老いとオーディオ(若さとは・その15)
老成ぶる、ということは、
自らの心を粉飾する、ということだと考えている。
《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》と、
小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っている。
老成ぶる、ということは、
自らの心を粉飾する、ということだと考えている。
《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》と、
小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っている。
(その12)にもコメントがあった。
寂夜さんという方からのコメントである。
このブログへのコメントは、少ない。
facebookでもコメントは少ない。
なのに、今回「老成ぶっている」ということに関しては、コメントがある。
少しも短めのコメントではなく、書き手としては、少々驚いている。
ここでの書いていることにコメントがあるとは、当初はまったく思っていなかった。
なのに、書いてくださる方がいる。
ありがたいと思うだけでなく、なぜだろう、とも思う。
寂夜さんのコメントに、
《これは「老成ぶって」しまっていると言う事なのでしょうか?》とある。
老成ぶっているとは、まったく思っていない。
私が感じている老成ぶることについて、
具体的なことを書くのがわかりやすいかもしれないと思いつつも、
ある程度具体的なことを書いてしまうと、
「あっ、私のことだ」と思ってしまう人がいるはずだ。
老成ぶっていると感じている人は、一人ではないので、
うまくぼかして書くこともできないわけではないだろうが、
それでも個人攻撃になるような感じなので、それはやりたくない。
老成ぶっている人は、老成している人ではないことだけは、まずいっておきたい。
そして、ここで書いている老成とはオーディオに関しての老成である。
ことオーディオに関して、若くして老成していた人はどれだけいるのだろうか。
かなり少ないのではないのではないだろうか。
自分より年齢が上の家族が、そうとうなオーディオマニアであれば、
それもかなり恵まれた環境にいたのであれば、
本人に資質があれば、若くして老成していた人もいよう。
四十年前の1月から、ステレオサウンドで働くようになった。
菅野先生、長島先生、山中先生は1932年9月生れなので、このときはまだ49歳、
井上先生がちょうど50歳だった。
井上先生の若いころを知っているわけではない。
それでも試聴の合間に、若いころの話をしてくださった。
それを聞いていて、井上先生は若くして老成されていたのかも、と思うようになった。
私の勝手な想像でしかないが、
井上先生の若いころと、私が老成ぶっていると感じている人たちは、
いうまでもなくまるで違う。
知識も経験も、ノウハウも感性も、みんな大きく違う。
老成しているのではなく、老成ぶっている人は、
「遠い」という感覚がないのかもしれない。
もともと欠如していたのか、
欠如していたから老成ぶることになっていったのか、
老成ぶっているうちに「遠い」という感覚を失っていったのか、
どちらかなのかははっきりしないが、「遠い」という感覚はないようだ。
「遠い」という感覚については、以前書いているので、ここではくり返さない。
(その10)へのコメントが、facebookにあった。
この項は、どなたかに宛てて書かれているようだ、と思っていた、とあった。
続けて、「それが当該の方ご本人のためになる」「書き残すことが公共の利益である」
という考えなのか、とあった。
そんなことはまったくおもっていない。
知っている老成ぶっているオーディオマニアに向けてではない。
その人が、仮に読んでいたとして、本人のためになるとはまったく考えていない。
書き残すことが公共の利益になるとも、まったく考えていない。
ずっと以前に書いているように、
ここに書いていることは、私に向けてのものである。
「五味オーディオ教室」にであったばかりの私、
「五味オーディオ教室」を夢中になって、何度も何度も読み返していたころの私、
そのころの「私」だけを想定して書いているだけであり、
そういう「私」に老成ぶるな、といいたいだけでもある。
とはいえ、まったくそれだけでもない。
老成ぶっているオーディオマニアに対しての怒りがあるといえばある。
老成ぶっているオーディオマニアが悪い、というわけではない。
趣味の世界と捉えれば、老成ぶっていることも、
そういう楽しみ方もあるだろうぐらいに思える。
老成ぶっているオーディオマニアは、昔からいたはずだ。
私が知っている老成ぶっているオーディオマニア以外にも、きっといよう。
その人たちに怒りがあるわけではない。
老成ぶっているオーディオマニアが、
自分の世界に閉じ籠もっているだけならば、そこに怒りをおぼえることはない。
もったいないぁ〜、と思うにしても、怒りはない。
けれど、いまは昔と違う環境がわれわれをとりまいている。
だからこその怒りがある。
Tadanoさんは、《私は、子供でも心に近い音が分かると信じています》
とも書かれている。
そうかもしれないと思いつつも、
反論めいたことを書かせてもらうならば、子供でも心に近い音楽はわかる、である。
それが「音」、それもスピーカーから鳴ってくる音、
もっといえば自分で鳴らす音に関しては、
老成ぶっているだけでは「心に近い音」はわからない、と、
Tadanoさんのコメントを読んだあとでも、ここに関しては変らない。
Tadanoさんのコメントの最後のほうに、
《人生にはそんな回り道が無駄ではないと思うのです》とある。
まったくそのとおりだと思っている。
私が老成ぶっているとみているオーディオマニアは、そこがまったく違う。
自分は回り道などしてこなかった、という顔を、態度をする。
もっとも、このことに関しては、私よりも上の世代で、
こんな顔を、こんな態度を恥ずかしげもなく周りにまきちらしている人もいる。
《立派な人の真似をしながら、批判の精神や中庸さを育んでいくことが人間の本質と考えるから》
とも書かれている。
これもそのとおりだ、と読みながら、
老成ぶっているオーディオマニアは、立派な人の真似をして、
自分も立派な人だ、と周りに認めさせたいだけにしか、私の目には映らなかった。
そんな私だから、《老成ぶる若者を寛容な目で眺める》ことはできない。
背伸びする若者を寛容な目で眺めることはできてもだ。
ここまで書いてきて、以前、書いたことを思い出した。
『「複雑な幼稚性」(虎の威を借る狐)』に書いたことだ。
「虎の威を借る狐」はまだましだと書いている。
世の中には、「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかがいるからだ、と。
ここでの狐は、虎の凄さをわかっているだけ、ましである。
けれど「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかは、
虎の凄さもわかっていないのかもしれない。
老成ぶっているオーディオマニアは、複雑な幼稚性のオーディオマニアなのかもしれない。
(その8)に、Tadanoさんからのコメントがあった。
ぜひ、多くの人に読んでもらいたい。
Tadanoさんのコメントの冒頭に、
《具体的に何歳くらいになれば人は老成さを周囲に示してもよいとお考えでしょうか?》
とある。
こう問われてみて、こんなこと考えたことがなかったことに気づいた。
改めて考えて、いくつでもいいと思うし、
老成さは、果たして周囲に示すものなのだろうか、とも思っているところだ。
Tadanoさんは、
《若者が老成ぶることについては、ごく自然な成長の過程を示すものであり、自然なことなのではないか感じています》
と書かれている。
基本的には私も同じ考えなのだが、
あえて書けば、「若者が老成ぶる」ではなく「若者が背伸びする」と、
私だったら、そうする。
若者が背伸びすることは自然なことだし、
私だって、そうだったし、もっといえば私自身、老成しているとはまったく思っていない。
私が、何度か、しつこいように書いているのは、
老成ぶることについて、である。
それもオーディオに関して老成ぶることに、ついてである。
老成している人について、ではなく、
老成しているオーディオマニア、老成ぶっているオーディオマニアについて、である。
老成ぶっているオーディオマニアを知っている。
彼は20代のころから、そんなポーズをとっていたと、私は感じていた。
若者特有の背伸びであれば、
私にもあんな時期があったなぁ〜、とほほえましくみてられるのだけれども、
彼の場合、そうではなかった。
どんなに好意的にとらえようとしても、彼のは背伸びではなく、
老成ぶっていただけだった。
背伸びと老成ぶるの違いは? となるとうまくいえないもどかしさがあるのだが、
背伸びは、追いつきたい、追い越したい、であり、
老成ぶるは、認められたいの違いではないだろうか。
私が知る老成ぶっているオーディオマニアは、そうだった。
シモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、
心に近い音とは、いったいどういう音なのか、を考えるときに思い出す。
汚れをじっとみつめる力を身につけていなければ、
心に近い音を出すことも、気づくこともできないような気がする。
心に近い音について、あれこれ書いているところだ。
耳に近い音より心に近い音──、
私が嫌う老成ぶる若いオーディオマニアのなかには、
心に近い音を求めています、という人がきっといるように思えてならない。
若いうちから、心に近い音がほんとうにわかるものだろうか。
私は、この三年ほどぐらいから、心に近い音をなんとなく考えるようになってきて、
すこしばかり自信をもって心に近い音と書けるようになってきた。
若いオーディオマニアにいいたいのは、
若いうちから心に近い音を求めることはやらないほうがいい。
耳に近い音を求めてもいいのだ。
むしろ積極的に求めていってもらいたいぐらいだ。
その耳に近い音にしても、さまざまな音を求めて、そして出してきてこそ、
ようやくわかることのはずなのだ。
無理に、自分自身を小さな枠にはめ込もうとしない方がいい。
小さな壺のなかにこもってしまい、孤高の境地を味わうのが老成ぶることなのかもしれないが、
そんなことを若いうちにやっていて、何になるというのだ。
若いうちはお金もあまりなかったりする。
そのため、あえてそういうところに身をおいて、自分を誤魔化し続けているのが、
ラクといえば楽なのだろう。
それでしたり顔ができるのならば、その人的には満足なのかもしれない。
でも、それはオーディオでなくてもいいはずだ。
あえて、いまの時代にオーディオを趣味としているのであれば、
無茶無理をしてほしい。老成ぶるのだけはやめてほしい。
そんなオーディオをやっていては、どんなに齢を重ねても、
心に近い音は見つけられないようにおもえてならないからだ。
今月はブラームスをよく聴いている。
別項で書いているようにブラームスの交響曲第一番を、
バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーの演奏を中心として、
いろんな指揮者、オーケストラで聴いていた。
一番を集中して聴きながらも、四番の交響曲も聴いていた。
ブラームスの四つの交響曲で、私がよく聴くのは一番と四番だ。
二番と三番は、あまり聴かない。
四番がもっともブラームスらしいと感じるだけでなく、
四つの交響曲のなかで、いちばん好きでもある。
今日はジュリーニの四番を聴いていた。
シカゴ交響楽団によるEMI録音と、
ウィーンフィルハーモニーによるドイツ・グラモフォン録音である。
録音には約二十年の隔たりがある。
どちらがブラームスの四番として優れた演奏なのか。
どちらも私は好きだし、いい演奏だと感じている。
それでもずいぶん違う演奏だ。
シカゴとの四番は、推進力がある、とでもいおうか、
録音にキズのあるところが何箇所があるものの、
そんなことはほとんど気にならないほどの演奏だ。
シカゴとの四番を聴いた直後に、ウィーンとの四番を聴くと、
ちょっとものたりない、と感じなくもない。
でも、それはすぐに消えてしまう。
しなやかで、歌うかのようなブラームスの音楽を聴いていると、
ただただ聴き惚れてしまう。
ウィーンとの四番は発売されてすぐに買って聴いた時から、
素晴らしいと感じていたし、ブラームスをよく聴く知人にもすすめたことがある。
知人は、ピンとこなかったようだ。
一緒に聴いていて、「これをいい演奏というんですか」というような顔で、
私の方を見ていた。
そういうものかもしれない。
二人とも、その時から三十以上齢を重ねている。
知人とは疎遠になったが、彼はやっぱり、
三十年以上前と同じように感じるのだろうか。
私は、というと、こういうふうにしなやかにブラームスの交響曲を歌えるのであれば、
老いてゆく、ということの素晴らしさを感じている次第。
ラジオ技術 2021年2月号と3月号に、
「これからオーディオを始める方へ筆者からのメッセージ」が載っていたことは、
別項「オーディオ入門・考」でも書いている。
世の中、始めたものはいつか終る。
終るのか終らせるのか。
ラジオ技術 12号の編集後記に、
「これからオーディオを始める方へ筆者からのメッセージ」の続編というか、
関係しての記事として、オーディオの終らせ方という企画を考えている、とあった。
終らせることが必要なのかどうかも含めて、
おもしろいテーマになると期待している。
老いていることをどんなに否定しようとしたところで、
身体に変化は訪れるものである。
30分以上椅子に座っていて立ち上ろうとする際、
関節がかたくなっていることを実感する。
動いていれば、そんなこと感じないのだが、
じっとしていた態勢から動こうとする際には、どうしても自分の齢を感じざるをえない。
ワクチンに懐疑的な人がいる。
完全に否定する人もいる。
私も最初は懐疑的なところも持っていた。
けれどファイザー製のワクチンを二回接種した。
一回目の接種後にあらわれた身体の変化は、関節のかたさの解消であった。
いわゆる副反応といわれている症状はまったくなかった。
むしろ身体の調子は接種前よりもいい。
若返った、という実感がある。
結果としてワクチンを打って良かった。
すべての人が同じなわけではない。
打たなければ良かった──、という人もいるはずだし、
ワクチンを打たずにすめば、それがいちばんいいかもしれない、と私だって、
接種前はそんなふうに考えていた。
それでも打つ気になったのは、たまたま仕事で一緒になった70代の男の人が、
ワクチンを打ってから関節の痛みがなくなった、と話していたのを聞いたからだ。
それからもうひとつ。
これは気のせいだよ、といわれそうなのだが、音の聴こえ方も変ってきた。
ヤマハが、ウェブサイトで、
アナログプレーヤーのGT5000の低温時の使用上の注意を公開している。
タイトルが、長い。
「ターンテーブル『GT-5000』について低温時に規定の回転数に達しない、または規定の回転数に達するまで通常よりも時間が掛かる症状につきまして」
である。
GT5000の許容動作温度は10度から35度まで、とある。
つまり10度よりも低い温度で使用する人が少なからずいて、
そういう人がヤマハに苦情をいったのだろう。
そうでなければ、こういうことを公開するはずがない。
ヤマハも大変だな、と思った。
GT5000は安いアナログプレーヤーではない。
通常のモデルが660,000円(税込み)、
ピアノ仕上げが880,000円(税込み)である。
これだけのモノを買う人だから、
アナログディスク再生をきちんとやってきた人だ、とつい考えがちである。
でも、どうもそうではないようだ。
アナログディスク再生をずっとやってきて、どういうことなのかわかっている人ならば、
こんな使い方はしないからだ。
ヤマハがいうところの低温時は、10度を下回っている状態のはずだ。
そういう低い気温で、GT5000がきちんと動作したとしても、
だからといって、アナログディスク再生に適した状態ではない。
GT5000の回転数が規定に達しない、時間がかかる気温では、
アナログディスクそのものが、快適な気温よりも硬くなっている。
ディスクだけではない、カートリッジのダンパーも硬くなっている。
スピーカーのエッジ、ダンパーもそうである。
そういう状態で、なぜアナログディスクを再生しようとするのか。
理解できない。
やってはいけないことである。
ヤマハが公開している対策は、ごく当り前のことだし、
こんなことは常識だった。
なのにヤマハが低姿勢で《深くお詫び申し上げます》とある。
ヤマハが謝ることではない。
謝ってしまっては、それこそ誤りだ。
選べる途と選べない途とがある。
どちらも選択肢として目の前にあった。
選べない途を選べる途だと思っていた。
選ばなかった途だとも思っていた。
選ばなかった──、と若いころは勘違いしていたわけだ。
続きを書くつもりはなかった。
けれど、今日になってふと思い出したことがある。
あるスピーカーシステムのことだ。
かなり大型で、しかもそうとうに高価なスピーカーシステムである。
その海外ブランドのフラッグシップモデルである。
輸入元が輸入したものの、そう簡単に売れるモノではない。
ずっとその輸入元の試聴室にあった。
これだけの規模のスピーカーを買える(置ける)人は、どんな人なのだろうか。
何度かショールームで、そのスピーカーをみるたびに、そんなことを思ったりした。
ある日、その輸入元の社長(当時)が、売れた、といっていた。
輸入元にとって、あれだけ高価なモノが売れたのは嬉しいことのはずだが、
社長は浮かない顔もしていた。
ほんとうに、このスピーカーに惚れ込んでくれた人のところに行ったのならば……、
ということだった。
これだけのスピーカーをポンと買える人だから、
他にも数多くのスピーカーを持っているとのこと。
もちろんアンプやプレーヤーも同じように複数台持っている。
有名な評論家(オーディオではない)のところに行ったそうだ。
そのスピーカーとして、その人にとっては、多くのスピーカーの一つにすぎないわけだ。
その有名な評論家がぞんざいな扱いをしているとは思わないが、
浮ぶのは、死蔵ということばである。
(その16)、(その17)、(その22)で、
「これでいいのだ」について書いている。
小林秀雄のことばをかりれば、
「これでいいのだ」は、自足する喜びを蔵した思想ということなのだろう。
まだよくわかっていないところも感じているけれど、
少なくとも私にとって、オーディオにおける「これでいいのだ」はそういうことのようである。