598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その1)
「598のスピーカーという存在」で長岡鉄男氏がスピーカーユニットの重さを量られていたことについて書いた。
私は、長岡鉄男氏のこの行為を、長岡鉄男氏なりのアイロニーでありギャグである、と解釈している。
そのことも書いている。
ここであえてこんなことを書いているのは、
私が「アイロニーでありギャグであり」と解釈したのは、
あくまでもスピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量ったことについて、であり、
長岡鉄男氏の、これ以外の活動についてのことではない、ということである。
私は重さを量ることをそう捉えたわけだが、
私以外の人は、そんなことはない、と思われる方もいるだろうと予想はしていた。
facebookグループの「audio sharing」で、そのことについてコメントをいくつかもらった。
(twitterでは間接的に意見をもらった。)
読み返事を書いた。それに対して、また書き込みがあった。
その方とは面識はないけれど、私よりも少し年上の方だと思う。
といっても世代が違うほどの歳の差ではなく、同年代といえなくもない(はず)。
その方は、熱心な長岡鉄男氏の読者であり、かなりの量を読まれているようである。
一方の私はというと、長岡鉄男氏の著書は一冊も持っていないし、
かなりの数の著書がでていることは知っていても、あくまでも知っているというところにとどまっている。
ここ数日、オーディオ雑誌の整理を集中して行っている。
別冊FMfanの17号が出てきた。
1978年3月に発行された17号の特集は長岡鉄男氏によるカートリッジのテスト。
これと連動する形で、巻頭記事には「マイ・プレイヤーを語る」というタイトルがつけられ、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用されているアナログプレーヤーが紹介されている。
ここでの私の興味は、当然瀬川先生と山中先生にあったわけで、
他の方々の記事は読んでいなかった。
でも、今回のこともあったので、長岡鉄男氏の「マイ・プレイヤーを語る」を読んでみた。
「?」と思うことが出てきて、いまこれを書いている。