Date: 7月 30th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐
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ハイ・フィデリティ再考(その14)

「音による自画像」、そういったものがありえるのだろうか、そう思われる人はいて当然だろう。
音は聴くものであり、目に見えるものではない。

たしかにそうであり、そういってしまえば「音による自画像」は、
五味先生の筆力から生れてきたものでしかない……、
はたしてそう言い切れるだろうか。

自分でマイクロフォンをセッティングし音を調整しての録音であれば、
それは自画像と呼べなくとも、それに近くはなるかもしれない。
さらにピアノなりヴァイオリンなり、なんらかの楽器を演奏しての録音ということになれば、
もうすこし自画像に近いものになるのだろうか。

反論がきこえてくる。録音されていたのは、放送されたものだろう、という。
録音されていたのは、バイロイト音楽祭の放送であり、第三者が録音したものでしかない。

それをどんなに高価で音の良いチューナーで受信して、市販されているもののなから、
もっとも信頼できるテープデッキを選び出してきたとして、
そこには自分で自分の演奏を録音する行為にみられる、わかりやすい能動性は見えてこない。

だから浅薄な考えで、わかりきった反論をする人はいよう。
「音楽は見るものではないだろうか?」という見出しのあとに、こう続けられている。
     *
画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほど写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。
(中略)いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。
     *
五味先生の自問はつづく。

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