ハイ・フィデリティ再考(その23)
ボリュウムを少し絞る(音量を録音する対象よりも小さくする)という行為は、
さげた音量の分だけ「原音」からなにかをすこしだけ切り取る、といえないだろうか。
まずマイクロフォンが、その部屋に放出されたピアノの音すべて収録しているわけではない。
なにかを取り零している。言いかえれば、切り取って収音している。
それはなにもマイクロフォンが技術的に完璧なものでないだけでなく、
完璧なマイクロフォンセッティングがないためでもある。
とにかくすでにマイクロフォン(およびセッティング)で、原音を切り取っている。
切り取られ電気信号に変換され、録音器におくられる。
この伝送経路でもわずかとはなんからのロスが生じる。
電気信号は録音ヘッドによって磁気に変換されてテープへと写される。
ここでも、なにかが取り零され、切り取られていく。
そのテープを再生するときでも、完全にすべてを電気信号に変換できているという保証はどこにもない。
やはりここにも取り零しがあって、切り取られたものが電気信号へ変換されてアンプに送られ、スピーカーを鳴らす。
高城重躬氏のように、同じ空間(環境下)において、
そこにあるピアノを録音して再生することで「原音再生」を目ざして装置を改良していくということは、
取り零しを極力へらし、「切り取り」ではなくしていく行為のように、私は考える。
こまかいところでいろいろと指摘したくはなるものの、この手法そのものを、頭から否定しはしない。
正攻法といえば正攻法といえなくてもない。
だが、この手法によって改良された装置(音)が、誰かの手による録音、
つまり市販されているアナログディスクなりCDといったプログラムソースを再生するにあたり、
どれだけ有効か、ということについては、はなはだ疑問をもつ。
それは市販されているプログラムソースは、切り取られたのものではあるが、
それ以上に「切り離された」ものであるという性格が強いからである。
この「切り離す」行為が、五味先生のバイロイト音楽祭の録音行為である。
そう断言する。