老いとオーディオ(齢を実感するとき・その17)
「これでいいのだ」と、
10代の私、20代の私、30代の私、40代の私、
そしていま50代の私がそういったとしよう。
「これでいいのだ」は、たったこれだけで完結している、といえる。
だからといって、それぞれの年代の私の「これでいいのだ」が、同じなわけではない。
40代のまでの私は、「これでいいのだ」とはいわなかったし、思わなかったところがある。
それらがあっての、いま考えている「これでいいのだ」である。
いまどきの若い人のなかには、諦観ぶっている人がいないわけではない。
本人は諦観の境地に達している、つもりなのだろうが、
そんな歳で諦観ぶって、どうするの? といいたくなる。
けれど、そんなことを直接言ったりはしない。
それに私と同世代であっても、オーディオを少しばかりかじった程度の人が、
オーディオに対して「これでいいのだ」といったとしても、
その「これでいいのだ」と私の「これでいいのだ」とは、そうとうに意味するところが違う。
心の底から「これでいいのだ」といえる日が来るのかどうかは、なんともいえない。
それでも「これでいいのだ」が芽ばえてきていることだけは否定できない。