598というスピーカーの存在(その8)
時代はすこし違っているというものの、
井上先生、瀬川先生、黒田先生がおもな執筆の場としてステレオサウンドに早瀬文雄氏も書かれていた。
同じフィールドにいた人たちの間でも、
オーディオの音の関する評価基準の中で、どちらかといえば客観的ともいえる音像の立体感において、
正反対の評価となっていることは、
フィールドが違えば、さらに大きくなることだってあるし、
いまここで取り上げていることは書き手側の問題であって、それだけでもこういうことが起り得るのに、
実際にはここに読み手の問題がある。
例えばステレオサウンドしか読んでこなかった読者が、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌を読んだとして、
そこに書かれていることをステレオサウンドに書かれているのを読んだときと同じように受けとれるか。
これはどのオーディオ雑誌が優れているのかということではなく、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌(できればステレオサウンドと執筆者がかぶらない雑誌)、
それしか読んでこなかった読み手がステレオサウンドをはじめて手にとって読んだとしても、
同じことがいえる。
言葉で音を表現することは粗視化であり、主観的、恣意的なことが多分に含まれるだけに、
ある人によるある記事だけを読んだだけで、
そこで評価されているオーディオ機器の音が正確に把握できるものではない。
ある人が書いたものをできるだけけ多く読んでいくことで、
ようやく試聴記に書かれていることから音がある程度想像できるようになってくるわけなのだから、
書き手側にはフィールドがあれば読み手側にもフィールドがあり、
そこで順列組合せ的に事柄が発生する。
そうなるとすべての人に共通する事実というものは、ほとんどないにも等しい。
書き手側においても、JBLの2405の例のように立体感でまるで正反対の評価が出ているわけで、
2405の件に関してはここで取り上げている範囲では3対1で平面で切り張りが事実として受けとれるが、
これは書き手側だけにおけるわずかなサンプルであり、
読み手側を含めて2405をの音についてきいたことがある人に意見をきいていけば、逆転するのかもしれない。