ハイ・フィデリティ再考(その24)
ワグナーは神々の音楽を創ったのではない、そこから強引にそれを奪い取ったのだ、奪われたのはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう、してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のとへ戻ってゆく音ではないか。
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この項の(その12)で引用したことを、もういちどくり返す。
ワグナーが、神々から奪ったのと同じ意味で、
録音という行為は、その場から「奪い取る」とまでは表現しなくても、「切り離してくる」行為である。
市販されているアナログディスクやCDによって音楽を聴くとき、
われわれは誰かの手によって「切り離された」ものを再生している。
そこに、聴き手の「切り離す」行為は存在しない。
バイロイト音楽祭を、それがたとえ誰かの手により録音されて、それがさらに誰かの手によって放送されていても、
その放送されたものから、五味先生は自らの手で切り離されていた、つまり録音されていた。
強引な表現がゆるされるなら、「奪い取る」につながる行為でもあろう。
だからこそ五味先生は、気に食わぬ演奏だとしても、消さずに残しておられた。
その「なぜ?」に対して、五味先生は「音による自画像」という答がすぐ返ってきた、と書かれている。
でもそれだけではない、そんな気もがする。
ワグナーが神々から奪い取ったものは、いずれ神話の中に還って行くように、
五味先生が切り取られた(奪い取った)ものも、いずれ「戻ってゆく音」であったように感じられていた。
だからこそ消されなかった、というよりも消すことは許されなかった。
消してしまったら、戻ってゆくことができなくなるから。