舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その5)
極端なことをいえば、
アナログディスクの溝を目でトレース、もしくは指でなぞっていくことで、
そのレコードに刻まれている音を感じとれたり、
CDの、あの細かなピットを、なんらかの手段で拡大して見ることで、
そのCDに刻まれている音を感じとれたりすることが、仮にできたとしよう。
それが本を目、指、そして時には舌でトレースして読むことと同じといえるだろうか。
オーディオ機器という機械(朗読者)を介することなく、
レコードの内容を知るという意味では、本をトレース(読む)ことと同じといえなくもないわけだが、
私にそんな特殊な能力が備わったとしても、
その特殊な能力を使って、レコードの溝、ピットをトレースして音楽を聴きたい、とは思わないし、
そうやることが、本を読むことと同じとはどうしても思えない。
ならば、そんな極端なことではなく、クラシックなら楽譜を見ればいいではないか、
音符を目でトレースしていくことで、頭の中に音楽を思い浮べる──、
これこそが本をトレースする意味での、音楽をきく、ということになる。
そんなことをいう人もいても不思議ではない。
だが、これも「本を読む」ことに人がそこまでなれる、という意味での行為とは、私には思えない。
だから、なぜ、思えないのかを問うていくしかない。
そして、改めて音楽を「きく」ことの難しさを考えている。