Archive for category High Fidelity

Date: 10月 21st, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その29)

ハイ・フィデリティ再生──、英語で表記するとどうなるか。
ハイ・フィデリティはそのまま High Fidelity、再生は play back だったりreplay。

High Fidelity ということばが生れたのはモノーラル時代で、ただしくは High Fidelity Reproduction と表記する。
このとき対することばとして、Good Reproduction もつくられている。
どちらにも reproduction が使われている。

reduction の意味は、複製、模造、再生、再現、再生産があり、
re(リ) をはずせば、production(プロダクション)だ。

別項の「音を表現するということ」で書いてるが、
リモデリング、リレンダリングと同じように、リプロダクションにも、「リ(Re )」が頭についている。

ハイ・フィデリティ・リプロダクションとグッド・リプロダクション。

ふたつのことばが生れたときと現在とでは、その関係に変化が生じているところもあると感じているし、
モノーラルからステレオへの変化にともなって High Fidelity Reproduction も変化している。
その変化に対しての受けとめ方、とらえ方の相異が、五味先生と高城重躬氏の相異であり、
のちの訣別へと関係していくように、思えてならない。

そして、高城氏にとってのハイ・フィデリティ再生は、High Fidelity Play backであり、
五味先生にとっては、High Fidelity Reproduction だったように思えてならない。

Date: 9月 19th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その28)

この「純化」は、「切り離す」ことで生まれてくるもののはず。
「切り取る」だけの行為では純化されることはない。

これが、五味先生のバイロイト音楽祭の録音と、高城氏のご自身のピアノ録音との違いの本質だと思う。
ここに、ハイ・フィデリティ再生と原音再生の決定的な違いもある。

Date: 9月 18th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その27)

作曲家は、譜面に自分の裡にある曲を音譜に変換していく。
演奏者は、その音譜を音に変換していく。

その過程に置いて、すべてが忠実に変換されているわけではない。
だから優れた演奏者は、音譜を音にするだけでなく、その作品を音にする。
ここに演奏者による変調がある、と思っている。

そして、そこに濾過もあると思っている。

ベートーヴェンやモーツァルトがつくった曲が、何人もの人をとおしてレコードとなってわれわれの元に届く。
演奏者、録音にたずさわった人たち……。
人から人、その過程に変換が介在していくことで、100%の伝送なんてない。
なにかが欠けていく。そして、変調によってなにか(ときには個性、解釈)が足されていく。

さらに人というフィルターをとおっていく。音楽、音は人を介するたびに濾過されていく。
濾過されることで、またなにかを失うともいえる反面、
濾過ということばがあらわすように不要なものが省かれするはずだ。

ここで一流の演奏家と二流の演奏者とが分かれるような気がする。
一流の演奏家は濾過によって、音楽、音が純化されていく。
そうでない演奏者では濾過によって、大切なもの(エッセンスといったものか)を失っていく……。

録音もそうだろう。一流の録音とそうでない録音の違いは、濾過によって純化されていくのどうか。

音楽は作曲から難解となく切り離されていくことで、濾過されていく。
そこで純度が高まっていくこともあれば、蒸留水みたいに無味乾燥になっていくこともある。

この「純度」こそが、音楽の浄化へと唯一つながっていく、いまそう思えるようになった。

Date: 9月 17th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その26)

オーディオを構成・成立させる技術(要素)は、大きく3つある。
変換(conversion, transformation)、変調(modulation)、濾過・濾波(filtration)だ。

アンプの機能の「増幅」は、入力信号そのものを増幅(大きく)しているわけではなく、
入力信号に応じてDC電源を変調させて、その結果を出力としている。
アンプの源であるDC電源も、大半のアンプはACを濾過(濾波)してDCに変換している。

マイクロフォンは振動を電気信号に、スピーカーはその反対に電気信号を振動に変換しているし、
録音ヘッドは電気信号を磁気に、再生ヘッドは磁気を電気信号に。
カートリッジはレコードの溝による振動を電気信号にかえ、
フォノイコライザーはRIAAカーヴというフィルターにそってイコライジングする。

トランスもそうだ。電源トランスも信号用トランスも、その名(Transformer)の通り、変換器である。

もっとこまかにアンプやスピーカー、CDプレーヤーの内部を見ていけば、
変換、変調、濾過(濾波)がそこかしこにあり、
それらが組み合わされてそれぞれのオーディオ機器が構成されていることがわかる。

この変換、変調、濾過は、演奏行為、録音行為にそのままあてはまると私は思う。

Date: 9月 16th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その25)

こう書いていると、そんなことは屁理屈だという人もいよう。
「戻ってゆく」といういったところで、いったいどうやって戻るのか、
そんなことは言葉の上でだけのことだろう、と、そういう人はきっというだろう。

そういう人に対して、なにかをいう気は、もうない。
理解できない人はそれでいいだろう。

想うのは、「戻ってゆく」ものだから消さずに残されているところに、
五味先生の音楽に対する「誠実さ」がはっきりとある、ということだ。

音楽を切り離す行為に必要なのは、やっぱり「誠実さ」であるはずだ。

切り離す行為は、なにも録音だけではない。
クラシックにおいては、演奏することが、作曲家から切り離す(ときには奪い取る)行為のように思えてくる。

演奏者が切り離したものを、録音エンジニアがさらに切り離していく。
さらに録音エンジニアとマスタリングエンジニアが異れば、そこでまた別の人間による切り離しがある。
アナログディスクであれば、カッティングエンジニアがさらに切り離していく。

ひとからひとへとわたっていくたびに、切り離されていく。
そうやって幾度となく切り離されたものを、われわれは家庭で聴く。

Date: 9月 15th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その24)

ワグナーは神々の音楽を創ったのではない、そこから強引にそれを奪い取ったのだ、奪われたのはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう、してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のとへ戻ってゆく音ではないか。
     *
この項の(その12)で引用したことを、もういちどくり返す。
ワグナーが、神々から奪ったのと同じ意味で、
録音という行為は、その場から「奪い取る」とまでは表現しなくても、「切り離してくる」行為である。

市販されているアナログディスクやCDによって音楽を聴くとき、
われわれは誰かの手によって「切り離された」ものを再生している。
そこに、聴き手の「切り離す」行為は存在しない。

バイロイト音楽祭を、それがたとえ誰かの手により録音されて、それがさらに誰かの手によって放送されていても、
その放送されたものから、五味先生は自らの手で切り離されていた、つまり録音されていた。
強引な表現がゆるされるなら、「奪い取る」につながる行為でもあろう。

だからこそ五味先生は、気に食わぬ演奏だとしても、消さずに残しておられた。
その「なぜ?」に対して、五味先生は「音による自画像」という答がすぐ返ってきた、と書かれている。

でもそれだけではない、そんな気もがする。
ワグナーが神々から奪い取ったものは、いずれ神話の中に還って行くように、
五味先生が切り取られた(奪い取った)ものも、いずれ「戻ってゆく音」であったように感じられていた。
だからこそ消されなかった、というよりも消すことは許されなかった。
消してしまったら、戻ってゆくことができなくなるから。

Date: 9月 14th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その23)

ボリュウムを少し絞る(音量を録音する対象よりも小さくする)という行為は、
さげた音量の分だけ「原音」からなにかをすこしだけ切り取る、といえないだろうか。

まずマイクロフォンが、その部屋に放出されたピアノの音すべて収録しているわけではない。
なにかを取り零している。言いかえれば、切り取って収音している。
それはなにもマイクロフォンが技術的に完璧なものでないだけでなく、
完璧なマイクロフォンセッティングがないためでもある。

とにかくすでにマイクロフォン(およびセッティング)で、原音を切り取っている。
切り取られ電気信号に変換され、録音器におくられる。
この伝送経路でもわずかとはなんからのロスが生じる。

電気信号は録音ヘッドによって磁気に変換されてテープへと写される。
ここでも、なにかが取り零され、切り取られていく。
そのテープを再生するときでも、完全にすべてを電気信号に変換できているという保証はどこにもない。

やはりここにも取り零しがあって、切り取られたものが電気信号へ変換されてアンプに送られ、スピーカーを鳴らす。

高城重躬氏のように、同じ空間(環境下)において、
そこにあるピアノを録音して再生することで「原音再生」を目ざして装置を改良していくということは、
取り零しを極力へらし、「切り取り」ではなくしていく行為のように、私は考える。

こまかいところでいろいろと指摘したくはなるものの、この手法そのものを、頭から否定しはしない。
正攻法といえば正攻法といえなくてもない。
だが、この手法によって改良された装置(音)が、誰かの手による録音、
つまり市販されているアナログディスクなりCDといったプログラムソースを再生するにあたり、
どれだけ有効か、ということについては、はなはだ疑問をもつ。

それは市販されているプログラムソースは、切り取られたのものではあるが、
それ以上に「切り離された」ものであるという性格が強いからである。

この「切り離す」行為が、五味先生のバイロイト音楽祭の録音行為である。
そう断言する。

Date: 9月 2nd, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その22)

高城氏に質問することはもうできないが、ひとつ確かめておきたかったのは、
再生時の音量について、である。

原音再生を掲げられていて、ずっと追求されてきたわけだから、
少なくともあの場所でピアノを録音し再生するときの音量は、
録音時のピアノが鳴らしていた音量そのままのはずである。
もうその音量よりも、再生時において小さかったり大きかったりしたら、原音再生とは厳密にいえなくなる。

いいかえれば、原音再生に音量設定の自由は存在しない、ということだ。

レコード音楽の再生は、いうまでもなく、そんなことはない。
音量の設定は、聴き手次第で、大きくも小さくもできる。

深夜にどんな大音量を鳴らしてもかまわないという恵まれた環境にあるからといって、
その人が必ずしも大音量で音楽を聴くわけではないし、大音量派といえるひとでも、
昼と夜とでは音量は変ってくることもあるだろうし、深夜ひとりでひっそりとした音で聴く音楽だってある。
反対に、真夜中にひとりきりでマーラーのフォルティッシモを、爆発するような音量で聴きたいときもある。

大音量再生で知られる岩崎先生だって、つねに大音量であったわけでないことは、
書かれたものを読めばすぐわかることだ。

音量をいつでも聴き手の自由に設定できることこそ、レコード再生の大事な因子のひとつである。
この因子が、原音再生にはない、というか、取り除くことによってしか原音再生は成立しない。

原音再生においては、ボリュウムは原音と同じ音量に設定するためのものでしかないわけだ。

Date: 8月 19th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その21)

高城重躬氏は、はっきり「原音再生」を目指されていることを、
それもかなり以前から目指してきた、ということをどこかに書かれていたと記憶している。
「音の遍歴」のなかだったかもしれないし、そのあとに出た著書「レコード音楽論」(どちらも共同通信社刊)か、
どちらかもしくは両方に、そう書いてあったことは確かだ。

手もとに高城氏の書かれたものはまったくないから正確な引用ではないことはお断りしておくが、
高城氏にとっての「原音再生」は市販されているレコードから、ではないということ、
あくまでも自分で録音したものをプログラムソースとして使っての「原音再生」であること、
このことを強調されていたように記憶している。

そのための自宅でのピアノの録音でもあったわけだろう。

ピアノとスピーカーが同じ空間にあり、その場で録音してその場で再生し、そこで比較すること。
そしてふたつの音の差がほとんど聴き分けられなくなるようにしていくことは
「原音再生」への正しいアプローチである、とほんとうにいえるだろうか。

一見正しいように思える、このアプローチには陥し穴がないのだろうか。

Date: 8月 11th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その20)

高城重躬氏のピアノの腕前がどのくらいであったのかは、まったく知らない。
そうとうながくピアノを演奏することはつづけられていたと聞いている。
そのあいだに、ピアノの腕は上達するだろうし、録音器材の進歩もある。また録音技術の上達もあるはずだ。

そうなると以前のテープに録音したものよりも、
新しく録音したものが、ピアノの腕も音もよくなっているとしていいだろう。

五味先生は、バイロイト音楽祭のテープを演奏が気に入らないものでもとっておかれていた。
その点、高城氏はどうだったのだろうか。

自分の演奏以外の録音に関しては、とくにハンス・カンの録音のものは保管しておられただろうが、
ご自身の演奏については、気にくわないものに関しては、古くなったと感じられたものは消去されていたのか。

このあたりにも、ふたりのちがいがあると、そんな気がする。

そして高城氏にとって、ハイ・フィデリティは「原音再生」であったはずだ。

Date: 8月 6th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その19)

もう10年以上前のことになるだろうか、記憶が薄れているところもあって、
詳細なところは少々違ってしまっているかもしれないが、
あるテレビ番組で、海外のバレリーナ(世界的に有名な人だった)が答えていた。

「最良・最高のバレエの教師は、ビデオカメラである」と。
「ビデオカメラがあることが、昔の人たちともっとも違うところでもある」とも続けていた。

ビデオカメラで自分の練習、踊りを録画して再生することで、冷静に正確に自分の踊りを、自分自身で判断できる。
誰かの目をとおしての誰かの意見ではなく、自分の目で自分の踊りをすぐさま観察できる。

高城重躬氏が録音されるのは、ご自身の演奏を録音・再生されるのは、なぜかを考えるにあたって、
このバレリーナの話が、頭に浮んできた。

演奏しながら、もちろんいま出している音を聴いてはいる。
でも、それを録音して、スピーカーから再生した音を聴くという行為には、多少の違いがある。

冷静に正確に自分の演奏を捉えたければ、やはりいちど録音してみるのが、
いまのところ、これにまさる方法はないだろうし、これから先もずっとそのはずだ。

音楽を演奏している自分に酔いしれたい、とか、引いていることだけに満足している、
それだけで充分だという人には、録音はむしろアラをさらすことになり、むしろ遠ざけたいだろうが、
演奏のテクニックをより向上させたい人にとって、録音して聴く行為は不可欠のように思えてくる。

高城氏にとっての録音は、そういう意味あいが強かったのだろうか。

Date: 8月 4th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その18)

高城重躬氏は、ときおり親しくされていたピアニスト(たしかハンス・カンだったと記憶している)の演奏も、
自宅のリスニングルームのスタインウェイで録音されていたが、多くはご自身の演奏だったはずだ。

自分の部屋で自分の演奏を録音し、同じ部屋で再生する。
このことこそ「音による自画像」ではないかという指摘もあろう。

でも、実際のところどうなのだろうか。

五味先生も、バイロイト音楽祭の録音を思い立ち始められるときから、
すでに「音による自画像」という意識をもっておられたわけではない。
なぜ録音を続けるのか、なぜ演奏に満足できないテープまで保存しておくのか、
と自問されたゆえの「音による自画像」であるから、高城氏にとって、最初はそういう意識はなかったとしても、
録音を続けられるうちに、「音による自画像」ということを意識されたことはあるだろうか。

高城氏もすでに亡くなられている。そのことを確かめることはできない。
だから憶測に過ぎない、それも根拠らしい根拠はなにもない憶測なのは承知のうえで、
高城氏には「音による自画像」という意識はなかったように思う。
それは日々の記憶ではなかったのか、とも思う。

ここで、いちど私なりに「音の自画像」について考えてみる必要がある。

Date: 8月 2nd, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その17)

どこかのスタジオ、もしくはホールで録音されたピアノのレコードを自宅で再生するのと、
リスニングルームに置かれたピアノを録音して、そのリスニングルームで再生するのとでは、
「再生」と同じ言葉をつかっているものの、内容的にずいぶん違うものといえるところがある。

ハイ・フィデリティを、原音に高忠実度ということに定義するならば、
録音と再生の場を同一空間とする高城重躬氏のアプローチは、しごくまっとうなことといえるだろう。

その場で録音してその場で再生する。そして、ナマのピアノの音と鳴ってきたピアノの音とを比較して、
スピーカーユニットの改良、その他の調整を行っていく。
これを徹底してくり返し行い実践していくだけの、高い技術力と確かな耳、それに忍耐力があれば、
原音再生──ハイ・フィデリティというお題目のひとつの理想──に、確実に近づいていくことであろう。

ただし、この手法は、あくまでも録音の場と再生の場が同一空間であることが絶対条件であり、
このことが崩れれば、そうやって調整したきたシステムは、
いかなるプログラムソースに対しても、はたしてハイ・フィデリティといえるのだろうか。

そしてもうひとつ。録音という行為にふたりとも積極的に取り組まれている。
けれど高城氏に、「音による自画像」という認識はあったのだろうか。

Date: 8月 1st, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その16)

高城重躬氏も、録音には積極的にとりくまれていた。
たしか、五味先生がつかわれていたティアックのR313は、高城氏のすすめで購入されたものだ。

高城氏は、なにを録音されていたのか。
放送されたものも録音されていたのたろうけど、高城氏がおもに録音対象とされていたのは、
リスニングルームにおかれてあったスタインウェイの音であり、ときには秋の虫のすだく音である。

スタインウェイがある空間、ここに設置されているスピーカーによって、
録音されたスタインウェイの音が鳴らされる。
この比較によって、音を判断・調整されていたようだ。

高城氏にとって、市販のレコードはメインのプログラムソースであったのだろうか。
もちろんレコードも、数多く聴かれていたであろう。で、氏の著書「音の遍歴」を読んだ印象では、
やはり自分で録音したテープこそが、最良のソースであったように感じてしまう。

レコード、そしてバイロイト音楽祭の録音に重きをおかれた五味先生と、
自身のリスニングルームでの録音に重きをおかれていた高城氏とでは、なにもかもが違ってきてとうぜんとも思える。

レコードにしろ、バイロイト音楽祭を収録したテープにしろ、
どちらも録音された場は、再生の場と異る。それも空間の広さ、建物の構造など、多くのものが大きく異ってくる。

一方、高城氏の場合は、録音の場と再生の場は、完全に一致している。

Date: 7月 31st, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その15)

「ことば」は人を動かす。
目の前にいるあなたを動かす、活字になれば見知らぬ誰かを動かす。
自分の「ことば」によって、「わたし」が動くこともある。

「音による自画像」という、自身でつぶやかれた「ことば」によって、五味先生は動かれた、思考された。

長くなるが引用しよう。
     *
 ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
音楽家は、自分の体験を音で描写しないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョヴァンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝とみることはできるだろう。
 モーツァルトは幼いころトランペットの音に我慢がならなくて──トランペットに限らず、なんらかの和音によって和らげられない単音を、きつい音で鳴らすのは、すべて彼にとって耐えられぬ苦痛だったとスタンダールは書いているが──そんなトランペットを父親が幼いモーツァルトに示しただけで彼は、ピストルをつきつけられたようなショックをみせたという。そして、そういう責苦を自分に与えないでほしいと父親に頼んだ、父親レオポルドは息子の将来のために、その恐怖心を払拭しようとトランペットを吹いた、最初の一音を耳にしただけで息子は蒼ざめ、床に倒れてしまったという。十歳ごろだそうだが、そんなモーツァルトだから、何か滑稽な意味を表わすときには金管に一発やらせる。『フィガロの結婚』でそういう金管を聴くことができるし、『ドン・ジョヴァンニ』にでも、地獄の門の近いことを表わすのに強迫的意味でトロンボーンを使っている事実は、金管嫌いの少年モーツァルトと無縁ではないように思う。つまりそこに、ナマの人間モーツァルトが出て来はしないか、と考える。
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、ときには倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうメタフィジカルなものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりにはなろう。音符が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。
     *
ここに引用したことは、「音による自画像」という「ことば」から生れてきた、導き出されてきたものであるはずだ。