Archive for category ブランド/オーディオ機器

Date: 9月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その5)

グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」の前に聴いた松田聖子の「ボン・ボヤージュ」でも、
松田聖子の歌を録るためのマイクロフォンのクォリティが、
それまで喫茶茶会記で聴いてきたCDプレーヤー(ラックス、パイオニア、マッキントッシュ)よりも、
一段上であるように感じていた。

もっといえばクォリティの高いコンデンサー型マイクロフォンのようにも思えた。
実際のところ、どのマイクロフォンなのかは知らないが、
少なくともそれまでの再生では、そんなふうに感じたことは一度もなかった。

このときもULTRA DACのフィルターはshortである。
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」の音は、
録音の現場に居合わせたかのような鳴り方だった。

モニタースピーカーというモノがあるが、
メリディアンのULTRA DACはモニターD/Aコンバーターといえる性能を持っている、ともいえる。

けれど、一般的なモニタースピーカーに対する印象で鳴ってくるわけではない。
即物的な鳴り方、アラ探し的な鳴り方ではない。

「仕方ないわ」で、フィルターをmediumにしてみる。
この音も魅力的ではあったが、私にはshortの印象のほうが強かっただけに、
mediumの音を聴きながらも、shortの音の印象を思い出してもいた。

longでも、さらに音は変る。

short、medium、long、
三つのフィルターのどれがいいか、といえば、
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」に関するかぎり、私はshortだと言い切る。

けれど一緒に聴いていた人は、mediumの音も捨て難い、とのこと。
それもわかる。

ここでのフィルターによる音の違いは、絶対的ではない。
かけるディスクが変れば、評価は違ってくる。

shortがもっともよかったのは、グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」においてである。
ただし、それも別の聴き方、別の面を求めれば、また変ってくる。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その4)

グラシェラ・スサーナのベスト盤は、CDである。
一般的なCDだから、44.1kHz、16ビットである。

メリディアンのULTRA DACは、自動的にアップサンプリングしてD/A変換を行う。
アップサンプリング機能をOFFにはできない。

アップサンプリング時に、フィルターがshort、medium、longのどれか選択できる。
「仕方ないわ」を聴いたときはshortだった。
次にmediumにし、longをした。

これの機能については、輸入元のハイレス・ミュージックのサイトを参照してほしい。
ここでは細かなことは述べない。
書きたいのは、その音の変化について、である。

「仕方ないわ」でのshortの音は、圧倒的に感じた。
ここまで再生できるのか、と思いながら聴いていた。

これまでグラシェラ・スサーナのCDは、今回のベスト盤を含めて、ほぼすべてを聴いている。
多くがアナログ録音であり、CD化にあたり、どれだけ丁寧な仕事がなされているのか、といえば、
あまりそんな感じを受けたことはなかった。

唯一、ここまでやれるのか、と感じたのは、「アドロ・サバの女王」の限定盤だった。
それまで売られていた「アドロ・サバの女王」と比較するまでもなく、
丁寧な仕事をしてくれたな、と感じる出来だった。

グラシェラ・スサーナのCDが、ひどい出来とはいわない。
ようするに一般的な、平均的な出来としか受け止めてなかった。

「アドロ・サバの女王」の限定盤のクォリティでCDを出してくれれば……、と思っていた。
でも、ULTRA DACでの「仕方ないわ」は、くり返すが、ここまで再生できるのか、と感じていた。

Date: 9月 7th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その3)

何から書き始めるか、といえば、やはりグラシェラ・スサーナのことから始めたい。
全体の構成的には別のことから書き始めた方がいいかな、と思いながらも、
MQAで聴いたグラシェラ・スサーナのこと、メリディアンのULTRA DACで聴いたグラシェラ・スサーナのことだ。

9月5日の音出しは、いつものラインナップからである。
マッキントッシュのMCD350を数枚のディスクをかけて、まずは音の確認。
それからメリディアンの206にする。

MCD350でかけたディスクの一枚だけを206で聴く。
そのディスクのまま、508で聴く。

508にはアンバランス出力とバランス出力があり、
両方の音を聴いて、バランス接続のまま、ULTRA DACを、このラインナップに加える。

508をCDトランスポートとして使う。
508のD/Aコンバーターを、ULTRA DACに変更した、ともいえる。
ULTRA DACもバランス出力をもつので、マッキントッシュMA7900とはバランス接続。

508とULTRA DACは準備の段階から電源をいれてディスク再生にしてのウォームアップをしていた。

カルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」を、
MCD350、206、508、508+ULTRA DACで聴いた。
エソテリックから発売になったSACDだから、
MCD350での再生はSACDで、メリディアンではCDレイヤーの再生である。

その次に、常連のKさんのリクエストで松田聖子のCDをかけ、
グラシェラ・スサーナのCDをかけた。
ベスト盤の「仕方ないわ」を聴く。
いつも鳴らしている曲である。

松田聖子(これもいつも聴いている「ボン・ボヤージュ」)を鳴らしたときよりも、
少し鳴り方が変ったように感じた。

時間的には十分なウォームアップのはずだし、実際にディスクを再生していたのだから、
理屈としては、ウォームアップ完了のはずなのだが、
それでも実際にアンプが接続されての状態と無負荷では、違うのだろうか。

それともULTRA DACを加えたことによる変化にスピーカーが対応してきたことによる変化なのか、
そのへんははっきりしないが、
とにかくグラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」はよかった。

よかった、だけだと素っ気なさすぎのように受け止められるかもしれないが、
「よかった」という以外、ぴったりの言葉はない。

Date: 9月 6th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その2)

メリディアンのULTRA DACで聴いたグラシェラ・スサーナの素晴らしかったこと。
これも忘れず書いておく。

ULTRA DAC、MQAに否定的な人がいるのは知っている。
技術的な面からMQAを否定している人いるようだが、
どんなに技術的なことを詳しく述べてMQAを否定しようとも、
結局、技術的なことというのは、
ほんとうのところのごく一部しか語っていないことを、
ULTRA DACの音を聴けば、思い知ることになるだろうこと。

このことは(その1)に書いたハイレゾ(ハイスペック)にも関係してくる。

ULTRA DACには、どのトランスポートがいいのか、ということ。
MQAについての解説を読んで知ってはいても、
現実に目の当りにすると、こんなに簡単に! と驚く。

ということは、あのトランスポートも、別のあれもこれも……、と、
ぜひULTRA DACと組み合わせてみたいモデルのこと。

ULTRA DACを、瀬川先生、山中先生が聴かれたら……、
こんなことも想像してしまうほどの音だった。

ここまでは備忘録である。
おそらく書き始めると、書きたいことがさらに出てくるだろうが、
これらのことは必ず書く(予定)。

Date: 9月 6th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その1)

昨夜(9月5日)のaudio wednesdayは、
メリディアンのULTRA DACを聴くことがテーマだった。

メリディアンのULTRA DACを聴いていて感じたこと、
聴き終って思ったこと、考えたことがある。

ハイレゾという言葉が嫌いなのだが、
それでもハイレゾとハイスペックは違う、ということ。

ハイスペック音源をハイレゾ音源とは、いいたくない、ということ。

それから瀬川先生が書かれていたこと。
     *
しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
     *
これは、ステレオサウンド別冊「81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」で書かれたもの。

アンプについて書かれているわけだが、
同じことはD/Aコンバーターについてもいえる、であろうこと。

ふり返ってみれば、私はアナログプレーヤーもCDプレーヤーも、
ヨーロッパ製を選んできたこと。

これらのことを思ったり、考えたりしているところだし、
これから書いていくけれど、
メリディアンのULTRA DACは、素晴らしい音だった。

いい音だった、といいたくなる製品は、ある。
けれど、素晴らしい音だった、となると、ほんとうに少なくなる。

私だけではなかったはずだ。
来ていた人(数人なのが残念だった)は、みな聴き入っていたのだから。

Date: 8月 24th, 2018
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その30)

ステレオサウンド 59号で《まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ》と、
瀬川先生が吐露するような書き方をされていた。

瀬川先生がJBLのパラゴンを自分のモノとされていたら、
どんな組合せで、どんな音で鳴らされただろうか。

リスニングルームがどうであったかによっても音量は変ってくるのはわかっている。
音量を気にせずに鳴らされる環境であっても、
瀬川先生はパラゴンを鳴らされる時、じつにひっそりした音量だったのではないか、と思う。

LS3/5Aが鳴らす世界を、ガリバーが小人の国のオーケストラを聴いている、と表現されたように。

パラゴンとLS3/5Aとでは、スピーカーシステムとしての規模がまるで違う。
搭載されているユニットを比較しても明らかである。

それでもパラゴンにぐっと近づいての、ひっそりした音量で聴く──。
椅子に坐ってであれば、斜め上から小人のオーケストラを眺めるような感じで、
床にじかに坐ってならば、小人のオーケストラのステージに顎を乗せて向き合う感じで。

そんな聴き方をされた、と思う。
だからアンプは精緻な音を出してくれなければならない。

そういえば瀬川先生はパラゴンの組合せとして、
マークレビンソンのLNP2とスレッショルドの800Aというのが、
「コンポーネントステレオのすすめ・改訂版」にあったのを思い出す。

Date: 8月 22nd, 2018
Cate: KEF

KEFがやって来た(その25)

Model 105の高さは98.5cm、Model 107は116.5cmで、18cmの差がある。
Model 107の高さであれば、HEAD ASSEMBLYを上向きにする必要は、ほとんどないはずだ。
Model 105では椅子の高さ、聴き手の身長によっては上向きにする場合も多かっただろうが。

107はこれまで書いてきたように低音部は、105とは大きく違っている。
そうなると実際のセッティングにおいては、どうなってくるのか。

Model 107があるのだから、音を聴いてみればわかること。
ただ、まだ音を出せる状態にない。

Model 107のウーファーはエンクロージュア内部に二本おさめられている。
KEFはベクストレンを振動板に、それまで使っていた。
Model 107のウーファーもベクストレンと思いがちなのだが、実際には紙であり、
しかもエッジがウレタン製。意外だった。

もうエッジがボロボロになっている。
しかも107のウーファーは、いわゆるエッジがコーン紙の外周だけでなく内周にもある。
107にはアクティヴイコライザーのKUBEが付属している。

このKUBEで低域をコントロールできるわけだが、
その設定によってはかなりの振幅をウーファーに要求するため、エッジが外周と内周にあるのだろう。

ウーファーは左右で四本あるわけだから、これらをエンクロージュア内部から取り外して、
それからエッジの交換である。

交換用エッジは、アメリカのスピーカー関係のサイトをみれば、売っているのがわかる。
ちなみに日本のamazonでも買えるけれど、価格はアメリカの数倍以上だ。
おそらく転売屋なのだろう。

自分でエッジ交換に挑戦してみたい、という気持はあるけれど、
四本もあると、一本目と四本目とでは仕上がりに違いが出そうな気がする。
なので、どこかに依頼することになるだろう。

Date: 8月 22nd, 2018
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その24)

瀬川先生は、ステレオサウンド 45号に、
《ウーファーごとリスナーに向ける方がいいと思う》と書かれている。
私が聴いた時も、ウーファーごとリスナーに向けた上での、
HEAD ASSEMBLYの慎重な調整のうえでの音だった。

ウーファーごと向けるのであれば、HEAD ASSEMBLYの水平方向の可動機構は不要で、
仰角調整機構だけでいいのではないか、と、
45号を読んだときも、Model 105の音を聴いたときも思った。

けれどおもしろいもので、
1983年のステレオサウンド別冊「THE BRITISH SOUND」に載っているKEFの試聴室の写真では、
Model 105.2のウーファーは後の壁と平行で、HEAD ASSEMBLYだけがリスナーの方に向けられている。

ゴールドリングの試聴室でも、Model 105.2があり、ここでもKEFの試聴室と同じように置かれている。
たった二枚の、小さなモノクロ写真でも、こういうのを見ると、
仰角調整機構を省き、水平方向の調整機構だけを残したことを、
少し違う視点から考えてみる必要がある。

Model 105のクロスオーバー周波数は400Hzと2.5kHz(105)、3kHz(105.2)と発表されている。
105のウーファーの口径は30cmだから、400Hzのクロスオーバー周波数ならば、
良好な指向特性の領域のみで鳴らしているといえる。

低音の放射パターンからいえば、あえてリスナーに向ける必要性はさほどない、
とKEFでは考えていたのかもしれない。

それに別項で書こうとしていてそのままになっているのだが、
ウーファーの受持帯域がそれほど上の周波数までカバーしていなければ、
意外にも後の壁と平行に置いた方が、いい結果が得られるのではないか、とも考えている。

レイモンド・クックが言っていた《聴取位置の自由度を広くしたスピーカーとして》の形が、
Model 105だとすれば、その使い方はHEAD ASSEMBLYだけをリスナーに向けることなのかもしれない。

そこをあえてウーファーごとリスナーに向けて、
HEAD ASSEMBLYをそうとうに細かく調整された瀬川先生の鳴らし方は、
KEFが想定した鳴らし方をこえたところでのことだったのかもしれない。

Date: 8月 22nd, 2018
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その23)

KEFのModel 105はステレオサウンド 45号、
Model 105.2は54号で、それぞれ特集の総テストに登場している。
試聴だけでなく測定も行われている。

45号では水平・垂直、両方の指向特性が、
54号では水平の指向特性のグラフが載っている。

軸上の周波数特性だけでなく、
水平では30度の、垂直では15度の周波数特性もきちんとしている。

その22)でレイモンド・クックの発言を引用しているとおり、
軸上から外れた特性も保証されている。

それでもModel 105の特長を聴くには、慎重な調整とただ一点のリスニングポイントが求められる。
過去に書いているように、瀬川先生が調整されたModel 105を聴く機会があった。
バルバラのレコードだった。

45号の試聴記で瀬川先生が書かれいてるように、
《バルバラがまさにスピーカーの中央に、そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する》のだ。
これは誇張でもなんでもない。

そのピンポイントの一点からズレてしまうと、そこまでの錯覚は得られない。
もちろん急にダメになってしまうわけてはないが、
一度でもピンポイントの一点での音を(もちろん身長に調整された場合)聴いてしまうと、
聴取位置の自由度を広くしたスピーカーとしてModel 105をみることきはできなくなる。

中高域を受け持つHEAD ASSEMBLYは水平と垂直方向の角度を調整できた。
記憶違いでなければ、105.2になってから水平方向のみになってしまった。
Model 107もそうである。

垂直方向、つまり仰角も調整できたほうがいいと思うのだが、
そうするとコスト高になってしまうのか、
それともそこまでの調整はあまり必要性を感じない、という判断なのか、
なんともいえないが、少々残念ではある。

Date: 8月 18th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その4)

なぜだか、タンノイの音こそがいぶし銀のように語られる。
それに、タンノイといえば、ある年代以上のオーディオマニアにとって、
五味先生と強く結びつくわけだが、
その五味先生はどういう音をいぶし銀と表現されているのかというと、
タンノイの音のことではなく、ベーゼンドルファーのピアノの音である。

ステレオサウンド 52号のオーディオ巡礼で
《拙宅のベーゼンドルファーは購入して二十年になる。今以ていぶし銀の美音を響かせてくれている》
と書かれている。

ベーゼンドルファーはいうまでもなくスピーカーではなく、ピアノのこと。
スピーカーだったら、わかりにくい。
A社の○○というスピーカーがいぶし銀の美音を響かせてくれる──、
そんなふうに書いてあっても、スピーカーはどんな部屋で聴くのか、
どんなセッティングがなされているのか、組み合わされるアンプやその他の機器は……、
そういった諸々のことで、音は大きく変ってくるのだから、
スピーカーの型番を持ち出されても、何の参考にもならないが、
ピアノであれば、そうではない。

スタインウェイほど聴く機会は多くはないかもしれないが、
ベーゼンドルファーは名の通ったピアノであるから、聴く機会は少なくないはずだ。

ただベーゼンドルファーのピアノであっても、必ずしもいぶし銀の美音を響かせてくれるわけでもない。
そのことも52号には書かれている。

五味先生はベーゼンドルファーのピアノを、
ベーゼンドルファーの調律師ではない人に調律してもらわれている。
そのことを書かれている。

同じことを「西方の音」におさめられている「大阪のバイロイト祭り」でも書かれている。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
(中略)
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を──音程ではない──元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は──その調律は──不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
 ベーゼンドルファーはそうではなかった。和音は余韻の消え残るまで実に美しいが、不協和音では、ぜったい音と音は妥協しない。その反撥のつよさには一本一本、芯がとおっていた。不協和音とは本来そうあるべきものだろう。さもなくて不協が──つまりは和音が──われわれに感動を与えるわけがない。そういう不協和音の聴きわけ方を私はバルトークに教えられたが、音を人間にかえてもさして違いはあるまいと思う。
     *
そういうベーゼンドルファーの音を、いぶし銀の美音と表現されている。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その3)

ステレオサウンド 207号では、和田博巳氏がArdenの音をいぶし銀と評されている。
見出しにも、いぶし銀が取り上げられている。

私は(その1)で、フロントショートホーンをもつタンノイの音は、
決していぶし銀と感じてないし、烏の濡れ羽色に近い音色と感じている、とした。
別項にコメントしてくださった方と同意見であり、
その方から(その1)にfacebookでコメントがあり、オートグラフを聴かれていることがわかった。

そうだろうな、と強く思う。
フロントショートホーン付きのタンノイの音を聴いたことのある人ならば、
それもいぶし銀とかいう、無用なバイアスなしで聴いている人ならばこその音の印象である。

ならばフロントショートホーンなしのタンノイは、いぶし銀なのか。
菅野先生がスイングジャーナルの1969年12月号で、IIILZ MKIIについて書かれている。
     *
 そこで、英国系のスピーカーには、どうしてもクラシック音楽のイメージが強いとされてきた理由もなんとなくわかるのではあるが、今や、英国も、ビートルズを生み、ミニスカートをつくる現代国家であるし、特に輸出によってお金を嫁ぐことに熱心なことは先頃の英国フェアでもよく知っておられる通りである。英国がその古い伝統と、高度な産業技術を、クラフトマンシップを生かしてつくり上げた製品は、筋金入りの名品が多く、しかもお客の望みを十分に叶えてくれるサービス精神にもとんでいる。タンノイはいぶし銀のような艶をもつスピーカーだと評されていたが、このIIILZのニュータイプのIIILZ MKIIは、さらに明るさが加ってきた。重厚明媚を兼備えた憎い音を出す。これでジャズを聞くと、実に新鮮な迫力に満ちた音だ。MPSのジャズのように、最近はジャズの音も多様性をもってきた。アメリカ録音に馴れていた耳には大変新鮮な音のするヨーロッパ録音ではある。再生系も、英国スピーカーはクラシック向と決めこまないでチャンスがあったら耳を傾けてみてほしい。
     *
いぶし銀、と確かにあるが、
《いぶし銀のような艶をもつスピーカーだと評されていた》と含みをもたせてある。
評してきた、ではない。

「世界のオーディオ」のタンノイ号にざっと目を通したけれど、
オーディオ評論家の誰かが、いぶし銀と書いているのは見つけられなかった。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その2)

1979年のステレオサウンド弁冊「世界のオーディオ」タンノイ号、
井上先生の「私のタンノイ観」で書かれていることが、実に興味深い。
     *
とくに、モニター15の初期のモデルは、ウーファーコーンの中央のダストキャップが麻をメッシュ織りとしたような材料でつくられており、ダーク・グレイのフレーム、同じくダーク・ローズに塗装された磁気回路のカバーと絶妙なバランスを示し、いかにも格調が高い、いぶし銀のような音が出そうな雰囲気をもち、多くのファンに嘆息をつかせたものである。
     *
モニターシルバーと呼ばれていた時代のタンノイの同軸型ユニット。
そういえば、と、
古いイギリスのオーディオメーカーのスピーカーユニットのフレームを思い浮べてほしい。

ヴァイタヴォックスのAK155、156、グッドマンのAXIOM 301といったユニットのフレームを、
思い浮べられない人は、Googleで画像検索してみてほしい。

井上先生は、タンノイからいぶし銀のような音がしていた、とは書かれていない。
あくまでも、《いぶし銀のような音が出そうな雰囲気》とあるだけだ。

確証はもてないが、いぶし銀という表現が使われるようになったのは、
意外にもイギリスのユニットのフレームの仕上げから来ているようである。

「私のタンノイ観」の最後に井上先生は、書かれている。
     *
 つねづね、何らかのかたちで、タンノイのユニットやシステムと私は、かかわりあいをもってはいるのだが、不思議なことにメインスピーカーの座にタンノイを置いたことはない。タンノイのアコースティック蓄音器を想わせる音は幼い頃の郷愁をくすぐり、しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかいに魅せられはするのだが、もう少し枯れた年代になってからの楽しみに残して置きたい心情である。暫くの間、貸出し中のコーナー・ヨークや、仕事部犀でコードもつないでないIIILZのオリジナルシステムも、いずれは、その本来の音を聴かしてくれるだろうと考えるこの頃である。
     *
《しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかい》とある。
この表現を、いぶし銀に結びつけるのか、
烏の濡れ羽色を想像するのか。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その1)

先ほど書いた「BBCモニター、復権か(音の品位・その7)」についたfacebookでのコメントには、
タンノイの音はいぶし銀なのか、とあった。

その方は50年来タンノイを鳴らされている。
タンノイが鳴らす弦の音は烏の濡れ羽色といったほうが近い、とも書かれていた。

日本ではいつのまにかタンノイの音を表わすのに、いぶし銀が使われている。
けれど、「BBCモニター、復権か(音の品位・その7)」で書いたように、
もともとタンノイに使われた表現ではないようなのだ。

それにオーディオ評論家の誰かが最初に使ったわけでもないようだ。
五味先生は、「むかしは」と書かれている。

誰が言い始めたのか、いまでははっきりしない。
けれど昔から使われていたのが、なんとなく広まり、
なんとなくタンノイの音に使われることが多くなっていったのが真相のようだ。

では、タンノイの音は、ほんとうにいぶし銀なのか。
いぶし銀といわれる音が、どんな音なのかについて書く前に、
私自身はタンノイの弦の音は、コメントされた方と同じで、
烏の濡れ羽色に近い、と感じる。

ただし私の場合、条件つきで、
フロントショートホーンをもつタンノイが、うまく鳴った時に限られる。
オートグラフ、ウェストミンスター、タンノイ純正ではないが、
ステレオサウンド特製のコーネッタ、
これらのタンノイがうまく鳴った時の音の、
うまく鳴らした時の弦の音は、烏の濡れ羽色に近い、と表現したくなる。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その8)

教養ある音、とひとつ前に書いた。
この「教養ある音」も、わかりやすいようで、
いざ誰かに説明しようとなると、なかなか難しいことに気づく。

目の前にいくつものスピーカーがあって、
その中に、私が教養ある音を感じる音を出すスピーカーと、
その反対に教養のない音といいたくなる音のスピーカーをふくめて、
いくつかのスピーカーが用意されていたら、説明は少しは楽になり、
具体的になっていく。

けれど、いざ言葉だけで、
しかも教養ある音という意味をまったく理解していないと思われる人にどう説明するか。
結局、教養ない音を説明していくしかないのか、と思う。

私の表現力が足りないといえばそれまでであるのだが、
それでも教養ある音を見事に説明している表現に出合っていない。

たとえば別項「オーディオ機器の付加価値(その5)」に登場する人は、教養ある、とはいわない。

知識はいっぱい持っている。知識欲も高い。ついでに学歴も高い。
それが教養ある人じゃないか、といわれると、これの説明もまた困るけれど、
堂々めぐりすることになるが、結局、品がないのだ。

音の品位について書いていて、
そこでいぶし銀、教養ある音を持ち出してきておいて、
それらについて満足に説明せずに、品がない、と言ってしまう。

いいかげんな説明(にもなっていないのはわかっている)だ。
それでも、品がない、のだ。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その7)

音の品位について語ることの難しさがあるのを実感している。
音の品位に関係してくるものに、教養のある音、というのがある。

この表現も、わかったようなわからないようなものだ。
その教養のある音にも、音の品位にも関係してくるのに、いぶし銀がある。

いまでも、音の形容詞として、このいぶし銀は使われているのだろうか。

ステレオサウンド 207号にタンノイのスピーカーは、
EatonとArden、Kensington/GRの三機種が対象となっているが、
その試聴記に、いぶし銀が出てくるのは、和田博巳氏担当のArdenだけだ。

いぶし銀はいつごろから使われているのだろうか、
ということを九年前に「井上卓也氏のこと(その20・補足)」で書いている。

いぶし銀そのもののではないが、
ほぼ同じ意味合いの表現が、五味先生の「西方の音」に出てくる。
     *
アコースティックにせよ、ハーマン・カードンにせよ、マランツも同様、アメリカの製品だ。刺激的に鳴りすぎる。極言すれば、音楽ではなく音のレンジが鳴っている。それが私にあきたらなかった。英国のはそうではなく音楽がきこえる。音を銀でいぶしたような「教養のある音」とむかしは形容していたが、繊細で、ピアニッシモの時にも楽器の輪郭が一つ一つ鮮明で、フォルテになれば決してどぎつくない、全合奏音がつよく、しかもふうわり無限の空間に広がる……そんな鳴り方をしてきた。わが家ではそうだ。かいつまんでそれを、音のかたちがいいと私はいい、アコースティックにあきたらなかった。トランジスターへの不信よりは、アメリカ好みへの不信のせいかも知れない。
     *
音を銀でいぶしたような、という表現で、しかも、むかしは形容していた、とも書かれている。
五味先生のまわりでは、かなり以前から、英国の「教養ある音」のことを表す言葉として使われていたことになる。

いぶし銀とは、硫黄をいぶして、表面の光沢を消した銀のことなのだから、
音を銀でいぶしたような──は、正しい表現とはいえないわけだが、
とにかく英国の「教養ある音」のことであり、
それがいつしかタンノイの音の代名詞のようになっていったのではないだろうか。

とはいえ、この「いぶし銀」でどういう音をイメージするのかは、
そうとうに人によって違うようにも感じている。