Archive for category きく

Date: 2月 6th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その1)

数年前のことだった。
あるオーディオ店で試聴会をやっていた。
試聴会をやっているのは知らずに、たまたま入ったらやっていたので、そのまま椅子に座り聴いていた。

オーディオ店の試聴会というのも、ずいぶんとひさしぶりだな、と思いながら聴いていたわけだが、
不思議なことに、音を鳴らすたびにディスクをかえる。

オーディオ機器の試聴会だから、いくつかの機器の比較試聴もやっているわけだが、
なのになぜか機器を替えると、鳴らすディスクも替える。

このオーディオ店だけの、こういうやり方なのか、
それともこのオーディオ店に働いている、この店員だけのやり方なのか、
それとも、私がこういう試聴会に行かないあいだに、こういうやり方が一般的になっていたのか。

とにかくとまどいながら音を聴いていた。

何枚かのディスクが鳴らされたあと、あるお客が、
「なぜ同じディスクで鳴らさないのか」と店員に訊ねた。

やっぱり、これはこの店(この店員)の独自のやり方なんだな、と安心したのも一瞬だった。

店員の返答は、
「同じディスクを鳴らしたいんですけど、そういうやり方をするとお客さんが帰られるんです」。

あるオーディオ機器の、いわゆるプレゼンテーション的な試聴会であれば、
ディスクを替えているのはわかる。
けれど比較試聴においても、ディスクを替えなければ、お客が帰っていく。
俄には信じられないことだったけれども、
店側としても客が帰っていくような試聴会をやるよりも、
客が最後までいてくれる試聴会のほうが、商売に結びつきやすいだろうから、
そうであれば、こういうディスクのかけ替えも仕方ないのかもしれない。

それにしても不思議としかいいようがない。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その11)

なんといいかげんな男なんだろう、と。
この件で、そのことを確信した。

私にもいいかげんなところはある。
何もいいかげんなところがあるから、その知人のことをここに書いているわけではない。

私にとって、音楽とオーディオは大事にしてきたことであり、
そのオーディオにおける、瀬川先生の文章の位置するところは特別であり、
知人もまたそうだと思っていた。

彼もそのようにいっていたからだ。
でも、それは違っていたようだ。

口ではいくらでも格好つけたことをいえる。
そのためだけの、彼にとっては瀬川先生の存在であったのだ。

たとえ「虚構世界の狩人」を読んだことを忘れていたとしても、
サヴァランの、あの有名な一節を読めば、思い出すのが、
瀬川先生の書かれたものを読みつづけてきた者のはず。

本の読み方は百人いれば百通りの読み方があるのかもしれない。
私と同じように、他の人に読むことを強要はしない。

「虚構世界の狩人」を読んだ人のどのくらいが、
サヴァランの一節からから始まっていることを思い出してくれるのかはわからない。

だが、瀬川先生の文章の熱心な読み手だと自分で口にしていて、
あのいいかげんさは、私はどうしても許せない。

知人がサヴァランの一節を電話してきた時、
彼とのつき合いは終る、と予感したし、事実、一年ほどしてから、そうなった。
このことが直接のきっかけとなったわけではない。

彼の「読む」とは、どういうことなのか、こういうことなのか。
彼の「きく」とは、いったいどういうことなのか。
いまとなって、私にとってはどうでもいいことでしかない。

多くの人が、「読んだ」「きいた」と口にしたり書いたりする。
私もそうだ。

だが、どれだけほんとうに「読んだ」「きいた」といえるだろうか。
ただなぞっているだけなのかもしれない。

自分の裡(心)に、転写(transcription)しているといえるだろうか。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その10)

こんなことを思い出した。

数年前のことだ。知人が、すこし興奮気味に電話をかけてきた。
彼が読んだばかりの本のことを伝えようとしての電話だった。

ブリア・サヴァランの「美味礼賛」だった。

「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」、
この一節を読んできかせてくれた。
彼は続けて、オーディオ、音もまさしくそうだ、といいたげだった。

ある人にとって若いころに出あった本であっても、
別の人にとってはまったく違う時に出あうことは少なくない。

早く読んでいたから、とか、遅く読んだから、とかは、
どうでもいい、とまではいわないまでも、ここでは大きな問題ではなかった。

にも関わらず、私は知人に対して、すこしばかり意地の悪い返答をした。
それは、普段から彼が公言していることが、いかにいいかげんであったかを確認できたからだった。

知人もオーディオマニアだ。
私よりも年齢は上。瀬川先生の文章に惚れている、といっていたし、
「虚構世界の狩人」もしっかりと読んだ、といっていた。

「虚構世界の狩人」には、
《「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」とブリア・サヴァランは言う。》
という出だしで書かれている文章がおさめられている。

その文章のタイトルは、瀬川先生の著書のタイトルにもなっている「虚構世界の狩人」である。
あえてくり返すが、その冒頭が、サヴァランの
「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」
で始まっているのだ。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その9)

古書店に行くと、まれにではあるが、驚くほどきれいな状態の昔の雑誌が並んでいることがある。
ステレオサウンドに関しても、そういうことがある。
最近のバックナンバーのことではなく、20号から40号くらいにかけてのバックナンバーが、
よくこんなきれいな状態で残っているな、と感心してしまうほどのものがあったりする。

すでに出版されていない本で手に入れたいのであれば、
古書店で並んでいるのを買う。
新品があればそれにこしたことはないが、そうもいかない。
心情として、できるだけきれいな状態であってほしい。

値段は高くなるけれど、そういう状態の本はありがたいともいえる。

けれど、ともおもう。
なぜこんなにきれいなのか、と。

このステレオサウンドを出版された当時に買った人は、
ほんとうにじっくりと読んでいたのだろうか。
決して安い雑誌ではないから、買って帰れば、一度はページをめくっているはず。
でも一度、もしくは二度三度くらいなのかもしれない。

きれいな状態の古書が残っているのは嬉しいことである。
だが、その本はほんとうに読まれたのか、と、
少なくとも本づくりにたずさわってきた者は、そんなこともおもってしまう。

Date: 7月 29th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その8)

そうやって書き写す行為は、転写である。
転写は、複写と似てはいてもまったく同じことをさしているわけではない。

複写はcopy、転写はtranscription。

この項を書いていて、転写(transcription)がキーワードとして浮んできた。

オーディオは、まさしくtranscriptionである。
そういえば1970年代に、Transcriptors(トランスクリプター)というアナログプレーヤーのメーカーが、
イギリスにあった。
Hydraulic Reference Turntable、Round Table、Saturn、Skeletonといったプレーヤー、
Vestigalといったトーンアームを開発していた。
どれも、かなり個性の強い製品だった。
使いこなしも難しい(癖のある)製品だった、ときいている。

一度使ってみたいプレーヤーではあるけれど、なかなかお目にかかる機会もない。

トランスクリプターの製品には興味を持っていたけれど、
これまでブランド名に、特別な関心をもったことはなかった。

けれど転写(transcription)という言葉がひっかかっているいま、
Transcriptors(トランスクリプター)という名前、なかなか面白いと思えてきた。

ここでは、これ以上トランスクリプターのプレーヤーについてはふれないが、
転写(transcription)と「きく」との関係について考えていくことになるはずだ。

Date: 7月 28th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その7)

なぜ人はそうまでして本を「読む」のか。

私たちは印刷された本が書店に行けば買える時代に住んでいる。
絶版になった本でも図書館に行けば読むことができる。
図書館の規模によっては置いてない本でも、
より規模の大きな図書館、日本では最終的には国会図書館に行けば、たいていの本を読むことはできる。
それに一冊まるごとのコピーは無理でも、部分コピーは可能である。

さらには著作権の切れた作品に関しては、青空文庫に代表されるサイトで公開されているので、
作者の死後50年を経過した作品ならば、相当数読むことができる。

だが印刷技術が生れる前、
印刷が生れてからでもここまで普及するまでの時代に生きてきた人は、
本は貴重品であった、ときいている。

だからそういう本を借りてこれたら、書き写す。
一文字一文字を書き写す、という行為は、やってみるとわかる。
じつにしんどい。

私も一度、小林秀雄の「モオツァルト」を書き写したことがある。
原稿用紙を買ってきて、一文字一文字書き写していった。
これは、瀬川先生がそうされていたから、それを真似たわけだ。

自分で考えて文章を書くのとは違う。
書きあぐねることはないけれど、それだけにしんどい、と感じていた。

キーボードを使って文字を入力するよりも、ずっとしんどかった。
腕がだるくなってきて、途中でやめようかな、と思いもした。

「モオツァルト」は短い。
短い文章であっても、書き写すという作業をやってみると、
本を「読む」という行為が、ずっと以前はどういうもの・ことであったのか、
完全ではないものの想像がつく。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その6)

目は、見るための器官であるから、
本を目で読むことは、身体的に負担があることにはならない。
老眼になってくると本を離して読む必要があるとか、
加齢によって読みづらくなることはあるけれど、
目で本を読むことは、負担の少ない「読む」である。

点字を指先でなぞっていくことは、
指先への集中が要求されることだと思う。
最近ではエレベーターの階数表示、開く、閉じるのボタンなど、
点字にふれることが多い。日常風景になっている、ともいえる。

ときどき、そういう点字を指で判読しよう、と、
目をつむりゆっくり触ってみる。
エレベーターの中にある点字だから、数字である。
1とか2とか、一桁の数字であっても、いきなり点字を視覚情報なしに判読しようとすると、
こんなにも神経を集中させる必要があるのか、と思うし、
たったひとつの数字の判読だけでこれだけ大変だということは、
本を一冊、点字で読むことの大変さに、もしそうなったときに、果して読み通せるだろうか……、と。

馴れれば少しは違うのかもしれない。
でも点字を指先で読みとっていくことは、そうとうにしんどいことのはずだ。
長時間、いくつもの点字を指先でなぞっていく体験はまだない。
指先は、これだけの点字を一度になぞっていけるのだろうか。

指先で本を読むことは、目よりも負担の多い「読む」である。

舌読となると、その大変さは想像できない。
一冊の点字の本を読むのに、どれだけの時間がかかるのも私は知らない。
目で読むよりも時間がかかるだろうぐらいしか想像できない。

本を一冊読み終るまでの時間、指先以上に舌は耐えられるのだろうか。
舌読では舌から血が出ることもある、と知った。
それでも本を読み続ける、ということも。

どれだけ負担の多い「読む」なのだろうか。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その5)

極端なことをいえば、
アナログディスクの溝を目でトレース、もしくは指でなぞっていくことで、
そのレコードに刻まれている音を感じとれたり、
CDの、あの細かなピットを、なんらかの手段で拡大して見ることで、
そのCDに刻まれている音を感じとれたりすることが、仮にできたとしよう。

それが本を目、指、そして時には舌でトレースして読むことと同じといえるだろうか。
オーディオ機器という機械(朗読者)を介することなく、
レコードの内容を知るという意味では、本をトレース(読む)ことと同じといえなくもないわけだが、
私にそんな特殊な能力が備わったとしても、
その特殊な能力を使って、レコードの溝、ピットをトレースして音楽を聴きたい、とは思わないし、
そうやることが、本を読むことと同じとはどうしても思えない。

ならば、そんな極端なことではなく、クラシックなら楽譜を見ればいいではないか、
音符を目でトレースしていくことで、頭の中に音楽を思い浮べる──、
これこそが本をトレースする意味での、音楽をきく、ということになる。
そんなことをいう人もいても不思議ではない。

だが、これも「本を読む」ことに人がそこまでなれる、という意味での行為とは、私には思えない。

だから、なぜ、思えないのかを問うていくしかない。
そして、改めて音楽を「きく」ことの難しさを考えている。

Date: 6月 18th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その4)

本を朗読してもらう、
朗読者がトレースしたものを、きくことになる。

レコード(LPやCD)をオーディオで再生して、
レコードにおさめられている音楽をきく行為は、
どこか本を誰かに朗読してもらい、それをきく行為に似ている。

本には文字が並んでいる。
LPには文字ではなく溝が刻んである。
CDにはピットが並んでいる。

LPの溝はカートリッジの針先がトレースする。
CDのピットは、レーザーがトレースしていく。

そうやってトレースされたことによる電気信号を増幅し処理して、
スピーカーの振動板を動かし、空気の疎密波をつくる。

LPやCDという本を、
オーディオという朗読者が読み上げてくれる。
ここには聴き手(読み手)によるトレースは存在しないことになる。

Date: 6月 16th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その3)

トレースすることで「読む」ことが始まる本もまた、
トレースすることによってつくられている、といえる。

いまは手書き原稿の方が比率としては少なくなっているだろうけど、
パソコン、ワープロの登場・普及以前は、みな手書き原稿だった。

原稿がそのまま写植にまわされることはまずない。
まず担当編集者が目を通す。必要とあれば朱をいれる。
これもまた編集者の目によるトレースである。

そして写植にまわされる。
ここで写植の職人によるトレースがおこなわれ活字が並べられていく。

写植があがってきたら、校正というトレースが行われる。

いくつかのトレースを経て本は世に出て、
読み手によってトレースされていく。

Date: 6月 14th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その2)

私がもしそういう状態・状況におかれたら、どうするだろうか。
いまは正直想像できない。

想像はできないけれど、本を「読む」という行為がどういうことなのかについては考えられる。

本を「読む」ことは、書かれていることを自らトレースすることなのだ、とおもう。
本に書かれている内容を知るだけなら、誰かに、もしくはコンピューターに読み上げてもらえばいい。
けれど、それは自分でトレースしているわけではない。

目でトレースする。
目がだめになれば指でトレースする。
指もだめになれば舌でトレースする。

トレースすることから「読む」は始まるのではないのだろうか。

人は「本を読む」、
人は「レコードを聴く」、
ここでの「読む」と「聴く」の違いについて、
舌読を知ったのだから、あらためて考えてみたい。
考えなければならない、とおもった。

Date: 6月 14th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その1)

昨日、舌読ということばがあることを知った。
ハンセン病により視力を失い、
末梢神経麻痺により指先の感覚も失った人が、点字を舌で読むこと。
「舌読(ぜつどく」」ということばも知らなかったけれど、
想像したこともなかった。

舌読を知って、思い出したことがある。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」のエピソードのひとつに、
そろばんの日本一を目差す少年の話がある。
ブラック・ジャックの手術により、少年は指でそろばんのこまをはじけるようになる。
けれど持久力が備わっていない腕では、決勝戦で戦えなくなってしまう。

そこで少年は、ブラック・ジャックによる手術を受ける前にやっていたこと、
舌でそろばんのこまをはじく。

点字を舌でなぞっていく、
そろばんのこまを舌ではじいていく、
想像を絶する、とはこういうことにつかう表現なのかもしない。

本に書かれていることを知るのであれば、
誰かに本を読んでもらえばいい。
いまではパソコンによる文章の読み上げもできる。
最新の読み上げのレベルが、どのくらいなのかしらないけれど、
ずいぶん進歩していることであろうし、これからも進歩していくものである。

活字がテキスト化(電子化)されていっている時代。
これから先もどんどんテキスト化されていく。

本が読めなくなっても、本の内容を知ることはできる時代になっていっている。
多くの本がそうなっていっている。
それでも舌読で、本を「読む」人はいる、とおもう。