Archive for category 「ネットワーク」

Date: 12月 10th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その8)

1970年代終りから1980年代なかばにかけてのステレオサウンドは、
全国のオーディオクラブのいくつかを訪問して記事にしている。

そこに登場している集まりは、確かにオーディオクラブだな、と思う。
そう思うのはなぜだろうか、
そしてSNSにあるいくつかのオーディオ関係のグループを、そう思わないのはなぜだろうか。

はっきりとした答を見出したわけではないが、
一つは偏愛ではないだろうか。

オーディオクラブには、偏愛がある。
その偏愛が強いほど、そのオーディオクラブの色は、
記事で読んでもはっきりと伝わってくる。

SNS(facebook)にあるオーディオ関係のグループで、
参加人数が多いところほど、偏愛からは遠いところにある、といえる。

SNSの普及は、
別項の「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」を増やしてきているのではないのだろうか。

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」たちには、
純粋な偏愛はないような気さえする。

偏愛をもっているのかもしれないが、物分りのいい人ぶることを優先するあまり、
認めようとしないのではないのか。

そんなふうに考えみると、
昔のオーディオクラブは、やはり偏愛の人たちの集まりであり、
偏愛の純度を高めたいがために集まっていたのかもしれない。

Date: 12月 9th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その8)

その7)へのコメントがfacebookであった。
そこには、ヴィンテージオーディオで聴かせるジャズ喫茶での音が、
自然で浸透力が高かった──、
なぜ、オーディオは、この方向に進まなかったのか──。

このことは、別項「うつ・し、うつ・す(その13)」で書き始めた描写力ということと、
深く関係してくることと考えている。

いまヴィンテージオーディオと呼ばれているモノのすべて、とはいわないが、
少なくとも私が名器と感じているオーディオ機器、
特にスピーカーシステムにおいては、描写力に秀でていると感じることが多い。

オーディオは科学技術の産物である。
これは否定できない。
ゆえに技術の進歩としては、描写力という、
人の感性でしか判断できない領域ではなく、写実性という領域を追求することが、
いわば本道であろうし、誤解を招くことになろうが、その方が容易である。

容易である、と書いているが、あくまでも比較してのことである。

同じことではあるが、思い出すことがある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という試聴記事が載っている。

そこで菅野先生の発言を思い出す。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。

マッキントッシュ号は1976年に出ている。
ここから四十年以上が経っている。
クラシックのピアニストを眺めてみて、コルトーのような演奏家は登場してきただろうか。

Date: 12月 4th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その7)

情報量ということでいえば、
オーディオの世界だけでなく、社会全体で増えていっていることだけは確かである。

電車に乗れば、周りの人のほとんど、といっていいほどに多くの人が、
スマートフォンで何かしら見ている。

ドアの上部には液晶画面がついていて、なんからの映像が常に流れている。
目的地につけば、自動改札機にも広告が貼られていることが増えている。

いろんなところにいろんな情報が氾濫している。
情報の波(渦)に、大都市になればなるほど晒されている、といっていい。

それからテレビにしても、従来の走査線とは比較にならないほど増しているということは、
それだけ情報量が増えているということである。

新聞の写真にしても、昔はモノクロの粗いものでしかなかったのが、
カラーになり粗さも減っている。

こんなふうにいろんなところで情報量は確実に増していっている。
オーディオの世界では、ハイレゾリューションの登場がまさにそうである。

その一方で、カセットテープのブームもある。
カセットテープの音を聴くと、ほっとする、という記事も複数みかけている。

この、ほっとするは、もしかすると情報量が適度に少ないからなのではないのか。
情報量の多さに、知らず知らずのうちに疲弊しているのかもしれない。

そこに昔馴染んでいたころの適度な情報量で、
音楽を聴けるのがカセットテープという捉え方もできる。

Date: 10月 14th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

人工知能的な存在を感じた出来事(その2)

ヤフオク!が、すすめてきたアナログプレーヤーは、Collaroだった。
コラーロの、古いアナログプレーヤーだった。

どこかのオーディオ店ではCollaroをコーラルと表記していた。
とにかく古いメーカーである。

私もコラーロのことはほとんど知らない。
なんとなく知っているくらいで、
いまもイギリスにはCollaro Audioがある。

古さを感じさせるロゴからして、同じコラーロなのだろう。
ただコラーロという会社は一度なくなっていると記憶している。

なのでブランドだけの復活なのかもしれない。
いまのところ、ターンテーブルマットを売っている。

そのコラーロの古いアナログプレーヤーが、ヤフオク!でおすすめとして表示された。
私が検索してきたものと、どういう関連付けから、このプレーヤーを表示してきたのか、
まったく理解できない。

私はコラーロのプレーヤーを欲しい、と思っていたわけではなかった。
ふつうだったら、ヘンなモノを表示してきたな、で終ってしまう。

でもコラーロのプレーヤーだけは違っていた。
コラーロのプレーヤーは、ごく初期のデッカのデコラに採用されていた。

一般的にデコラにはガラードの301が使われている、と思われがちだ。
私もデコラの存在を知ったばかりのころは、301がそうだ、と思い込んでいた。

初期のデコラは違っていた、ということを知ったのは、数年経っていた。

ヤフオク!で、コラーロが出てくるのは、過去にどれくらいあっただろうか。
しかも動くコラーロが出品されるのは、かなり稀なのではないだろうか。

私にしてもコラーロのプレーヤーを見たのは、
デコラについているモノと、数年前にオーディオ店に中古として入荷していたモノぐらいだ。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

人工知能的な存在を感じた出来事(その1)

現在の人工知能と呼ばれているものの実態は、
ディープラーニングだ、といわれている。
処理速度が劇的に向上したからこそのディープラーニングである、とも。

そうなのだろう、となんとなく理解していても、
人工知能と呼びたくなるような機能が、すでにあるような気もしている。

別項「ダイレクトドライヴへの疑問(その34)」で、こんなことを書いている。
     *
ヤフオク!は、「お探しの商品からのおすすめ」をしてくれる。
PL30Lや50Lを眺めていたときに、そこにテクニクスのSL01が表示された。

SL01を検索してもいないのに、それまでの履歴からSL01を表示する。
なんなんだろう、この機能は? と感心するとともに、
少しばかり空恐ろしくなるところでもある。
     *
この時は、パイオニアにしてもテクニクスにしても、
どちらも近い時期に発売されていたダイレクトドライヴ型のアナログプレーヤーである。
価格的にも近い。

なので「お探しの商品からのおすすめ」として、SL01が表示されるのは、
わからないわけではない。
それでも驚いたし、感心もした。

9月、iPhoneにインストールしているヤフオク!を眺めていたら、
「お探しの商品からのおすすめ」に、あるアナログプレーヤーが表示された。

イギリスの、とても古いモデルである。
例えば私が、ガラードのプレーヤーをヤフオク!で検索していたら、
このプレーヤーが表示されても、不思議ではない。

パイオニアのプレーヤーを検索していて、
テクニクスが「お探しの商品からのおすすめ」として表示されるのと同じであろうから。

けれど、私がヤフオク!で、
ここ数ヵ月検索していたのは、
ステレオサウンド 56号での瀬川先生の組合せに関係してくるものばかりである。

なのに、ヤフオク!は、
そのイギリス製のプレーヤーを「お探しの商品からのおすすめ」と表示してきた。

Date: 10月 8th, 2019
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その3)

この項の(その1)は、2014年12月8日に書いている。
出たばかりのステレオサウンド 193号に、人脈力が載っていたから、である。

(その3)はもう少し早く書く予定だった。
なのに放ったらかしにしていたのは、
その後のステレオサウンドに人脈力が登場しなくなったことも関係している。

「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事に、
人脈力は、本文にも見出しにも登場している。

それに、この記事には若い読者も登場していた。
なんとなく、この人たちを、将来の筆者に育てようとしているのか……、
そんなふうに勘ぐりもしたけれど、
そこで終ってしまって、それからは登場していないはずだ。

そんなこともあって、
それに他に書きたいこともあって、(その3)を書かずに四年近く経ってしまった。

思い出したように書いているのは、
SNSへの接し方を眺めていると、
言葉にしていわないけれど、
この人は人脈力を目的としているのか、と思うことがあったためだ。

Date: 10月 6th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その5)

自己責任という言葉が頻繁に使われるようになって、
もう十年程が経つのだろうか。

なんとなくでしかないが、自己責任という言葉が登場し、
使われるようになったのと、インターネットの普及はどこかに関係があるのかもしれない。

自己責任という言葉は、はっきりと嫌いである。
使いたい人は使えばいい。それだけのことである。

その自己責任について、ここで取り上げているのは、
自己責任が使われるようになって、
個人の責任という言葉が代りに使われなくなってきたように感じているからだ。

そして個人の責任から逃避する人が増えてきたようにも感じている。
逃避する、という表現が行き過ぎているのならば、
個人の責任を曖昧にする人が増えてきている、といいなおそう。

自己責任と個人の責任の違いについて、
うまく言い表せないままで書いていくのだが、
結局のところ、(その4)で書いた表現のインフレーションは、
こういうところにもどこかで関係しているような気がしてならない。

その2)でも書いているように、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とは、
音楽、オーディオについて語らないようにしている。

このことも、私にとっては同じことなのかもしれない、と思っているところだ。
個人の責任から逃避している、曖昧にしようとしている人と、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とが、どうしても重なってしまう。

Date: 8月 27th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その4)

その多少の誇張は、どこから来るものだろうか──、
そんなことを続けて考える。

弱さから来る多少の誇張なのか、
強さから来る多少の誇張なのか。

まず、この二つを思い浮べた。
この二つは思いついただけにすぎない。

深い考えがあって、弱さから来る、強さから来るを思い浮べたわけではない。
それでも、(その3)での「この人」たちは、
こんなことを意識せずに書いているのかもしれない。

弱さから来る多少の誇張には、怖さがひそんでいるように感じる。
強さから来る多少の誇張にも、別の怖さがひそんでいるようにも感じる。

こんなことを意識せずに書いている多少の誇張は、どうだろうか。
やはり、なんらかの怖さがひそんでいるように感じているし、
その怖さは、弱さから来る、強さから来るものよりも、
なんとなくではあるが、こういうものではないか、という姿がぼんやりと見えている(気がする)。

映画、ドラマでヒーロー(もしくはスーパーヒーロー)が活躍する。
一本だけで完結するのであれば、そんなことは生じないのだが、
人気が出て、何作も映画がつくられたり、ドラマも何シリーズも続くようになると、
ヒーローの強さが回を追うごとに増していく、
いわゆる強さのインフレーションが問題となってくる。

この強さのインフレーションと同じことが起りうるのではないだろうか。
つまり表現のインフレーションとでもいおうか。

SNSは、表現のインフレーションを加速していくのかもしれない。

Date: 8月 26th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その3)

SNSを眺めていて、
特にこの一年感じていることは、この人は、いったいどういう音を鳴らしているのか、である。

ここでの「この人」とは、一人のことではない、複数の人である。

オーディオのシステムのどこかを変える。
そのことで音が変化する、良くなる。
どんなふうに良くなったのかを書いている人がいる。

その人が何かを変えたのは一度だけではない。
何度も、いろんなところをやっている。
その度に、音は良くなっていっている(ようだ)。

それらの投稿を読むと、この人の、いま出している音は、
そうとうなレベルにあるんじゃないか、と思えないこともない。

その人は、前に鳴っていた音との相対評価で、そんなふうに書いているのはわかっていても、
それでも、読んでいくうちに、相対評価ではなく、絶対評価のように思えてきてしまう。

また別の人は、細かな音の違いを聴き分けていることを書いてたりする。
ほんとうに、そんな領域の違いを、そこまではっきりと聴き分けられるのか、
と驚くほどの耳の鋭敏さ、耳の良さを持っている人のようだ。

そこまでの耳を持つ人を満足させるだけの音というのも、
またすごいレベルにあるんだろうな、と上記の人の同じように感じもする。

音を言葉で表現するのは、あらためていうまでもなく難しい。
共通体験がある相手に対してであってもそうであって、
まして共通体験があるのないのか、それすらはっきりとしない相手に対して書くのであれば、
なおさら難しさは増していく。

増していくから、表現には多少の誇張が加わることがある。
この、多少の誇張が、実は怖い、ということを「この人」たちは実感しているのか。

Date: 8月 26th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その2)

その1)へのコメントがfacebookにあった。
SNSには、ミュート機能、フォロー解除などができるようになっている。

いわゆるマルチポストを読みたくなければ、そういう機能をうまく使えば済むことである。
ミュート機能は、特定の人の投稿をミューとしていることは、相手側にはわからない。
なので、マルチポストを頻繁にする人の投稿に対してミュートすればいいだけの話だ。

見たいもの、読みたいものだけを読む、
見たくないもの、読みたくないものは読まない、
そうすることが可能なのもSNSである。

わかっているから、マルチポストをする人がいても、どうでもいい、という気持がある。
けれど、それが音楽、オーディオに関することとなると、
私の場合、話は違ってくる。

思っていること、考えていることを書く、という行為、
それを誰かに読んでもらうために公開するという行為は、
選択から始まっている、と考える。

最初の選択から始まって、次から次へと選択していく。
特に意識していない人もいるかもしれないが、
何かを書いて公開する、ということはそういうことだ、と私は考えている。

これは私の考えだし、誰かに押しつけようとは思っていない。
その人の考えで書いて公開すればいい。

マルチポストしたい人はすればいい。
マルチポストするということは、どういうことなのかを、
「選択」ということで考えてほしい。

そこで選択を放棄している、と私は見る。
いや、多くの人に読んでもらいたいから、という選択からのマルチポストだ──、
そんな反論が返ってきそうだが、それは、もう選択ではない、と私は思っている。

マルチポストをする人は、こういうことはどうでもいいことなのだろう。

それでも、音楽をオーディオを介して、しかも少しでもいい音で聴きたい、と願うことは──、
それをかなえていくためにはやらなければならないことは──、
こういうことを考えていけば、選択のもつ意味の重さが実感できるはずなのに……、と思う。

結局のところ、マルチポストをする人は、これからもしていくだろう。
それを止めようとは思っていない。
好きにやればいい。

私は、というと、(その1)で書いているように、
音楽のこと、オーディオのことを平気でマルチポストする人とは、
音楽、オーディオについて語らないようにするだけだ。

Date: 8月 24th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNSの選択・その1)

私もそうだが、twitterとfacebook、
この二つのSNSのアカウントをつくっている人は多いだろう。

イベントなどの告知をしたいのであれば、twitter、facebookのどちらにも、
同じ内容を投稿するのはわかる。

けれど、思っていること、考えていることを、
twitterにもfacebookにも、同じことを投稿する人が少なからずいる。

多くの人に読んでほしい、という気持のあらわれなのだと一応頭では理解しても、
どちらにも投稿する人をみると、この人は選択することを放棄している(しかかっている)、
そんなふうに見えてしまう。

twitter、facebook、どちらか片方しかアカウントをつくっていないという人もいる。
だから、どちらにも投稿する──、とその人はいうかもしれない。

それでも、あえて「選択しよう」といいたくなる。

なぜ、選択しなければならない──、
そう思うのであれば、それはそれでいい。
その人とオーディオについて語ろうとは、私は思わない、
ただそれだけである。

Date: 2月 2nd, 2019
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その6)

情報量は、さまざまなところで増していっている。
映画は、代表的な列のひとつといえる。
特にCGを多用した映画は、まさにそうだといえるし、
この手の映画に、内容がない、と否定的な人も増えてきているように感じている。

この手の映画を、
できるだけ最新の映画館で、しかも音響もよくスクリーンも大きいところで観る。
CGが多用されたアクションシーンでは、
映画によってはこちらの目が追いつかない、と感じることだってある。

だからといって、そのシーンでの情報量の圧倒的な多さを否定する気はまったくない。
むしろ、こういうシーンを積極的に、映画館で観たい、と思う方である。

そういうシーンが始まると、最初の数分は情報量の多さと、その処理に圧倒される。
それでも暗い映画館で集中していれば、追いつけるようになる。

ここがとても大事なことだと考えている。
情報量の多さは、自分を鍛えるという意味で重要なことである。

処理できない情報量の多さを、
人は自分の処理能力に合わせて単純化(省略化)してしまう、
そういう内容の記事をなにかで読んだことがある。

どこまで事実なのかはわからないが、そうかもしれないとは思う。
脳がオーバーヒートしないように、そうしてしまうのかもしれない。
それに、その方が楽である。

その楽なことを選択してしまえば、老いていくだけだ。
それでもいいという人がいる、
それに抗う人もいる。

情報量があふれている映画を、できるだけ損うことなく観るために、
最新の映画館で、いい音響と大きなスクリーンを求める。
しかも私は前寄りの席が好きである。

追いつくのがたいへんと感じた映画も、そう感じなくなる。
同程度の情報量の映画を次に観ても、たいへんとは感じなくなる。

私の感覚では数年に一本、
明らかにそれまでの映画とは情報量が多いと感じられる映画が登場する。

情報量の多さに否定的であることのすべてを否定はしない。
けれど、否定的である態度の何割かは、受け手側の老いではないだろうか。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(菅野沖彦氏のこと・その3)

2003年から数年間、audio sharingのメーリングリストをやっていた。
そのころ使っていたレンタルサーバーの会社が倒産してしまい、
次のレンタルサーバーの会社にはメーリングリストの機能がなかったので、やめてしまった。

菅野先生には、メーリングリストを始める前から相談して参加していただいた。

菅野先生はメーリングリストには投稿されたことはなかったが、
ステレオサウンドから「新・レコード演奏家論」が出た時に、
何人かの方が、メーリングリストに読まれた感想を投稿された。

菅野先生は、その人たちに返事を直接メールされている。
コピー&ペーストの返信ではなく、
それぞれの人たちの感想を読んだ上での返信である。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(菅野沖彦氏のこと・その2)

すべてに功罪があるからこそ、検証はないがしろにするべきではない、と思っている。
けれど、そのことと誰かの死を、
匿名で不特定多数に向って、喜ぶという行為は、おかしい。

菅野先生に否定的、批判的な人がいるのはわかっている。
私にしても、長岡鉄男氏には、はっきりと否定的、批判的である。

長岡教の信者からすれば、
私などは長岡鉄男氏のことを全く理解していないヤツ、ということのはずだ。

それに長岡教の信者にとって功と認識していることが、
私にとっては罪と認識していたりすることだろう。

そんな私でも、長岡鉄男氏が亡くなったのを喜びはしなかった。
これは誇ることでもなんでもない。
人としてあたりまえのことでしかない。

にも関らず、真逆の人(救いようのない人)がオーディオの世界には少なからずいる。
そんな人(人といっていいだろうか)は、どんな音でどんな音楽をきいてきたのか。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(菅野沖彦氏のこと・その1)

岩崎先生、五味先生、瀬川先生が亡くなられたころと、
いまとではインターネットの普及、それにSNSの普及、スマートフォンの普及がある。

井上先生は2000年12月だった。
インターネットは普及していたけれど、SNSは……、スマートフォンは……だった。
いまは誰でもが手軽に、感じたこと、思ったことを公開できる世の中だ。

菅野先生が亡くなられたことで、多くの人がブログ、SNS、掲示板に書いていることだろう。
中には喜ぶ人もいるだろうから、私は検索することはしなかった。

なので、どんなことが書かれているのかは、ほとんど知らない。
ただおもうのは、菅野先生と会ったことのある人、
さらには菅野先生の音を聴くことができた人は、きっと書いている、と思う。

それは傍から見れば、自慢にしかうつらないかもしれない。
私も書いている。

けれど自慢したいわけではない。
菅野先生の音を聴いている人ならばわかってもらえようが、
菅野先生の音を聴くことが出来た人は、オーディオマニア全体からすれば、
割合としてごくわずかであろう。

幸運にして聴けた、と書いている人もいるかもしれない。
たしかに幸運といっていい。

だからこそ、聴くことがかなわなかった人のためにも、書かなければ──、とおもう。
そうおもって書いている人は多い、とおもう。