Archive for category テーマ

Date: 5月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ファトマ・サイードの“Imagine”

ファトマ・サイードが“Imagine”を歌っている。
今日、歌っていることを知って、聴いていたところだ。

一曲のみだから、ストリーミングでのみ聴くことができる。
私はTIDALで聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴いた。

CD、SACDといったパッケージメディアにこだわりたい、という気持は、
マニアならば誰にでもあることだろう。

それをディスク愛と表現して、特集のテーマとすることもできよう。

でも、そこにこだわりすぎてしまっては、
ストリーミングで音楽を聴くなんて──、と拒否したままでは、
聴けない曲が出てくることになってしまう。

それでもいい、というのか。
そこまでこだわるのか。
こだわるべき対象はパッケージメディアなのか、音楽なのか。

ファトマ・サイードの“Imagine”を聴いて、そのことをおもっていた。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 書く

続・audio identity (designing)を終りにする理由

小林秀雄が、中原中也のことを書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》

どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

そうなのだ、来年はじめる新しいブログでは、そうありたい。
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

オーディオについて書くのは難しいようでいて、
逃げ道が、そこらにある、と感じている。

理智に逃げる、
心理に逃げる、
感覚に逃げる。

逃げられるからこそ書いてこれた、とも言えるのだから、
どこにも逃げずに書いていくというのは、しんどいだろうなぁ、とは思っている。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その8)

Xという文字を両天秤として捉えていると、
Xを描く線の一本は音の姿勢であり、
交叉するもう一本は音の姿静である──、
というのはいまの私の予感である。

Date: 5月 8th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観てきた。
IMAX 3Dでの映画鑑賞は久しぶりである。

昨年はIMAX 3Dで一本も映画を観ていない。
上映している映画も少なかったと記憶している。

以前なら、この種の映画ならIMAX 3Dでの上映があるのに──、
そう思える作品でもなかったりしていた。

「ドクター・ストレンジ」本編については何も書かない。
今日驚いたのは、本編が始まる前に流れた「アバター」の予告編についてである。

「Avatar: The Way of Water」は「アバター」の続編で12月公開予定である。
その予告編も、IMAX 3Dだった。

映像のクォリティに驚いた。
この予告編をIMAX 3Dで観られただけでも、
今日映画館に足を運んでよかった、と思えるくらいの出来なのだ。

公開まであと七ヵ月もあるのだから、公開時にはさらにクォリティは向上しているかもしれない。
公開が待ち遠しいと思っているのだが、
世の中には、この種の映画を蔑視する人たちがいる。

CGだけが売りで、内容的には……、と、そんなことをいって否定する。
内容的に……、といいたくなる映画もあるといえばあるけれど、
それにしても、こんなことをいう人は、
IMAX 3Dで上映される作品における情報量を処理できずにいるのではないのだろうか。

スクリーンに映し出される情報量は、IMAX 3Dともなると多い。
それに動きの早いシーンによっては目が追いつかない、と感じたりもする。

私はCGでしっかり作り込まれた映画をIMAX 3Dで観るのは、
スポーツのようなものだと受け止めている。
頭のスポーツである。

ふだんあまり動かしていない(と感じている)頭の部位を、
この種の優れた映画を観ると、鍛えられるような感じがする。

人は、処理し切れない情報量の場合、単純化(省略化)してしまう──、
という説を以前読んだことがある。
脳のオーバーヒートをおこさないようにするため、らしい。

三年ほど前にも、別項で同じようなことを書いているけれど、
「アバター」の予告編を観て、またさらに頭が鍛えられそうな、
つまり情報の処理能力が鍛えられそうな映画登場してくる、
そんなふうにも受け止めていた。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その1)

ここ数日、ふと思い立って集中的に聴いていたのが、
マーラーの交響曲第一番の一楽章である。

TIDALのおかげで、いろんな指揮者の一楽章のみを聴いていた。
こんなことをやって確認できたのは、
私にとって、この曲の第一楽章のリファレンスとなっているのは、
アバドとシカゴ交響楽団とによる1981年の録音である。

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバド/シカゴ交響楽団の、このディスク(まだCD登場前だったからLP)をはじめて聴いた。

第一楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写は、
アバドという指揮者の生真面目さがはっきりと伝わってきたし、
その後、いろんなマーラーの一番を聴いたのちに感じたのは、
オーケストラがヨーロッパではなく、シカゴ交響楽団だったからこそ、
いっそう、そのことが際立っていたのだろう、ということだった。

ほんとうに、アバドによる一番の一楽章は、
息がつまりそうな感じに陥ったものだった。

この時の他の試聴ディスクは、クライバーのブラームスの四番もあった。
アバドのマーラーだけで試聴が進んでいったら、ほんとうにしんどかったことだろう。

そうこともあって、マーラーの一番に関しては、
アバド/シカゴ交響楽団の演奏がしっかりと刻み込まれてしまった。
ゆえにどうしても、他の指揮者、他のオーケストラによる演奏を聴いていると、
アバド/シカゴ交響楽団にくらべて──、といった聴き方をしていることに気づく。

このことがいいことなのかどうなのかはなんともいえないが、
こうやって一楽章のみを聴いてあらためておもったのは、
アバド/シカゴ交響楽団の一楽章は素晴らしい、ということだ。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その5)

44.1kHz、16ビットのデジタル録音をアップコンバートすること、
さらにDSDに変換することの是非について、あれこれ書くつもりはない。

書きたいのは、エソテリックはなぜMQA-CDを出さないのか、である。
名盤復刻シリーズは、SACDだけなのだろうか。

アナログ録音の復刻であれはそれでもいいと思うが、
44.1kHz、16ビットのデジタル録音の名盤を復刻するのであれば、
MQAが、現時点ではもっとも望ましい、と私は考えているから、
エソテリックは、ぜひともMQAによる名盤復刻シリーズを展開してほしい。

エソテリックがハードウェアでMQAに対応していないのであれば、
こんなことは書かないけれど、すでにMQA対応機種を出している。
ならば、ぜひともMQA-CDも手がけてほしい。

44.1kHz、16ビットであっても、
MQAとなることでほんとうに音がよくなることは、すでにTIDALで、
いくつもの録音で確認しているのだから。

Date: 5月 5th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その4)

エソテリックの名盤復刻シリーズのSACDは、好評のようである。
オーディオマニアのなかには、
発売されたディスクすべて購入したという人も少なくないようである。

私は、というと、最初のコリン・デイヴィスのベートーヴェンの序曲集、
それから数年前に出たカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」だけ買っている。

どちらもデジタル録音であり、しかも44.1kHz、16ビットである。
それをDSDに変換してのSACD復刻である。

元が44.1kHz、16ビットだから、そんなことをしても意味がない、という人もいる。
確かにそうではあっても、音は違ってくる。
プロセスの違いは、マスタリングの過程でもあるし、
再生側(D/Aコンバーターでの処理)でもあるわけだから、
音は変ってきて当然であり、大事なのは、自分のシステムで聴いて、
どう鳴るのか、である。

個人的には、もっとアナログ録音のSACD復刻を期待したいところだし、
アバドとポリーニによるバルトークのピアノ協奏曲を、ぜひ復刻してほしい。

44.1kHz、16ビットのデジタル録音をどういうプロセスでDSDに変換しているのか。
オーディオマニア的には、ダイレクトにDSDに変換しているものだと思いがちである。

けれど実際はそうではない。
マスターテープがドイツ・グラモフォンの場合は、
44.1kHz、16ビットのマスターを96kHz、24ビットに変換したうえでDSDにしている。

録音スタジオでは、96kHz、24ビットが標準フォーマットである。
とはいえ最終的にDSD(SACD)にするのに、88.2kHz、24ビットにしないのか、
そんな疑問が持ってしまう。

Date: 5月 5th, 2022
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その3)

指揮者アンドレ・コステラネッツが、こんなことを語っている。
     *
誰もが自分の音を持つべきだ。
自分を元気づけ、溌剌とさせる音を、
あるいは落ち着かせ、穏やかにする音を……。
そのなかでももっとも素晴らしい音のひとつは、
まったく完全な静寂である。
(音楽之友社刊「音楽という魔法」より)
     *
その1)で引用している五味先生の文章にも、
コステラネッツがいっていることがつながっていく。

コステラネッツは《まったく完全な静寂》といっている。
この《まったく完全な静寂》こそが、音の姿静なのだろうか。

Date: 5月 2nd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その32)

トロフィーは飾っておくものだ。
スピーカーシステムにしろ、アンプにしろ、
トロフィーオーディオとして扱われた(買われた)モノは、
その部屋の主にとっては、トロフィー(飾りもの)なのだろう、
勝ち誇るための、そのことを再確認するためになるのだろう。

スピーカーシステムにしても、アンプにしても、
音・音楽を聴くためのモノである。

トロフィーオーディオは、部屋をデコレーションするためにあるともいえる。
そこにオーディオとしてのデザインはない、と思う。

Date: 5月 1st, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その11)

別項「陰翳なき音色」で、
マルティン・フレストのクラリネットについて少しだけ触れている。

TIDALで、MQA Studioで聴いたマルティン・フレストの“Night Passages”は、
MQAの特長を伝えてくれる録音だといえる。

こう書いてしまうと、人の声ばかりなのだろう、と誤解されてしまいがちなのだが、
MQAで聴く人の声は、ほんとうにいい。
だからといって、人の声ばかりがよく再現されるということではなく、
特に人の声は素晴らしい。

同じことをフレストのクラリネットを聴いていて感じていた。
思うに、どちらも人の息づかいだからなのだろうか。

人の息は決して乾いているわけではない。
ハスキーヴォイスといわれる声であっても、そこには湿り気がある。
湿り気があるだけではなく、人には体温があるように、
その息づかいにも温もりがある。

息づかいのそういうところをMQAは聴き手に強く感じさせる。
そこで思い出すのが、ドイツの民俗音楽学者、マリウス・シュナイダーのことばだ。
     *
息、すなわち生命の力を、
身体の奥底から流れ出る音の捧げものとして、
みずからの意志で、すすんで放つ人は、
自分の人生を歌っているのだ。
なぜなら歌うことは、人生を肯定し、
みずから開放するものだからであり、
人に、そしてその仲間たちに、
幸福と繁栄をもたらすものだからだ。
(音楽之友社刊「音楽という魔法」より)
     *
MQAがもたすら恩恵とは、ここにつながっていくように感じている。

Date: 5月 1st, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その3)

今年は三年ぶりにOTOTENが開催される予定である。
事前登録が始まっている。

今年のフロアマップをみると、
ガラス棟七階のG701はイベント・セミナールームとして使われることになっている。
そこに音楽之友社、音元出版、ステレオサウンド、誠文堂新光社とともに、
MQA Limitedとある。

MQAのイベントかセミナーが予定されている。
まだ具体的な内容が発表になっていないけれど、ボブ・スチュアートは来日するのだろうか。

Date: 4月 30th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その9)

パブロ・カザルス指揮のモーツァルトはよく聴く。
モーツァルトの交響曲を誰の指揮で、いちばん多く聴いたか。

正確に数えたわけではないが、カザルスのモーツァルトをもっとも数多く聴いている。
カザルスのモーツァルトが好きである。

だからといって、カザルスのモーツァルトばかり聴いているわけではなく、
ベンジャミン・ブリテン指揮のモーツァルトもカザルスについでよく聴いている。

カルロ・マリア・ジュリーニのモーツァルトもよく聴くし、
他にも同じくらいよく聴く指揮者は何人もいる。

こんなふうに書いていくと、節操ないように思われるだろうが、
聴きたいとおもったモーツァルトは、けっして一つ二つではない。

それと同じくらい、もうこの人(指揮者)のモーツァルトはもう十分だ──、
そんなふうに思ってしまっている指揮者もいる。

昨晩、ユッカ=ペッカ・サラステのモーツァルトの交響曲集を聴いていた。
2011年に発売になっているけれど、私は昨晩初めて聴いた。

サラステという指揮者を、私は過小評価していたことに気づかされるほどに、
清新な印象のモーツァルトである。

カザルスのモーツァルトとは、かなり違う。
それでも、どちらのモーツァルトも活き活きとしている。

そつなく演奏(指揮)しているけれど……、といった感じのモーツァルトではない。
モーツァルトの魅力を、こちらの心にあらたに残る感じで、
モーツァルトの聴きなれた交響曲が鳴ってくる。

私が寡聞にして知らないだけで、
サラステのモーツァルトは高い評価を得ているのだろうか。
どうなのだろう。

Date: 4月 29th, 2022
Cate: トランス, フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(パワーアンプは真空管で・その17)

直列型ネットワークも、スロープ特性が6dBではなく12dBになると違ってくる。

6dB/oct.であれば、2ウェイが3ウェイになっても、
ウーファー、スコーカー、トゥイーターは直列に接続され、
それは直流的にも接続されていることになる。

ところが12dB/oct.になると、
2ウェイであってもウーファーのみが直流的に接続されていて、
トゥイーターは直流的には浮いていることになってしまう。

しかも12dB/oct.の場合、
並列式ではウーファーは、プラス側はハイカットフィルターのコイルのみを介して、
ウーファーのマイナス側はアースに接続されるわけだが、
12dB/oct.の直列式になると、ウーファーをはさむかっこうで、
ウーファーのハイカットフィルターのコイル、
トゥイーターのローカットフィルターのコイルが介在することになる。

グリッドチョーク的ケーブルを聴いての私の推論が正しければ、
直列型ネットワークは、6dB/oct.においてもっとも特長が活きてくる。

Date: 4月 29th, 2022
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカーのネットワーク)

別項「ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その13)」で、
セレッションのDitton 15のネットワークには、
トゥイーター側にたいてい挿入されるアッテネーターがないことを書いた。

アッテネーターがないのはDitton 15だけなのか。
Ditton 25やDitton 66はどうなのか。

インターネットがここまで普及していると、
ほんとうに便利になったと思う。

「ditton 66 crossover」で検索すれば、
すぐにDitton 66のネットワークの写真、回路図が見つかる。
Ditton 25に関してもそうだ。

Ditton 25にもDitton 66のネットワークにもアッテネーターはない。

いうまでもなくマルチウェイのスピーカーシステムで、
変換効率が低いのはたいていの場合ウーファーであり、
システムとして出力音圧レベルを揃えるために、
ウーファーよりも能率の高いスコーカー、トゥイーターにはアッテネーターが挿入される。

このアッテネーターをどう処理するのか。
連続可変型にするのか、固定型にするのか。
回路構成はどうするのか、どういう部品を使うのか。

それでもアッテネーターはないほうがいい。

ただこのへんはスピーカーの捉え方によっては、
ウーファーの能率にスコーカー、トゥイーターの能率を合わせて、
アッテネーターを省略するよりも、
スコーカー、トゥイーターの磁気回路をケチらずに、できるだけ高能率として、
アッテネーターで調整したほうがいい、という考え方もある。

どちらが正しい、というわけではなく、
そのスピーカーシステムの価格、ユニット構成、目指しているところなどによって、
どちらが好適なのかは違ってこよう。

Dittonシリーズを積極的に展開していったころのセレッション。
そのセレッションがDittoシリーズで目指していた音と、
アッテネーターが存在しないということは、
見落せないポイント(共通の鍵のようなもの)だと思う。