ハイ・フィデリティ再考(その27)
作曲家は、譜面に自分の裡にある曲を音譜に変換していく。
演奏者は、その音譜を音に変換していく。
その過程に置いて、すべてが忠実に変換されているわけではない。
だから優れた演奏者は、音譜を音にするだけでなく、その作品を音にする。
ここに演奏者による変調がある、と思っている。
そして、そこに濾過もあると思っている。
ベートーヴェンやモーツァルトがつくった曲が、何人もの人をとおしてレコードとなってわれわれの元に届く。
演奏者、録音にたずさわった人たち……。
人から人、その過程に変換が介在していくことで、100%の伝送なんてない。
なにかが欠けていく。そして、変調によってなにか(ときには個性、解釈)が足されていく。
さらに人というフィルターをとおっていく。音楽、音は人を介するたびに濾過されていく。
濾過されることで、またなにかを失うともいえる反面、
濾過ということばがあらわすように不要なものが省かれするはずだ。
ここで一流の演奏家と二流の演奏者とが分かれるような気がする。
一流の演奏家は濾過によって、音楽、音が純化されていく。
そうでない演奏者では濾過によって、大切なもの(エッセンスといったものか)を失っていく……。
録音もそうだろう。一流の録音とそうでない録音の違いは、濾過によって純化されていくのどうか。
音楽は作曲から難解となく切り離されていくことで、濾過されていく。
そこで純度が高まっていくこともあれば、蒸留水みたいに無味乾燥になっていくこともある。
この「純度」こそが、音楽の浄化へと唯一つながっていく、いまそう思えるようになった。