マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その1)
ここ数日、ふと思い立って集中的に聴いていたのが、
マーラーの交響曲第一番の一楽章である。
TIDALのおかげで、いろんな指揮者の一楽章のみを聴いていた。
こんなことをやって確認できたのは、
私にとって、この曲の第一楽章のリファレンスとなっているのは、
アバドとシカゴ交響楽団とによる1981年の録音である。
1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバド/シカゴ交響楽団の、このディスク(まだCD登場前だったからLP)をはじめて聴いた。
第一楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写は、
アバドという指揮者の生真面目さがはっきりと伝わってきたし、
その後、いろんなマーラーの一番を聴いたのちに感じたのは、
オーケストラがヨーロッパではなく、シカゴ交響楽団だったからこそ、
いっそう、そのことが際立っていたのだろう、ということだった。
ほんとうに、アバドによる一番の一楽章は、
息がつまりそうな感じに陥ったものだった。
この時の他の試聴ディスクは、クライバーのブラームスの四番もあった。
アバドのマーラーだけで試聴が進んでいったら、ほんとうにしんどかったことだろう。
そうこともあって、マーラーの一番に関しては、
アバド/シカゴ交響楽団の演奏がしっかりと刻み込まれてしまった。
ゆえにどうしても、他の指揮者、他のオーケストラによる演奏を聴いていると、
アバド/シカゴ交響楽団にくらべて──、といった聴き方をしていることに気づく。
このことがいいことなのかどうなのかはなんともいえないが、
こうやって一楽章のみを聴いてあらためておもったのは、
アバド/シカゴ交響楽団の一楽章は素晴らしい、ということだ。