一枚と書いてしまう)。

シグナム・サクソフォン四重奏団(Signum Saxophone Quartet)も、
今日はじめて知った。

サクソフォンによる四重奏。
ちょっとだけキワモノ的かな、と思ってしまった。

収録曲をながめていたら、
フォーレのレクィエムの第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)があった。
興味半分だった。

それで聴き始めたら、最後まで聴いてしまっただけでなく、
もう一度聴いていた。

それから“ECHOES”を一曲目から聴いていた。
なぜだかTIDALでは全曲の再生ができなかったけれど、いいアルバムだ。

サクソフォンの四重奏が、こんなにも心に沁みてくるとは予想してなかった。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その10)

OTOTENの中止が発表になった。
中止は予想されていたことだから、驚きはない。

昨年は、中止の発表がなされたのは、4月13日だった。
今回の決定は早かった。
そのことがちょっと驚きといえばそうだった。

二年続けての中止。
出展社のなかには、これを機に出展そのものを考え直すところがあってもおかしくない。

オーディオショウに出展することのメリットとデメリット。
これまではあまり深く考えてはいなかった出展社もあったのではないだろうか。

コロナ禍前といまとでは、曖昧にしたままではいけないと考えているところがある、と思う。
そういう会社が出てきたときに、日本オーディオ協会はどう対応するのだろうか。

Date: 2月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piano Lessons(その1)

クリストフ・エッシェンバッハが「バイエル」を録音したことは知っていた。
知っていたけれど、買いはしなかった。
買っていないから、聴いてもいなかった。

エッシェンバッハは、「バイエル」だけでなく、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」を録音している。
どれも聴いてこなかった。

TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)のすべてが聴けるようになった。
まだすべては聴いていない。
「バイエル」のいくつかと「ツェルニー」のいくつかを聴いただけである。

聴いていて、黒田先生の文章を思い出した。
     *
 周囲の人たちにどう思われたか、などということは、さしあたって、どうでもいい。できることであれば、父か母に、「よくやったね」、といわれたかった、と思うことが、この歳になってもまだ、ときおりある。別に誰かにほめられたくてしたわけではなかった。しかし、ぼくはぼくなりに、ほんのすこし頑張った。そこで、もし、「よくやったね」のひとことがきければ、「いやあ、それほどのことでもないけれどね」などといいつつ、一応は苦笑いで照れ臭さを誤魔化し、そのために味わった辛さもなにもかも吹き飛ばすことができる。
 親孝行といえるほどのこともできないうちに、父も母も他界してしまった。今となっては、「よくやったね」のひとことは、いかに頑張っても、きけない。やはり、ちょっと寂しい。残念である。くやしい気もする。叱れる人にほめられたときが一番嬉しいということに、生まれながらの呑気者は、両親を失って初めて気づいた。
 しかし、彼のことを考えた途端に、そんな感傷もたちどころに消えた。少なくともぼくは、これといった親孝行はできなかったものの、ほとぼとのところまでは自分の成長を親に見てもらえた。そのうえ、甘えたことを考え、愚痴をいったりしたら、罰があたる。
     *
もっとながく引用したい、
すべてを書き写しておきたくなる。

「彼」は、クリストフ・エッシェンバッハのことである。
エッシェンバッハは第二次世界大戦で両親を失っている。
戦争孤児である。

そのエッシェンバッハが「バイエル」、「ツェルニー」などを録音している、
そのことについて黒田先生が書かれた文章は、思い出した。

黒田先生のエッシェンバッハについての文章は、こう結ばれている。
     *
 幼い頃に両親をなくしたエッシェンバッハは、「バイエル」や「ブルグミュラー」、それに「ツェルニー」とか「ソナチネ・アルバム」をレコーディングすることによって、彼がききたくともきけなかった、「よくやったね」のひとことを、小さなピアニストたちに伝えたかったのである。おそらく、このレコードは、あちこちの家庭で、ピアノを習い始めたばかりの子供たちによって、手本としてきかれているはずであるが、彼らが、もし、ピアノの響きにそっとこめられているエッシェンバッハの思いを感じとったら、「よくやったね」のひとことをきかずに育ったエッシェンバッハの寂しさをも理解するのかもしれない。
     *
エッシェンバッハのこれらの録音がTIDALで聴ける。
素晴らしいことだ。

Date: 2月 25th, 2021
Cate: 世代

世代とオーディオ(朝日新聞の記事・その2)

続きを書くつもりは全くなかった。
コメントがあった。
そこには「焚き火効果」とあった。

この場合の焚き火効果は、
アナログディスクのパチパチというスクラッチノイズが焚き火を連想させる、ということのようだ。
焚き火を連想するから、心が温かくなるのか。

朝日新聞の記事で紹介されている永井公さんは16歳である。
焚き火をしたことはないのかもしれない。

私の世代、しかも田舎育ちだと焚き火はよくやっていた。
家の庭でもやっていたし、学校の中庭でもやった記憶がある。
それこそ焚き火の中にサツマイモをくべて焼き芋にしたことも何度かある。

日常的であった焚き火も、私が高校生になったころには、
火事と間違えられるということもあって、やらなくなっていったし、周りもそうだった。

東京に住むようになって、今年の春でちょうど四十年になるが、
東京で焚き火をしたことは一度もない。

16歳の高校生、横浜市に住んでいる若者は焚き火をやったことがあるのだろうか。

こんなことを書いているのは、彼のなかにある焚き火のイメージは、
実際の焚き火によってつくられたものではなく、
マンガでの焚き火のパチパチと表現される効果音や、
テレビドラマやアニメーションでの効果音などによって形成されたのではないのか。

私も焚き火を最後にやったのはそうとうに昔のことだ。
しかも日常的なことだけに記憶に強く残っているわけでもない。
そんな私は、アナログディスクのスクラッチノイズのパチパチによって、
焚き火を連想することはない。

朝日新聞の記事に登場する高校生が、心が温かくなるのは、
焚き火効果によるものかどうかは、記事だけでは判断できない。
それでも、パチパチという音で、とあるくらいなのだから、焚き火効果なのだろう。

そうだとして、そのアナログディスクにおさめられている音楽、音が、
温かさとは無縁のものであっても、パチパチという音で心が温かくなるのか。

仮にそうだとしたら、音への感受性はそうとうに違うところがあるように思える。
少なくとも私とは、はっきりと違うわけだ。

Date: 2月 24th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その12)

(その8)で、クラングフィルムのオイローパジュニアの励磁用のコイルに、
CR方法をやったら、どうなるのか、と書いたばかりだ。

励磁型スピーカーを持っていればすぐにでも試しているところだが、
持っていないし、周りのオーディオマニアにも持っている人はいない。

でも、(その8)を読まれたからなのか、さっそく試された方からのメールがあった。
オイローパジュニアにCR方法を試された方からだった。

実験として、手持ちのコンデンサーと抵抗で、
片チャンネルのみ励磁用のコイルにやってみた、とのことだった。

良い結果が得られた、とあった。
そうか、やっぱり励磁用のコイルでも効果はあるのか、と、
予想通りの結果にはなっているものの、
なぜそのように変化するのかは、わかっているようでわかっていないところがある。

片チャンネルだけなので、
さっそく海神無線にDALEの無誘導巻線抵抗とディップマイカコンデンサーを、
両チャンネル分注文した、とも書いてあった。

「レコード・オーディオの革命」には「オーディオ以外でのCZ」がある。
そこには、テレビやFM放送のアンテナ、螢光灯、イヤフォン、モーターなどが挙げられている。