Archive for category オーディオ評論

Date: 1月 3rd, 2022
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その13)

その8)で書いているように、
ステレオサウンド冬号(221号)の表紙は、B&Wの801 D4だった。

221号は昨年12月下旬には、Kindle Unlimitedで読めるようになっていた。
読めばわかる──、というより、読まなくてもわかる、といいたいほどに、
B&WのD4シリーズは、どの機種も絶賛されている。

特に最上級機の801 D4は、ステレオサウンド・グランプリのゴールデンサウンド賞でもあり、
ベストバイにおいても、ほぼ満票に近い。

新製品紹介での扱いも特別といっていい。
悪く言う人は誰一人いない。

それだけきわめて優秀なスピーカーシステムなのだろう。
そのことにケチをつけようとは、まったく思っていない。
それに聴いていないのだから、音について何か書けるわけでもない。

数年後か十年後くらいには、D5シリーズが登場するであろう。
そのときも、今回とまったく同じことが誌面で展開されるはずだ。

それはそれでいい。
B&Wは、800シリーズを長い年月、磨き上げていっている。
その成果なのだから。

けれど前回のD3シリーズのときもそうだった。
おそらく今回のD4シリーズもそうであろう、
ステレオサウンドで絶賛している人で、
誰かD4シリーズをメインスピーカーとして導入するだろうか。

今回もいないだろうし、D5シリーズが登場しても、そのことは同じかもしれない。

Date: 12月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その2の補足)

その2)で、ラジオ技術 1957年5月号の「誌上討論会 OTL是非論」に触れた。

いま書店に並んでいるラジオ技術(2022年1月号)の復刻コーナーに、
「誌上討論会 OTL是非論」が載っている。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その21)

書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。

家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。

黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。

編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。

そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。

ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。

ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。

Date: 10月 18th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その20)

別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。

まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。

同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。

ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。

オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。

自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。

その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。

ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。

私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。

いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。

その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。

Date: 9月 8th, 2021
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その12)

この項を書いていて、以前から考えていることを思い出している。
オーディオ機器の性能について、である。

特にスピーカーの性能について、といってもよい。

優秀な性能のスピーカーと高性能のスピーカーは同じだろうか。
同じと答える人も、そうではないと答える人も、両方いるはずだ。

私は後者である。
優秀な性能のスピーカーと高性能なスピーカーを同じとは捉えていない。

私がワクワクしていた、昔のモニタースピーカーは高性能のスピーカーであり、
ワクワクを感じなくなった現代のモニターと呼ばれるスピーカーは、
優秀な性能のスピーカーである──、そんな感じがしてならない。

どちらのタイプにワクワクするのかも、人によって違うのだろう。

Date: 9月 7th, 2021
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その11)

試聴室に届いたB&Wの801Fを開梱して、セットする。
中高域のサブエンクロージュアを、ウーファーのエンクロージュア上部に取り付ける。

その際に、こんな簡単(いいかげんな)取り付け方と思ったのを、
いまもはっきりと思い出す。

それまで期待は膨らみ続けていた。
それが一瞬にして萎み始めた。

でも、音は聴いてみないことにはわからない。
音が鳴ってくるまでは、期待はまだまだ残っていた。

801Fを貶めるつもりはまったくないし、悪いスピーカーとも思っていない。
ただこちらが一方的に期待していただけのことであり、
その期待が裏切られた、ということでしかない。

私は勝手にKEFのModel 105のスケールアップした音を期待していた。
そういう音が、801Fからは鳴ってこなかった。
それだけのことである。

それでも期待とは違っていても、こちらをワクワクさせる音が鳴ってくれれば、
B&Wに対する私の印象は、ずいぶん変ったはずだ──。

そう思う反面、ほんとうにそうなっただろうか、と思う気持がそうとうに強くある。

801Fを聴いて、KEFの105と似た格好ながら、精度感が足りないと感じた。
音の体温といいたくなるところも、ぬるいと感じた。

KEFの105の音も、音の体温が高いわけではない。
けれど、その体温感を不快とは感じなかった。
つまりぬるいとは感じなかった。

なのに801Fの音はぬるいと感じた。
このぬるいは、あきらかに不快感である。

801で始まったB&Wの800シリーズは、それから三十年以上かけて、ずいぶん進歩した。
最近の800シリーズの音を聴いて、ぬるいとは感じなくなった。
精度感のたりない音とも感じない。

けれど、音に血が通っている感じを、そこから感じとれるかというと、
つまり音楽を聴いて、血の通った音と感じられるかとなると、
私は疑問が残ってしまう。

正しい方向に向っているのか、
精確な方向に向っているだけなのではないのか。

Date: 9月 6th, 2021
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その10)

その9)へのコメントもあった。
(その8)へのコメントと方と(その9)へのコメントの方は、
おそらく世代に的に近いはずだ。
二人とも私よりも若い世代である。

(その9)へのコメントの方も、ジェネレックのスピーカーシステムには、
いい印象は持っておられない、というよりも、何も感じなかった、とあった。

これもわかるなぁ、と思いながら読んでいた。
(その9)の方は、だからといってモニタースピーカーに関心がないわけではない。

その方が鳴らされてきたスピーカーシステムは、
大型ではないモニタースピーカーが多い。

(その9)の方も、B&Wのモニタースピーカーには、何の興味もわかない、とのこと。
けれど、801の初期のモデルには、少しだけ欲しいな、と思ったことがある──、
これを読みながら、世代は違うけれど、共通するところがあるのはなぜだろう、と。

私もB&Wの801の初期のモデルには関心があった。
かなり高かった、といえる。期待もしていた。

それまで聴いてきたB&Wのスピーカーといえば、ブックシェルフ型のDM4/IIである。
別項で書いているように、このスピーカーはセレッションのHF1300を搭載している。

このころのB&Wのスピーカーは、ラックスが輸入していた。
1980年代前半に、ナカミチが取り扱うようになった。
そして801Fが登場した。

801Fの前に801というモデルもあったが、こちらは聴く機会はなかった。
私にとって、最初の800シリーズのスピーカーシステムは、
ナカミチ取り扱いの801Fである。

801Fのスタイリングは、KEFのModel 105と同じといっていい。
瀬川先生が鳴らされた105の音に感銘をうけた私は、当然801Fに期待した。

ステレオサウンドの試聴室でKEFのModel 105を聴く機会はなかったし、
これからもなさそうと思えていた時期ということも重なって、
801Fへの期待は増していった。

Date: 9月 4th, 2021
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その9)

(その8)へのコメントが、facebookであった。

そこには、
いわゆるモニター的な音だと称されるタイプのスピーカーということが、
あまりワクワクしないことにつながっているように感じている──、
そうあった。

かもしれないと思いつつ、
コメントの方は私よりも若い世代だ。

ステレオサウンドは、44号と45号と二号続けてスピーカーシステムの特集を行った。
それだけでなく、46号ではモニタースピーカーの特集だった。
結果、三号続けてのスピーカーシステムの特集である。

しかも、いまのステレオサウンドの特集よりも、
特集に割いているページ数は多い。

この三号のなかで、私はモニタースピーカー特集の46号を、
いちばんワクワクしながら読んだものだった。

44号と45号もワクワクしながら読んだ。
46号は、それ以上にワクワクした。
それはモニタースピーカーということが、大きな理由となっている。

1970年代後半は、ほかの人はどうだったのかはよく知らないが、
私はモニタースピーカーという存在に、モニタースピーカーの音にワクワクしていた。

そんな私は1980年代の終りごろに登場したジェネレックに期待した。
いわゆる卵形のエンクロージュアに、トゥイーターはリボン型で、
リニアフェイズといえるユニット配置。

あのころ、聴いてみたいスピーカーの筆頭でもあった。
でも聴く機会はなかなかなかった。

聴いたことがある、という人がいた。
感想をきいた。
「つまんない音だったよ」という素っ気ないものだった。

このジェネレックのスピーカーシステムを聴くことは、ついに訪れなかった。
けれど、「つまんない音だったよ」は、きっと私が聴いてもそう感じたであろう。

「つまんない音だったよ」は、悪い音、ひどい音という意味は含まれていなかった。
優秀な音だけど、音楽を聴いて楽しいのかという意味での「つまんない音だったよ」だ。

モニタースピーカーの音の傾向は、
ジェネレックのスピーカーの登場前後あたりから変化している、と感じる。

それゆえfacebookのコメントは首肯けるところがある。

Date: 9月 2nd, 2021
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その8)

昨日(9月1日)、B&Wの新しいスピーカーシステムの情報解禁だった。
フラッグシップモデルの801 D4が、ステレオサウンド冬号の表紙になるのか。
もしなったとしたら、また代り映えのしない表紙になるのか──、
そんなことを思いながらも、新しいB&Wのスピーカーにワクワクしていなかった。

今回も、オーディオ雑誌での評価は高いものだろうし、
そのことに異を唱えるつもりはない。

聴けば、前シリーズよりも改良されているのは、きちんと聴きとれるであろう。
ケチをつけるところなんて、ほとんどない出来になっているはずだ。

優秀なスピーカーだし、その優秀性はより高くなっている──、
このことはB&Wの800シリーズに関しては、音を聴かなくてもいえること。

なのにワクワク感が、私にはまったく感じられない。
私と反対に、早く聴いてみたい、という人も少なくないはずだ。

その人たちは、ワクワク感があるのだろうか。
そのワクワク感と私のワクワク感は、どう違うのか。

そこを知りたいと以前から思っているのだが、
私の周りのオーディオマニアで、B&Wの800シリーズにワクワクしている人は一人もいない。

ワクワク感とは、曖昧な表現でしかない。

ワクワクした(しない)──、
このことをきちんと言葉で伝えるのは、なかなかに難しい。

ワクワク感については、項を改めて書くつもりだが、
今回の新しい800シリーズにワクワク感をおぼえないのは、
そこにワクワク感があったとしても、
それはこれまでのワクワク感の延長だからなのかもしれない。

これからのワクワク感がないからなのかもしれない。

このことは800シリーズが、定評あるモデルの改良版から来ることなのか、
他に理由があることなのか。

Date: 9月 1st, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その11)

その10)で、今年は「瀬川冬樹 没後40年に寄せて」が載るのだろうかと書いた。

明日(9月2日)発売のステレオサウンド 220号に、
『没後40年 オーディオの詩人「瀬川冬樹」が愛した名機たち』が載る。

黛 健司氏が書かれている。
どんな内容なのかは、発売日前なのでわからないけれど、
黛 健司氏だから、安心して読めるはずだ。

ちょっとひっかかるのは、タイトルの名機である。
あえて名器でなく名機としたのか。
それともなんとなく名機なのか、タイトルは編集部がつけたのか。

なんにしても、220号には読みたい記事が載っている。

Date: 7月 20th, 2021
Cate: オーディオ評論

二度目の「20年」(商売屋か職能家か・その3)

オーディオ評論家(職能家)は、いなくなった。
私は、そう思っている。

いまオーディオ雑誌に登場しているオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
みなオーディオ評論家(商売屋)だと思っている私なのだが、
そのオーディオ評論家(商売屋)のなかで一人、
なかなかのオーディオ評論家(商売屋)だと思う人がいる。

名前をあげようかと思ったけれど、やめておく。
ステレオサウンドにも登場するようになった人の一人だ。

オーディオ雑誌のウェブサイトにも記事を頻繁に書かれている人だ。
ペイドパブと呼ばれる記事にも積極的に登場している人でもある。

この人のことを、ひどいオーディオ評論家(商売屋)と言いたいのではない。
むしろ、ここまでやられると、見事にオーディオ評論家(商売屋)であって、
商売屋といっては失礼かな、と思ったりもする。

なにも皮肉を込めて書いているのではない。
私がオーディオ評論家(商売屋)と呼ぶ人のなかには、
オーディオ評論家(職能家)ぶったり、
私がオーディオ評論家(職能家)と呼ぶ人たちへの憧れが見え隠れしてたりして、
オーディオ評論家(商売屋)としてふっきれているわけではない。

そんななかにあって、この人は、オーディオ評論家(商売屋)にふっきれている。
少なくとも私は、そう感じている。

だから商売屋という蔑称ではなく、商売家と呼んだほうがいいのか。
それでも商売と家はそぐわないから、商売者か。
でも語感がいいとはいえない。

ならば商人(あきんど)でもいいかもしれない。
オーディオ評論家(商人)。

くり返すが、バカにしているわけではない。
この人は、自身の役割を考えているのではないのか。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その10)

ステレオサウンド 218号の特集に黛 健司氏が登場されてないことを嘆いたところで、
瀬川冬樹なんて過去の人でしょ、
瀬川冬樹の音の聴き方を知りたい人なんて、ごくごく少数だろうから、
そんなことステレオサウンド編集部は考えもしない──、
おそらくそうなのだろう。

けれど、ほんとうに瀬川冬樹に、ステレオサウンドの読者の大半は無関心といえるのか。

いま書店に並んでいる瀬川先生の著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」、
その奥付をみると、2020年9月(だったはずだ)で四刷となっている。

2013年に出た「良い音とは 良いスピーカーとは?」が、
七年経っても売れ続けているわけだ。

このことを知っているはずである、ステレオサウンドの編集部は。

そして今年は2021年である。
瀬川冬樹没後40年である。

一年前のステレオサウンド 214号には、
五月女 実氏の「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。

今年は「瀬川冬樹 没後40年に寄せて」が載るのだろうか。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その9)

黛 健司氏には、黛氏自身の音の聴き方があって、
瀬川先生には瀬川先生の音の聴き方がある。

同じ聴き方ではないことはわかっていても、
瀬川先生の音の聴き方の影響は、きっとあると私は勝手に思っている。

黛 健司氏の文章は、
瀬川先生の書かれたものをよく読んでいる人のものだ。
瀬川先生の影響を、ふと感じる箇所があったりする。

そういう人だからこそ、どこまで意識されているのかはなんともいえないが、
瀬川先生の聴き方から何も学んでいないということは絶対にないはずだ。

そこを私は読みたかった。

なのに今回の特集で黛 健司氏が登場しない。
編集部はなにを考えての、今回の特集の筆者なのだろうか。

はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。

そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。

山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その8)

ステレオサウンド 218号の特集の企画に興味をもちながらも、
発売されてから一週間、まだ読んでいないのには、小さな理由がある。

特集「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」の登場するのは、
小野寺弘滋、傅 信幸、三浦孝仁、柳沢功力、山之内 正、和田博巳の六氏。
そこに黛 健司氏の名前がないからだ。

以前から感じていることなのだが、
ステレオサウンドの黛氏の扱いには、疑問がつきまとう。
私だけが感じているのではなく、
私の周りのオーディオマニア、きちんとステレオサウンドを買っている人たちも、
なぜ、もっと黛さんを登場させないのだろうか、といっている。

いろんな事情があるのだろう。
それでも218号の特集で黛 健司氏を外す理由が、私には理解できない。

山之内 正氏よりも黛 健司氏が古くからのステレオサウンドの書き手である。
しかも黛氏は、ステレオサウンドの編集者だったころ、瀬川番だった人だ。

だからこそ黛 健司氏に、今回の特集で書いてほしかった、
黛 健司氏の書いたものを読みたかった。

こういういい方を本人は嫌がられるかもしれないが、
黛 健司氏は瀬川先生の一番弟子だった、と私は思っている。

学生のころから瀬川先生の追っかけで、
編集者として瀬川番だった人なのだから、
瀬川先生からいろんなことをきかれているはずだ。

そこには音の聴き方に関することだってあったはずだ。

Date: 3月 10th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その7)

二年前の(その6)で、
オーディオ評論家(職能家)の書く文章を読むことは、
そのオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り、学ぶ行為である、と書いた。

いま書店にステレオサウンド 218号が並んでいる。
特集は「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」である。

まだ読んでいない。手にもとっていなので、
どういうレベルの内容にしあがっているのかは、まったく知らない。

それでも、こういう企画をやるようになったのか、と思っている。
出来のいい記事であってほしいと思っているが、
出来のいい記事であったとして、
(その6)で書いている「オーディオ評論から何も学ぶものはない」と豪語する人は、
そのままなのだろう。

豪語することが自慢なのだろうから。
自分の耳、聴き方が絶対なのだと思い込める人なのだから。

記事のタイトルには紐解くとある。
繙くではなく、紐解く、である。
解く、である。

それは解答へとつながっている「紐解く」であってほしい。

こういうことを書いていると、
お前はオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り……、といってるじゃないか。
そんな声がきこえてきそうである。

何度も書いているように、
いまのステレオサウンドにオーディオ評論家(職能家)はいないが、
私の捉え方・考え方である。

それは変らない。
そうであっても今回の特集では、
オーディオ機器はあまり登場しないのではないだろうか。

おそらくだが試聴を行っていないはすである。
今回の特集は、緊急事態宣言ということもあっての試聴なしの企画なのだろう。

だとしたらオーディオ評論家(職能家)でなくとも、
商売屋のところが抑えられているのではないだろうか。