Date: 7月 31st, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐
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ハイ・フィデリティ再考(その15)

「ことば」は人を動かす。
目の前にいるあなたを動かす、活字になれば見知らぬ誰かを動かす。
自分の「ことば」によって、「わたし」が動くこともある。

「音による自画像」という、自身でつぶやかれた「ことば」によって、五味先生は動かれた、思考された。

長くなるが引用しよう。
     *
 ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
音楽家は、自分の体験を音で描写しないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョヴァンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝とみることはできるだろう。
 モーツァルトは幼いころトランペットの音に我慢がならなくて──トランペットに限らず、なんらかの和音によって和らげられない単音を、きつい音で鳴らすのは、すべて彼にとって耐えられぬ苦痛だったとスタンダールは書いているが──そんなトランペットを父親が幼いモーツァルトに示しただけで彼は、ピストルをつきつけられたようなショックをみせたという。そして、そういう責苦を自分に与えないでほしいと父親に頼んだ、父親レオポルドは息子の将来のために、その恐怖心を払拭しようとトランペットを吹いた、最初の一音を耳にしただけで息子は蒼ざめ、床に倒れてしまったという。十歳ごろだそうだが、そんなモーツァルトだから、何か滑稽な意味を表わすときには金管に一発やらせる。『フィガロの結婚』でそういう金管を聴くことができるし、『ドン・ジョヴァンニ』にでも、地獄の門の近いことを表わすのに強迫的意味でトロンボーンを使っている事実は、金管嫌いの少年モーツァルトと無縁ではないように思う。つまりそこに、ナマの人間モーツァルトが出て来はしないか、と考える。
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、ときには倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうメタフィジカルなものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりにはなろう。音符が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。
     *
ここに引用したことは、「音による自画像」という「ことば」から生れてきた、導き出されてきたものであるはずだ。

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