Archive for category 組合せ

Date: 1月 6th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その15)

私にとってカラヤンの「パルジファル」は、
ステレオサウンド 59号に載った黒田先生の文章と結びつく。

59号が出たのは1981年。もう30年も経つのに、
私にとっては、カラヤンの「パルジファル」についておもうとき、この文章が思い浮ぶ。

少し長くなるが、「パルジファル」に関するところ書き写しておこう。
     *
 きっとおぼえていてくれていると思いますが、あの日、ぼくは、「パルシファル」の新しいレコードを、かけさせてもらいました。カラヤンの指揮したレコードです。かけさせてもらったのは、ディジタル録音のドイツ・グラモフォン盤でしたが、あのレコードに、ぼくは、このところしばらく、こだわりつづけていました。あのレコードできける演奏は、最近のカラヤンのレコードできける演奏の中でも、とびぬけてすばらしいものだと思います。一九〇八年生れのカラヤンがいまになってやっと可能な演奏ということもできるでしょうが、ともかく演奏録音の両面でとびぬけたレコードだと思います。
 つまり、そのレコードにすくなからぬこだわりを感じていたものですから、いわゆる一種のテストレコードとして、あのときにかけさせてもらったというわけです。そのほかにもいくつかのレコードをかけさせてもらいましたが、実はほかのレコードはどうでもよかった。なにぶんにも、カートリッジからスピーカーまでのラインで、そのときちがっていたのは、コントロールアンプだけでしたから、「パルシファル」のきこえ方のちがいで、あれはああであろう、これはこうであろうと、ほかのレコードに対しても一応の推測が可能で、その確認をしただけでしたから。はたせるかな、ほかのレコードでも考えた通りの音でした。
 そして、肝腎の「パルシファル」ですが、きかせていただいたのは、前奏曲の部分でした。「パルシファル」の前奏曲というのは、なんともはやすばらしい音楽で、静けさそのものが音楽になったとでもいうより表現のしようのない音楽です。
 かつてぼくは、ノイシュヴァンシュタインという城をみるために、フュッセンという小さな村に泊ったことがあります。朝、目をさましてみたら、丘の中腹にあった宿の庭から雲海がひろがっていて、雲海のむこうにノイシュヴァンシュタインの城がみえました。まことに感動的なながめでしたが、「パルシファル」の前奏曲をきくと、いつでも、そのときみた雲海を思いだします。太陽が昇るにしたがって、雲海は、微妙に色調を変化させました。むろん、ノイシュヴァンシュタインの城を建てたのがワーグナーとゆかりのあるあのバイエルンの狂王であったということもイメージとしてつながっているのでしょうが、「パルシファル」の前奏曲には、そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化があります。
 カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーを指揮して、そういうところを、みごとにあきらかにしています。こだわったのは、そこです。ほんのちょっとでもぎすぎすしたら、せっかくのカラヤンのとびきりの演奏を充分にあじわえないことになる。そして、いまつかっているコントロールアンプできいているかぎり、どうしても、こうではなくと思ってしまうわけです。こうではなくと思うのは、音楽にこだわり、音にこだわるかぎり、不幸なことです。
      *
黒田先生は”Parsifal”をパルシファルと書かれる。
パルジファルなのかパルシファルなのか。ここではパルジファルにしておく。

私は、この59号の文章を読んで、
黒田先生は、いわばカラヤンの「パルジファル」に挑発されたのかもしれない、と思った。
だからコントロールアンプを、それまでのソニーのTA-E88からマークレビンソンのML7にされたのだ、と。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その14)

カラヤンの「ニーベルングの指環」。

私はCDになってからはじめて聴いた。
カラヤンのワーグナーということで、ネガティヴな先入観がないわけではなかった。
けれどいざ聴いてみると、そこで聴けるワーグナーは、
それまで他の指揮者が前面に打ち出していたようにも感じていた壮大な印象が、
カラヤンにおいては奥にさがり、どちらかといえば室内楽的な感じすら受けた。

抒情的なワーグナーとは、こういう演奏のことをいうのだろうか。
そうも思いもした。

悪くない、とおもって聴きつづけていく。
悪くないどころか、いいと感じはじめているのに気づく。

カラヤンの「ニーベルングの指環」を、
いわゆるワーグナーらしくない、といって切り捨てることはできなくもない。

だがワーグナーらしくない、というのは、
それまで聴いてきたレコードによって、その人の中に形成されたものでもある。
そういうワーグナーと違うから、いいレコード(演奏)とはいえないわけではない。

カラヤンのワーグナーには、カラヤンならではの美しいワーグナーがあるのではないか。
このことがあったから、「パルジファル」をカラヤン盤で聴きたくなったのだ。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その13)

「五味オーディオ教室」から始まり、
五味先生の音楽、オーディオに関する著書はくり返し読んできた私は、
いまでもアンチ・カラヤンというところから脱し切れていないところがある。

アンチ・カラヤンといっても、カラヤンのすべてが嫌い、
なにもかも気にくわない、というわけではない。
カラヤンの私生活のことなどどうでもいいことであって、
どれだけいいレコードを残してくれているかだけが、重要である。

それにアンチ・カラヤンが、
学生のころ苦労して金の工面をつけて、ベルリン・フィルハーモニーとの公演に行ったりはしないだろう。
アンネ=ゾフィ・ムターをともなっての来日だった。

その後も、最後の来日公演となった1988年のコンサートにも、
チケットをなんとか都合してもらい行っている。

五味先生の書かれているように、
モノーラル時代のカラヤンの録音はいいものが多い。
いまでも輝きを失っていない演奏が、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」から聴くことができる。
他にも、いまでも愛聴盤として聴いている、この時代のカラヤンの録音はある。

まめにカラヤンのすべての時代の録音を聴いてきたわけではない。
あまり聴かない時代のレコードもある。
その時代の録音でも、リヒャルト・シュトラウスの演奏(録音)を聴けば、唸ってしまう。

カラヤンの残したすべての録音を聴いてみたい、とは思っていない。
それでもカラヤンの残したものには、
(その必要はないのだけれど)声をひそめて、いいものはいい、といえるものがいくつもある。

私にとってカラヤンのワーグナーは、まさにそうである。
カラヤンのワーグナーはいい。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その12)

何回目に聴いたときだったのかは、もう憶えていない。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤でだけ「パルジファル」を聴いていた時期、
マーラーの第二交響曲の第二楽章の美しい旋律に、ある日ふと胸打たれたように、
「パルジファル」に美しい旋律がある、ということよりも、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づいた。

気づいた、というよりも、そう感じるようになった。
それまでは宗教的な気配に意識がどうしても行きがちだった。
だからこそクナッパーツブッシュのバイロイト盤は、
シーメンスのオイロダインで聴きたい、と強くおもってしまう。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴いていたから、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づくのに時間がかかったのか、
それともクナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴きつづけてきたから、そう感じられるようになったのか、
正直どちらでもいい。

とにかく気づくことができた。

「パルジファル」はワーグナーの作品中、もっとも美しいのかもしれない。
そうおもうよになって、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、と思うようになっていった。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その11)

ワーグナーの「パルジファル」にも、そういう美しい旋律があることを、
何度か、通しで聴いていくことで気づくことができた。

マーラーの第二交響曲の第二楽章の、美しい旋律に、
ほんとうの意味で気づいたあとは、それまで聴いてきたレコードを聴きなおし、
己の聴き方の未熟さを思い知った。

それでも気づくことができたから、いい。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤で「パルジファル」を聴いてきた。
1980年代、クナッパーツブッシュのバイロイト盤のほかにも、「パルジファル」のレコードはあった。
カラヤンがあり、ショルティ、ブーレーズのレコードがあった。
私が聴いてきたのはクナッパーツブッシュだけだった。

つまりは、クナッパーツブッシュのレコードしか、「パルジファル」に関しては持っていなかったからだ。
持っていないレコードは聴きようがない。
なぜ、ほかの指揮者のレコードを買わなかったのか。

特にこれといった理由はなかった。
私にとって二枚目の「パルジファル」はカラヤン盤である。

こんな聴き方を人にはすすめはしないけれど、
クナッパーツブッシュでのみ聴いてきたことを、後悔はしていない。

Date: 1月 2nd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その10)

マーラーの交響曲第二番の第二楽章。
美しい旋律である。

初めてマーラーの第二交響曲を聴いた時にそう感じた。
感じたけれど、その時は、あとでふり返ってみると、なにもわかっておらずにそう感じていたことがわかる。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」でこう書かれている。
     *
マーラーの交響曲中でもおそらく彼の書いたもっとも美しい旋律の一つといわれる同じ『第二交響曲』第四楽章とともに、この第二楽章アンダンテ・モデラートの——たしかにシューベルトのレントラーを想わせる個所はあるが——弦にはじまる冒頭から第一主題への、旋律の美しさに無関心でいるためには余程鈍感な感性が必要だろう。
     *
実は、ここまで美しい旋律とは思えなかった。
幾多の、美しい旋律のひとつとしか、その時は感じられなかった。

それからいくつものマーラーの第二交響曲を聴いてきた。
マーラーの交響曲は、オーディオ機器の試聴にも使われることが多いから、
自分で買ったレコード以外であっても、聴く機会はあった。

そうやって聴いてきて、何枚目の第二交響曲のレコードだっただろうか、
誰の指揮だったのかも、いまとなってはなぜだか憶えていない。

それでも、その時の第二楽章の美しい旋律は、
それまで聴いて感じてきた美しい旋律は、表面的にしか捉え切れなかった美しい旋律であって、
その奥に、五味先生が書かれている通りの「美しい旋律」が流れていることに、やっと気づいた。

こんなにも美しい旋律なのか、ととまどうほどに、そう感じられた。

Date: 12月 31st, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・番外)

今年はワーグナー生誕200年だった。
ルートヴィヒ」が12月下旬から公開されている。

「ルートヴィヒ」といっても、ルキーノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」ではなく、
ドイツの新作映画としての「ルートヴィヒ」である。

ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」は1990年ごろだったか、
完全版として銀座の映画館で上映された時に観に行っている。

同じタイトルであり、ワーグナーはもちろん、ふたつの「ルートヴィヒ」に登場しているとはいえ、
比較して観るものではないだろう。

ドイツ映画の「ルートヴィヒ」はあまり話題になっていないようである。
私も二、三日前に偶然知ったばかりだ。

おすすめできる映画なのかどうかもいまのところなんともいえないけれど、
ワーグナーを聴いてきた者には無視できないものは確かである。

Date: 12月 24th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その9)

現代に生きる人は忙しい、などといわれている。
その忙しい人にとっては、
ワーグナーの楽劇もツール・ド・フランスも長すぎる、ということになるであろう。

長すぎるから……、
通しで聴く(観る)など、そんな時間はとれない……、
そんな時間があったら、他のことをする……、
そういう忙しい人にとっては、ワーグナーの楽劇を、自分のものとすることはできない。

ワーグナの楽劇の長さも、ツール・ド・フランスの長さも、
人によっては長すぎると感じてしまう、その長さも、
ワーグナーの楽劇、ツール・ド・フランスならではの個性のうちだといえよう。

だから、長さとじっくり、最初から最後まで通してつき合う必要があるし、
それを聴き手に要求している。

そういう作品をハイライト盤で何度聴こうと、
多くの人のハイライト盤で聴こうとも、
ワーグナーの楽劇を聴き得た、ということにはならない。

こんなことを書いている私だが、
「パルジファル」を通しで頻繁に聴いているわけではない。
いままで何度聴いただろうか。
数えたことはないけれど、そう多くはない。

それでも「パルジファル」を聴くときは、
最初から最後まで通して聴いてきた。

Date: 12月 19th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その8)

「パルジファル」は、ワーグナーの楽劇で、最も美しいのではないだろうか。
そして、宗教的な気配が「パルジファル」にはあるようにも感じる。

宗教的な気配とは、どんなものなのかについての説明は、うまくできない。
というかまったくできない、と書いた方がいい。

それでもクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴けば、
そこに宗教的な気配が存在していることは、ワーグナーを通しで聴いていた聴き手には感じられる。

ワーグナーの楽劇を、ハイライト盤でしかきいた事がない人は、
「パルジファル」を聴こうとは思わないかもしれない。
でも、全曲盤でワーグナーを聴いてこなかった聴き手が「パルジファル」を聴いて、
どう感じるか──、そこにあるのは退屈なのかもしれない。

ワーグナーの楽劇は長い。
クラシックの作品の中でも、長いといえる長さである。
この長さが、ワーグナーである、とも思うことがある。

フランスにはワグネリアンが多い、ときく。
なんとなくでの印象であるが、フランス人とワーグナーがうまく合わさらないところがあった。

なぜフランス人が、ワーグナーを聴くのか。

けれど、自転車に興味をもつようになり、
ツール・ド・フランスを見ていると、
こういう競技をうみ出し、それに熱狂しているフランス人を見ていると、
ワグネリアンが多い、ということに納得がいく。

ツール・ド・フランスもワーグナーの楽劇も、とにかく長い。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その7)

ステレオサウンド 50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏は、
すでに書いているようにアンプはマランツのペア。
アナログプレーヤーは、RCAのターンテーブルにカートリッジはオルトフォンのSPU-A、
トーンアームはRF297で、シーメンスのオイロダインを鳴らされている。

森氏は1970年代後半にステレオサウンドに「幻聴再生への誘い」という連載を書かれていて、
ご自身の装置については、そこで触れられている。

私なら、オイロダインには、伊藤先生のアンプを組み合わせたい。
この項のタイトルがいくら「妄想組合せの楽しみ」としているとはいえ、
伊藤先生のアンプは一般的な意味での市販品とはいえない。

伊藤先生のアンプを除くとなると、
ずいぶんと音の傾向は違ってくるけれど、やはりオイロダインと同じドイツのアンプ、
ノイマンのV69aをパワーアンプとしたい。
コントロールアンプは、同じノイマンのWV2、
アナログプレーヤーは、別項で書いているようにEMTの927Dst。

入口から出口まですべてドイツ製になってしまった。
しかもずいぶんと昔の機器ばかりでもある。

いかなる音が響いてくるのか想像がつく部分とそうでないところもある。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は、こんな装置で一度でいいので聴いてみたい。
だが、この装置でカラヤンの「パルジファル」を聴きたいか、となると、
試しに一度は鳴らしてみたい、と興味半分で思わないわけではないが、
カラヤンの「パルジファル」を聴くとなると、まったく違うシステムを持ってこないと、
カラヤンの「パルジファル」の評価、というよりも、聴き方を、
間違うとまではいわないけれど、どこかズレたところで聴くことになりはしないだろうか。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その6)

組合せを考えていく場合、とにもかくにもスピーカーを決めるところからすべてははじまる。
特に、このディスク(音楽)を聴きたいための組合せなのだから、
スピーカー以外のものからきめていくことは絶対にあり得ない。

カラヤンの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。
その前にクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。

これに関してはすでに答は出ている。
古今東西数え切れないほどのスピーカーシステムが存在していたわけだが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」ということになれば、
シーメンスのオイロダインしか、私にはない。

オイロダインを2m×2mの平面バッフルに取り付けて、クナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴きたい。

オイロダインでクナッパーツブッシュの「パルジファル」というと、
古くからのステレオサウンドの読者の方ならば、
50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏を思い出されることだろう。

森氏はオイロダインをマランツのModel 7とModel 9で鳴らされていた。
森氏のリスニングルームに響いたクナッパーツブッシュの「パルジファル」について、
五味先生は書かれている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。
     *
「パルジファル」はいうまでもなくワーグナーの音楽である。
その「パルジファル」をクナッパーツブッシュが、バイロイト祝祭劇場で振っている演奏を聴くのに、
シーメンスのオイロダイン以外のスピーカーは、いったいなにがあるといえるだろうか。

Date: 10月 26th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その5)

音楽性、精神性といったことばは、使う時に注意が必要にも関わらず、
そんなことおかまいなしに安易に使われることの多さが、気になってきている。

どちらも便利なことばである。
「この演奏には精神性がない」とか「この音には音楽性が感じられない」とか、
とにかく対象となるものを一刀両断にできる。

しかも、これらのことばを、こんなふうに使う人に限って、
精神性とはいったいどういうことをいうのか、どう考えているのか、
音楽性とはいったいどうことなのか、どう捉えているのかについての説明がないままに、
精神性(音楽性)がない、という。

その反対に、音楽性がある、精神性がある、という使い方も安易すぎるとも感じているが、
少なくともこちらは一刀両断しようとしているわけではない。

とにかく一刀両断的な「音楽性(精神性)がない」の使われ方をする人は、
時間をかけて話していこうとは思わない。

なにも「音楽性(精神性)がない」という使い方が悪い、という単純なことではない。
少なくとも、そこでその人が感じている精神性、音楽性について、
とにかくなんらかの説明があったうえで、こういう理由で「音楽性(精神性)を感じない」といわれれば、
その意見に同意するかどうかは措くとしても、話を続けていける。

ながいつきあいで、音楽の好み、音の好み、どんなふうに音楽を聴いてきたのかを熟知している相手とならば、
一刀両断的な言い方でも、まだわかる。
けれどそうでない人と話す時にこんな言い方をしてしまったら、
そうだそうだ、と同意してくれる人とならばいいけれど、世の中はそうでないことのほうが多い。

こういうことを書いている私も、20代のころは、こんな言い方をしていたのだ。
そして、そんな言い方をしていた20代のころ、私はカラヤンの「パルジファル」を聴くことはなかった。

Date: 10月 25th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その4)

「パルジファル」はいうまでもなくワーグナーによるオペラだが、
ワーグナーによる他のオペラ、たとえば「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」には、
歌劇ということばが頭につく。
つまり歌劇「さまよえるオランダ人」であり歌劇「タンホイザー」である。

「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」は、
歌劇ではなく楽劇「トリスタンとイゾルデ」、楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
楽劇「ニーベルングの指環」となる。

「パルジファル」には、歌劇でも楽劇でもなく舞台神聖祝典劇がつく。

この、舞台神聖祝典劇「パルジファル」だけに、精神性を、ほかの作品に求める以上に求めてしまい、
カラヤンの「パルジファル」は精神性が、クナッパーツブッシュの「パルジファル」よりも稀薄だ、
というようなことはいおうと思えばいえなくもない。

だが、ここでいう精神性とはいったいどういうことなのかをあきらかにせずに、
ただ精神性が……、と大きな声でいっても、
それに納得してしまう人もいるだろうが、すべての人がそれに納得するわけではない。

精神性がない、とか、精神性が薄い、といったことを、クラシックの演奏に関していう人がいる。
オーディオに関しては、音楽性がない、とか、音楽性が薄い、というように、
スピーカーから出てくる音に対して、そう評価する人が少なくない。

ここでの精神性と音楽性は、ある意味よく似ている。
使われ方もよく似ている。

Date: 10月 23rd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その3)

クナッパーツブッシュのバイロイトでの「パルジファル」は1962年、
カラヤンのベルリンフィルハーモニーとの「パルジファル」は1979〜1980年にかけての録音。
つまり約20年の隔たりがある。

この20年の隔たりだけが理由とはいえないほど、カラヤン盤はスマートである。
これはカラヤンという指揮者とクナッパーツブッシュという指揮者の風貌もそうであるし、
オーケストラに関してもそういえるところがある。
さらに歌手にもいえる。

クナッパーツブッシュ盤でのグルネマンツはハンス・ホッター、カラヤン盤ではクルト・モル、
クナッパーツブッシュ盤でのアンフォルタスはジョージ・ロンドン、カラヤン盤ではジョゼ・ヴァン・ダム、
クナッパーツブッシュ盤でのクリングゾールはグスタフ・ナイトリンガー、
カラヤン盤ではジークムント・ニムスゲルン、
いずれもカラヤン盤の方がその歌唱もスマートである。

録音に関しても同じことがいえる。
1962年のライヴ録音、しかもバイロイト祝祭劇場でのクナッパーツブッシュ盤よりも、
デジタルによって録音されたカラヤン盤の方が、精妙でスマートである。

そして、この精妙さ、スマートさが、カラヤン盤においては、
往々にして精神性が稀薄という評価につながっていくようでもある。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その2)

赤と青、と対照的なジャケットなのが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」とカラヤンの「パルジファル」である。

「パルジファル」の名盤といえば、このころまではずっとクナッパーツブッシュ盤だった。
他にもいくつかの「パルジファル」のレコードはあっても、
とにかく日本では「パルジファル」といえば、
バイロイトでのクナッパーツブッシュが唯一無二的存在として扱われてきた。

五味先生も、
《クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、
クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でもうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか想えぬ鳴り方をする箇所がある。》
と書かれている。

やっぱり「パルジファル」は、とにかくクナッパーツブッシュ盤を最初に聴こう、と思っていた。

そういうクナッパーツブッシュ盤の輝きは、カラヤン盤が登場した時でも、いささかも衰えてはいなかった。
ワグネリアンと自称する人、そう呼ばれる人にとって、カラヤンの「パルジファル」はどう映ったのだろうか。

クナッパーツブッシュとカラヤンは、どちらが優れた指揮者であるとか、
どちらが優れたワーグナー指揮者であるとか、そういったことを抜きにして語れば、
カラヤンはスマートであり、クナッパーツブッシュはそうではない、といえる。

カラヤンの「パルジファル」とクナッパーツブッシュの「パルジファル」もまた、そういえる。