ハイ・フィデリティ再考(その25)
こう書いていると、そんなことは屁理屈だという人もいよう。
「戻ってゆく」といういったところで、いったいどうやって戻るのか、
そんなことは言葉の上でだけのことだろう、と、そういう人はきっというだろう。
そういう人に対して、なにかをいう気は、もうない。
理解できない人はそれでいいだろう。
想うのは、「戻ってゆく」ものだから消さずに残されているところに、
五味先生の音楽に対する「誠実さ」がはっきりとある、ということだ。
音楽を切り離す行為に必要なのは、やっぱり「誠実さ」であるはずだ。
切り離す行為は、なにも録音だけではない。
クラシックにおいては、演奏することが、作曲家から切り離す(ときには奪い取る)行為のように思えてくる。
演奏者が切り離したものを、録音エンジニアがさらに切り離していく。
さらに録音エンジニアとマスタリングエンジニアが異れば、そこでまた別の人間による切り離しがある。
アナログディスクであれば、カッティングエンジニアがさらに切り離していく。
ひとからひとへとわたっていくたびに、切り離されていく。
そうやって幾度となく切り離されたものを、われわれは家庭で聴く。