オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その13)
まったくよさのない音は、ないのかもしれない。
だからAさんによるBさんの音についての表現は、まったくの創作というわけではない。
それにしても、僅かな美点をそうとうにふくらませての表現であり、
そうでないところにはまったくふれていない。
これはいったい何になるのか。
Bさんにとって励みになるのか、といえばそうだろう。
自分のやってきた音は間違っていないどころか、正しかったとすら思うはずだ。
誇らしげに思っても不思議ではない。
AさんとBさんは親しい関係だ。
BさんはAさんを、人生の先輩、オーディオの先輩として尊敬しているところもある。
それはけっこうなことではあるが、
BさんはAさんの本音を知らないままだ。
知らないまま、その道をつきすすむ。
その結果の音を私は聴いて、絶句した。
それは別項で書いている「間違っている音」であった。
オーディオは自分自身の世界に閉じこもろうとすれば、どこまで閉じこもれるものかもしれない。
だから、昔から人に聴いてもらえ、とか、人の音を聴け、的なことがいわれている。
否定はしない。
しないけれど、そのことはインターネットの登場・普及によって変質してしまった。
以前ならば、聴きにいったり聴きに来てもらったりしたことは、
その二人のあいだのことに留まっていただろう。
それが不特定多数の人に向けて発信できるようになった。
そうなることで変ってしまった。