老いとオーディオ(齢を実感するとき・その22)
(その16)と(その17)で、「これでいいのだ」のことを書いた。
書いた後に、ふりかえって、20代のころの私は、
「これがいいのだ」だったなぁ、と思っていた。
もっといえば「これこそがいいのだ」でもあった。
たとえばアナログプレーヤー、
EMTの927Dstを買ったときは、まさに「これこそがいいのだ」だった。
私が買った927Dstは、後期のモデルとは少し違い、最初から927Dstである。
よく知られる927Dstは、アルミダイキャスト製デッキは、
927Astと共通だから、デッキ左端にあるクイックスタート・ストップのレバーのところに、
メクラ板で塞いでいる。
私が買ったモデルは、最初からこの穴がない。
それからデッキに、927Dstと刻印されていた。
そういうこともあって、「これこそがいいのだ」と思っていた。
その927Dstも、無職時代に二進も三進も行かなくなり、
他のオーディオ機器を含めて、手離すことになった。
いま思うのは、手離してたからこそ、「これでいいのだ」と思えるようになった、ということ。
あのまま使っていたら、「これこそがいいのだ」を追い求めてることを、
いまも続けていたことだろう。
「これこそがいいのだ」は、オーディオマニアとしてアリだ、と思う。
「これこそがいいのだ」を追求する時期が、あってこそのオーディオマニアだと思う。
それでも、「これこそがいいのだ」は度が過ぎると、いびつになっていくのではないのか。
とにかく若いころの「これこそがいいのだ」があっての、
いまの「これがいいのだ」の心境でもある。