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Date: 5月 27th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その1)

「598のスピーカーという存在」で長岡鉄男氏がスピーカーユニットの重さを量られていたことについて書いた。
私は、長岡鉄男氏のこの行為を、長岡鉄男氏なりのアイロニーでありギャグである、と解釈している。
そのことも書いている。

ここであえてこんなことを書いているのは、
私が「アイロニーでありギャグであり」と解釈したのは、
あくまでもスピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量ったことについて、であり、
長岡鉄男氏の、これ以外の活動についてのことではない、ということである。

私は重さを量ることをそう捉えたわけだが、
私以外の人は、そんなことはない、と思われる方もいるだろうと予想はしていた。
facebookグループの「audio sharing」で、そのことについてコメントをいくつかもらった。
(twitterでは間接的に意見をもらった。)

読み返事を書いた。それに対して、また書き込みがあった。
その方とは面識はないけれど、私よりも少し年上の方だと思う。
といっても世代が違うほどの歳の差ではなく、同年代といえなくもない(はず)。

その方は、熱心な長岡鉄男氏の読者であり、かなりの量を読まれているようである。
一方の私はというと、長岡鉄男氏の著書は一冊も持っていないし、
かなりの数の著書がでていることは知っていても、あくまでも知っているというところにとどまっている。

ここ数日、オーディオ雑誌の整理を集中して行っている。
別冊FMfanの17号が出てきた。
1978年3月に発行された17号の特集は長岡鉄男氏によるカートリッジのテスト。
これと連動する形で、巻頭記事には「マイ・プレイヤーを語る」というタイトルがつけられ、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用されているアナログプレーヤーが紹介されている。

ここでの私の興味は、当然瀬川先生と山中先生にあったわけで、
他の方々の記事は読んでいなかった。
でも、今回のこともあったので、長岡鉄男氏の「マイ・プレイヤーを語る」を読んでみた。

「?」と思うことが出てきて、いまこれを書いている。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その21)

MC型カートリッジの性能はカンチレバー、針先、ダンパー、コイルなどによって決まっていくものであり、
コイルからの引出し線の引き出し方は性能ということには影響しないとも考えられる。
けれど、その性能の中に音を含めると、コイルの引き出し線の引き出し方は影響するといえるる。

このことについて長島先生は、こう解説されている。
     *
MCカートリッジは、強い磁界の中をコイル引出し線が通る場合、リード線の振動によって発電が行なわれ、この信号が出力に混入してしまうことがある。こうなると、種として高域にコイルリード線の鳴きの影響が生じ、再生音を濁らせる結果となりやすい。その点、このカートリッジのように、コイルリード線の振動部分をダンパーでダンプした構造にしておけば、そのような害はほとんど防止することができるのである。
     *
二重ダンパーを採用しているカートリッジであれば、細かな配慮をすることで、
この部分の問題をほぼ解消できるわけでもあり、
このコイルの引出し線がカートリッジ内部で振動によって発電する問題は、
そのままスピーカーエンクロージュア内部の配線材に関してもあてはまることである。

スピーカーエンクロージュア内部にはスピーカーユニットからの洩れ磁束があり、
しかも互いに干渉しているわけでもある
そんな中をネットワーク本体からレベルコントロールまでの配線材は通っている。
しかもスピーカーエンクロージュア内部は、ウーファーの音圧によって振動の影響は大きい。
音量を上げれば、それだけ内部の振動も大きくなる。

さらにネットワークのコイルからのノイズの影響もある。
コイルはその性質上、定常状態を保とうと働く。
信号が流れていない状態から信号を流そうとすると、流すまいとしてパルス状のノイズを発生するし、
それまで流れていた信号をとめると、今度は流そうとして、今度もパルス状のノイズを出す。

そういういくつもの音に影響の与える環境の中を配線材は引き回されているわけだから、
配線材の引き回し方、固定の仕方は音のクォリティに関係してくるし、
引き回しがなくなれば、それだけ音質的には有利であるし、ずっと楽になるともいえよう。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その20)

長島先生によるステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2、
「図説・MC型カートリッジの研究」には「世界のMC型いろいろ」という記事で、
当時(1978年)市販されていたMC型カートリッジの代表機種の内部構造図が21機種、掲載されている。

この内部構造図は資料的価値も非常に高い。
この内部構造図は目次にもあるように、神部(かんべ)明さんによるものだ。
以前、神部さんにこのときのことを聞いている。

21のカートリッジすべてひとつひとつ分解して、細部の寸法を計測して描いたものだ、と。

この内部構造図を見比べていくと、ダンパーひとつとっても、
各メーカーによってずいぶん違うことがわかる。
いくつかのメーカーはダンパーを二枚用いる二重ダンパーを採用している。
具体的に名をあげれば、フィデリティ・リサーチのFR7、ハイレクトの2017、ナカミチのMC1000、
スペックスのSD909、EMTのTSD15、オルトフォンのSPUとMC20、フィリップスのGP922だ。

二重ダンパーといっても、TSD15の場合、二枚のダンパーを前後で重ねてるタイプではなく、
内側と外側の二重ダンパーなので、その他の二重ダンパーとは、やや異る。

これら二重ダンパーのカートリッジはふたつのグループにわけられる。
FR7、2017、SPU、MC20というグループとMC1000、SD909、GP922のグループとである。

この二つのグループの違いは、コイルからの引出し線をどう引き出しているかの違いであり、
FR7、2017、SPU、MC20は二重ダンパーの構造を活かし、
コイルからの線をいったん二枚のダンパーではさんだ上で引き出されている。

MC1000、SD909、GP922はコイルからそのまま引き出されているし、
二重ダンパー以外のMC型カートリッジもそうなっている。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その19)

限られたコストのなかで、物量投入が要求されるとなれば、
どこかを削っていかなければどうにもならない。
削れるところはどこか。
削っても、そのことに対して批判の声を受けにくいところ、
削ることによって、そのことが音質向上に寄与していると言い換えられるところ、
それはスピーカーシステムにとってレベルコントロールが、まずあげられる。

レベルコントロールを設けることによって、
国産のスピーカーシステムの場合、内蔵のネットワークの配置はリアバッフルであることが多く、
レベルコントロールはフロントバッフルあることが多いわけだから、
ネットワーク本体とレベルコントロールのあいだ(エンクロージュアの奥行きにほぼ相当する)は、
配線の引回しが必要となる。

レベルコントロールを廃すれば、レベルコントロールを構成する連続可変のアッテネーターを、
抵抗によるアッテネーターに置き換えられる。こちらは抵抗、二本で構成できる。
それにレベルコントロールのパネルもいらなくなるし、
ネットワーク本体とレベルコントロール間の配線材も不必要になる。
レベルコントロールを設けることによる手間も省ける。

それにもうひとつメリットもある。

スピーカーシステムのエンクロージュアの中はいくつもの磁界がある。
スピーカーユニットすべてが内磁型であればそれほどではないけれど、
外示型の磁気回路で防磁対策がなされていなければ、
それにマルチウェイのスピーカーシステムはいくつものスピーカーユニットを取り付けているため、
それぞれの磁界が干渉しているともいえる。

そういう中をスピーカー内部の配線材は引き回されている。

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その18)

10万円のアンプでネジを一本増やすのに稟議書、という話は1980年代半ばごろの話であって、
時代が違えば、それに同じ1980年代でもメーカーが違えば、こまかな事情は少しは違ってくるだろう。

とはいえ大量生産される製品ほどコスト管理は非常にシビアだということがわかる。
1980年代半ばごろといえば、598のスピーカーシステムも同時代のものであるわけだから、
10万円のアンプよりも定価の安い598のスピーカーシステムともなれば、
もっとコストの制約は厳しいものになると考えられる。

それがどのくらい厳しいものだったのかは具体的には聞いていないけれど、
10万円のアンプでネジ一本に稟議書なのだから、
598のスピーカーシステムで、例えばスピーカーユニットの固定用のネジ(ボルト)の数を増やすのも、
メーカーによっては稟議書が必要となるか、
さらには稟議書だけでは無理で会議が必要となるのかもしれない。

例として挙げた1982年の598のスピーカー三機種のうち、
オンキョーD7R、ビクターZERo5Fineはウーファーの固定ネジの四本、
ダイヤトーンDS73Dは八本。

それが1987年の三機種はすべてウーファーの固定ネジの本数は八である。
アンプの天板の小体に使われるネジと、ウーファーの小体に使われるネジとでは、
大きさ、強度が違ってくる。当籤ウーファー固定用のほうが大きく長い。

ネジ一本のコストも、アンプ用よりも高い。
1987年の598のスピーカーシステムでは、スコーカーの固定ネジも八本(ビクターは六本)に増えている。

定価が数十万円、百万円を超える価格の製品であれば、ネジの本数の増加は大きな問題ではなくとも、
一本59800円のスピーカーシステムにとっては、ネジの本数は決して小さくなく問題のはず。

598のスピーカーシステムは、単に外観からわかるだけでも、
1982年よりも1987年の製品のほうがコストがかけられている、ともいえる。

そうなると削れるところは削っていくしかない、ということになろう。

Date: 5月 12th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その17)

オーディオはメカトロニクスであり、
スピーカー、プレーヤーだけではなくアンプも振動による音の変化が生じることを的確に指摘され、
実際にどう音に影響していくのかを示してくれたのは井上先生だった。

ある試聴の時、訊ねたことがある。
このアンプの天板、ここにネジを一本追加するだけでずいぶん天板の鳴りが抑えられるはずなのに……、と。

井上先生はいわれた。
「10万円のアンプでもネジを一本増やすには稟議書がいるんだよ。」

ネジといっても、天板をとめているネジの径は大きなものではない。
値段はごくわずか。しかも小売りと違い、メーカーが大量に注文・購入するのであれば、
さらに安くなるはず。

なのに10万円のアンプでも、一本増やすために稟議書が必要になるとは。
この井上先生の話をきいたときは、私自身、若かったこともあり、
すぐには、このことがどういうことを表しているのか、すぐには理解できなかった。

国内メーカーにとって10万円のアンプは、売れ筋の商品ということになろう。
となると生産台数は少なくないわけがない。
正確な生産台数を知っているわけではないから、ここで出す数字はあくまでも例えである。

1万台、10万円のアンプを生産するのであれば、ネジを一本増やすことは総数で一万本増えることになる。
しかもネジを増やすだけですむわけではなく、
そのネジのための穴を開け、ネジが締るように加工しなければならない。
当然1万個の穴を開け加工することになる。

そしてネジを締る作業もある。
これも生産台数的に考えれば、一万箇所のネジをよけいに締ることになるわけだ。

ユーザー側は一台のコストで考える。
メーカー側は生産台数のコストで考える。

その違いに気づいて、ネジ一本に稟議書ということが理解はできた。

Date: 5月 12th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その16)

1982年の598のスピーカーシステム三機種にはフロントバッフルに、
スコーカーとトゥイーターのレベルコントロールのツマミと表示パネルがついている。
1987年の598のスピーカーシステム三機種のフロントバッフルにはレベルコントロールはない。
リアバッフルにもない。レベルコントロール機能自体が省かれている。

なぜレベルコントロールがなくなったのか。
これも聴感上のS/N比と関係してのことであある。

レベルコントロールの表示パネルはたいていプラスチック製だった。
エンクロージュアは木製。
フロントバッフルを叩いた時の音と較べると、
レベルコントロールのプラスチック製のパネルを指ではじいた音は異質なものである。

この異質な音はスピーカーユニットに信号が加わり振動が発生することで、
その振動がフレームからフロントバッフルに伝わり、このプラスチック製のパネルとも振動させ、
不要輻射の発生源となる。

しかもレベルコントロールのツマミも多くはプラスチック製で、回転できるように周辺どの間に溝がある。
この溝も不要輻射の発生源となっている。

昔の国産のスピーカーシステムはフロントバッフルに、こういったつくりのレベルコントロールがある。
それが音にどのくらい影響しているのかは、
このレベルコントロールをフェルトなどで覆い隠してみることではっきりと耳で確認できる。

その意味ではレベルコントロールを廃したことは決して悪いことではない。
そう考えることもできる。
実際にイギリス製のスピーカーシステム、
それもBBCモニターのスピーカーではレベルコントロールがないものも多い。
そのことに批判めいたことはいう人はいなかった。

けれど598のスピーカーシステムからレベルコントロールが消えたことに対しては、
批判の声もあった。
それはなぜだろうか。

実は598のスピーカーシステムの重量が増し、重量バランスが悪くなってしまったことと関係している。

Date: 5月 11th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その15)

1982年の598のスピーカーシステムとして、ビクターZERO5Fine、オンキョーD7R、ダイヤトーンDS73D、
1987年の598のスピーカーとして、ビクターSX511、オンキョーD77X、デンオンSC-R88Z、
それぞれ三機種ずつ挙げているのは、たまたまステレオサウンド 87号でも挙げているからだ。

沢村とおる氏による「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」の記事の担当は私ではなかったけれど、
写真の選定と、その説明分を書くのは私がやることになった。
つまり87号で、上記六機種を挙げたのは私なのだから、ここでもそのままいくことにしただけである。

1982年の598のスピーカーと1987年の598のスピーカーの写真を見比べるとわかることがある。
まず1987年の598のスピーカーシステムにはラウンドバッフルが採用されている。

ラウンドバッフルの採用といえば、指向特性の改善ととらえる人が少なくないのだが、
このころの598のスピーカーに採用されているr(半径)の小さなラウンドバッフルでは、
音の波長を考えればすぐにわかることだが指向特性の改善とはあまり寄与していない。

指向特性の改善目的であれば、ダイヤトーンの2S305のようなラウンドバッフルを必要とする。

では何のためのラウンドバッフルかといえば、聴感上のS/N比を高めるためのものである。
フロントバッフルと側版の接合部には角があり、
この直角の部分(エンクロージュアのエッジ)からの不要輻射が聴感上のS/N比を悪化させる。
この部分を丸くするだけでもずいぶんと違ってくる。
ほんとうはすべてのエンクロージュアのエッジを丸めたいところだが、
598という価格帯のスピーカーではそれは無理というものである。

このラウンドバッフルの採用とともに、
外観上1982年と1987年で違いがあるのはレベルコントロールの有無である。

Date: 5月 11th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その14)

例に挙げた1982年当時の598のスピーカー三機種、1987年当時の三機種。
1982年からステレオサウンドで働きはじめた私は、
いずれのスピーカーシステムも持ち運び設置している。

ステレオサウンドの特集の試聴、新製品の試聴、
これら以外の試聴もあるわけだが、とにかく日常的にオーディオ機器を持ち、運び、設置する作業は、
この仕事を経験したことの内人には想像できないほど多い。

スピーカーの試聴で一日に20機種を聴くことがある。
もっと多い場合もあるし、少ないこともあるわけだが、
20機種ということは、スピーカーは必ず二本一組だから40本のスピーカーシステムを運ぶことになる。
運んで設置して聴き終ったら試聴室の隣の倉庫に戻し、次のスピーカーシステムを運び設置する。
これをくり返すわけだ。
腰を痛めることにもなる。

とはいえ、このことは、他ではまず体験できないことだし、
オーディオ機器の重さに対しての感覚も変っていく。
そうやっていくうちに日常的感覚として、
オーディオ機器の重量には、そのバランスを含めて敏感になっていくものだ。

その日常的感覚からもはっきりといえることだが、
1982年の598のスピーカーシステムより、1987年の598のスピーカーシステムは重量が約10kg増すとともに、
重量バランスが悪くなっている(前側に偏っている)。

このことによる音の影響については、(その3)にも書いている。
この他にもスピーカースタンドの、音に対する比重が大きくなり、
スピーカーシステムの値段は同じ59800円でも、
1982年の598のスピーカーシステムと1987年の598のスピーカーシステムとでは、
スピーカースタンドにより丈夫で重量的にもバランスのとれるものを要することになる。
つまり、より高価なスタンドということになる。

Date: 5月 9th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598のスピーカーという存在(その13)

一本59800円のスピーカーシステムは、いわば普及クラスの製品ということになる。
オーディオをやり始めたばかりの学生にとっては、59800円は安くはない。
スピーカーシステムは二本必要だから、スピーカーだけで約12万円。

598のスピーカーシステムに、価格の点で見合うアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを選べば、
それぞれ6万円前後のモノを揃えたとしてトータルで30万円になる。

これにチューナーやカセットデッキを加え、
さらにはスピーカースタンド、ラックも加えていくと……。

その金額は、いまの非常に高価な製品が当り前になりつつある現状からみれば、
高価なケーブルの値段と同じくらい、という見方もされよう。

それでも、598のスピーカーシステムを購入する層は、そういう層ではない。
598のスピーカーシステムが、オーディオ用と呼べる最初のスピーカーシステムであったり、
はじめてのグレードアップ対象となるスピーカーシステムであったはずだ。

そういう価格帯の製品であっただけに、各社の力の入れようは激化していったのかもしれない。
にも関わらず、598のスピーカーシステムは各社とも似ていく方向にある時期向いていた。

1988年の598のスピーカーシステムに、
ビクターのSX511、オンキョーのD77X、デンオンのSC-R88Zなどがある。
これらのスピーカーシステムの重量は31kg、34kg、34.5kgである。

598のスピーカーシステムは長岡鉄男氏の影響もあって重くなっていった、と書いているが、
実際にどれだけ重くなっているかというと、
1988年の5年前の1983年の598のスピーカーシステムの重量は、
ビクターのZERO5Fineが21.5kg、オンキョーD7Rが22kg、ダイヤトーンDS73Dが21kgであり、
10kg前後、重量が増している。五割増しというわけだ。

しかも外形寸法には大きな変化はない。

Date: 5月 6th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その12)

アイロニーがアイロニーとして、ギャグがギャグとして機能しなかったのは、
発信者である長岡鉄男氏と受け手である読者とのあいだに「ズレ」があったから、といえるだろう。

この「ズレ」がなぜ生じたのかについては、どこかで改めて書きたいけれど、とにかくこの「ズレ」が、
598という、日本独自の、この時代ならではのスピーカーシステムの「膨張・肥大」をうんできた、とおもう。
つまり誰が、ということではなく、何が、ということになる。

これはあくまでも1980年代、
ステレオサウンドで働いていた私の捉え方・見方である。
この時代、ステレオサウンドは、598のスピーカーシステムに対して、
どちらかといえば批判的・否定的な立場をとることが多かった。

私は、そのことに影響を受けていたところはある。
だから598のスピーカーシステムを当時肯定的であったところにいた人とは捉え方が違ってくる。
そういう私だから、このブログで598のスピーカーシステムについて書こう、とまったく考えていなかった。
もし書くことがあったとして、別の項でなにかのきっかけで少しだけ触れるだけ、
それもおそらく否定的なことだけを書いていただろう。

それが、こうやって「598というスピーカーの存在」という項を設けてまで書いているのは、
598のスピーカーシステムが、あのまま「膨張・肥大」という改良がなされてきたら、
いったいどういうスピーカーシステムとなったのだろうか、
とふと想像してしまったところがきっかけになっている。

598のスピーカーシステムは、とにかく59800円という価格の制約がある。
実際には59800円よりもやや高い価格になっているだろうが、それでもこの価格の制約は大きい。
その中で、1台あたり、どれだけの利益を生んでいたのか、といらぬ心配をしたくなるほど、
この時代の598のスピーカーシステムは薄利多売の製品であり、
いわばこれがデフレのはじまりなのかもしれない、とまで思ったりもする。

それでもメーカーがいくつもあり互いに競争していくことで、技術者は工夫を重ねていく。

Date: 5月 5th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その11)

長岡鉄男氏にはファンが多かった、ときいている。
熱心なファンもいた。
ときに、それは長岡教とも長岡信者とも呼ばれることもあった。

この熱心な人たちに長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグはそうとは受けとめられずに、
長岡鉄男氏が意図しない方向で受けとめられてしまった──、私にはそうみえる。

だいたいスピーカーユニットやアンプのボリュウム・ツマミの重量を量ってみたところで、
その数字が何を表しているのかといえば、それはただ単に重量でしかない。
それ以上のことは、特に表していない。

そんなことは長岡鉄男氏は百も承知でやっていたはず、と私は思う。
これが他の人がやっていたのであれば、受けとめられ方もずいぶん違ってきただろうが、
国産オーディオ機器への影響力の大きかった長岡鉄男氏が、
熱心な読者をもつ長岡鉄男氏がこれをやったがため、
598のスピーカーシステムの重量増加を煽ることになってしまった。

アイロニーがアイロニーとして、ギャグがギャグとして機能することなく受けとめられて、
時は進んでいった。

メーカーの中には、
長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグだと受けとめていた人もいるだろうし、
長岡鉄男氏の読者の中にも、そう受けとめていた人もいたはず。
でも、そういう人たちよりも、
長岡鉄男氏が重さを量って発表するということは、
それが音の良さへと直接関係することである、と思い込んでしまった人の方が多かった──、
そういえないだろうか。

そうなってしまうと、メーカーもそれに乗らざるを得ない。
長岡鉄男氏のアイロニー、ギャグだとわかっていても、
他社製よりも重いことが売上げに大きく関係してくるのであればやらざるを得ない。

1980年代の598のスピーカーをうみだしたのは、結局誰だったか、と考えることもある。

Date: 5月 5th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その10)

長岡鉄男氏は執筆だけでなく精力的に活動されていた、といっていいだろう。
読者訪問やそうだし、リスニングルームへ読者を招くこともあった。
他の人よりも、読者と直接会うことの多かった人だったはず。

会えば話す。
話せば、自分が書いてきたことがどう受けとめられているかがわかる。
そこには失望もある。ともすると失望のことが多かったりもする。

私だってそういう経験はある。
何も自分で書いたものに関してだけでなく、
私が熱心に読んできたものに対して、「なぜ、そんなふうにしか読めないの?」と思うことは、
ずっと以前から何度となくあった。

私が書いたものに関してだけなら、自分の書き方がまずかった、と反省することにもなるけれど、
五味先生や瀬川先生、岩崎先生の書かれたものについても、そんなことを経験していると、
「読む」という行為も、実に人さまざまだと思い知らされる。
(何も失望ばかりではないのだけれど、記憶としては失望のほうが強く残る)

長岡鉄男氏は、私よりもずっとそんな経験をされてきたのではなかろうか。
何を書いてもどう書いても誤解・曲解される。
最初から最後まできちん:と読んでくれればわかるように書いているつもりでも、
意外に思われるかもしれないが、最初から最後まで読まない人もいることを、
私だって体験的に知っている。

本、雑誌は商品であり、その商品を購入した人がどう読もうが、
それは購入者の自由であり勝手である、とは私は思っていない。
けれど、そう読まれることが事実としてある、ということは知っている。

そういう事実に対して長岡鉄男氏がとられた手段が、
スピーカーユニットやアンプのボリュウムのツマミの重量を量ることだった。
すくなくとも私はそうみている。

つまり長岡鉄男氏のこの行為は、アイロニーでありギャグでもあったように思えてならない。

Date: 4月 26th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その9)

オーディオ評論(音を言葉で表現すること)の問題、
曖昧さ、難しさについてはここではこれ以上深入りしないけれど、
つまりは長岡鉄男氏がスピーカーシステムの試聴記事でスピーカーユニットの重量を量られたのは、
このところにある、といっていいはず。

JBLの2405の重量はカタログ発表値では2kgである。
この2kgという事実は、2405の音像が平面で切り張りと感じる人にとっても、
立体的と感じる人にとっても変らぬ事実である。

2kgを重いと感じるのか、軽いと感じるのか、こんなものだろうと感じるのかは人によって違ってきても、
2405の重量が2kgという事実は誰にとっても同じである。

つまり長岡鉄男氏は、誰にとっても事実であることを文字とされたわけである。
このことに関しては、私が長岡鉄男氏の熱心な読者ではなく、
ほとんど読んでいない読者だけに記憶に曖昧なところがあるけれど、
スピーカーユニットの重量やアンプのボリュウムのツマミの重量を量ることについて、
長岡鉄男氏自身が書かれている記事を読んだ記憶がある。

つまりすべての人にとって変らぬ事実というのは、重量ぐらいしかない、ということだった。

Date: 4月 26th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その8)

時代はすこし違っているというものの、
井上先生、瀬川先生、黒田先生がおもな執筆の場としてステレオサウンドに早瀬文雄氏も書かれていた。
同じフィールドにいた人たちの間でも、
オーディオの音の関する評価基準の中で、どちらかといえば客観的ともいえる音像の立体感において、
正反対の評価となっていることは、
フィールドが違えば、さらに大きくなることだってあるし、
いまここで取り上げていることは書き手側の問題であって、それだけでもこういうことが起り得るのに、
実際にはここに読み手の問題がある。

例えばステレオサウンドしか読んでこなかった読者が、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌を読んだとして、
そこに書かれていることをステレオサウンドに書かれているのを読んだときと同じように受けとれるか。
これはどのオーディオ雑誌が優れているのかということではなく、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌(できればステレオサウンドと執筆者がかぶらない雑誌)、
それしか読んでこなかった読み手がステレオサウンドをはじめて手にとって読んだとしても、
同じことがいえる。

言葉で音を表現することは粗視化であり、主観的、恣意的なことが多分に含まれるだけに、
ある人によるある記事だけを読んだだけで、
そこで評価されているオーディオ機器の音が正確に把握できるものではない。

ある人が書いたものをできるだけけ多く読んでいくことで、
ようやく試聴記に書かれていることから音がある程度想像できるようになってくるわけなのだから、
書き手側にはフィールドがあれば読み手側にもフィールドがあり、
そこで順列組合せ的に事柄が発生する。

そうなるとすべての人に共通する事実というものは、ほとんどないにも等しい。

書き手側においても、JBLの2405の例のように立体感でまるで正反対の評価が出ているわけで、
2405の件に関してはここで取り上げている範囲では3対1で平面で切り張りが事実として受けとれるが、
これは書き手側だけにおけるわずかなサンプルであり、
読み手側を含めて2405をの音についてきいたことがある人に意見をきいていけば、逆転するのかもしれない。