Archive for category 表現する

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・使いこなしについて話してきたこと)

実際に、このことを試してみるとわかるのだが、
意外に、とでもいおうか、それとも、やっぱり、とでもいうべきなのか、
システムを解体する前の状態と同じにセッティングしなおしたと思って音を出してみると、
あくまでも感覚量にしかすぎないのだが、解体前の音の50%再現できれば、いい方だと思っている。

50%にも満たない音がすることだって、少なくないと思う。

これをやるときに、解体前の状態を写真に撮ったりメモをとったりせずに、
やろう! と決意したら、即システムをすべて解体して、一旦リスニングルームの外にオーディオ機器を出す、
それもこれはできれば、ほかの人にやってもらった方がいい。
オーディオ機器の扱いで信頼のできる人にまかせてやってもらう。
そうすれば解体するときに、セッティングを記憶することができなくなるからである。

ある期間をかけてこつこつ築いてきた──、とはいっても、そのすべてを意外にも、
それを行ってきた本人が把握し切れていないからであり、注意を向けていないところに関しては、
どうなっていたのかさえ思い出せないこともあるはず。

それに記憶していることでも同じにやったつもりでも、同じようにしかなっていないことも、少なからずある。
アクセサリーを多用している場合だと、そうなりがちだろう。

結局、自分でやってきたことにもかかわらず、思い出せないことは実のところ、
そのことは自分の手法として身についているとはいえないのではないか。

そういうやり方でも、チューニングをやっていってれば音は変化する。
変化する以上は、どちらかを選択して、その時点でいい音と思えた方を当然選択する。
これをずっと続けていれるのであれば、それはそれでいいのかもしれないが、
これに関しても、微妙ではありながらも、大事な問題が絡んできていて、
Aの音とBの音を比較して、よい方を選ぶ、というやり方では目的地を見失うこともある。
これについては、項を改めて書いていくが、
ある期間をオーディオを続けていると、ふと手が止ってしまうことがあっても不思議ではない。

くりかえすが、私が一度システムを解体して、もう一度最初からやってみることを、
ここで書いているのは、そういうときにそういう状況から抜け出るため、
そして抜け出た後に身につくことが最も多いやり方であるためだ。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・使いこなしについて話してきたこと)

そういうときオーディオマニアは、
もしかすると自分の音はかなりいいところまでいっているんじゃないか、と思うこともある。
自分の音に対して懐疑的な人であっても、そんな気持になるときはあるはず。
そうでなければ、オーディオはながく続けてはこれない、とも思うからだ。

この1年間、オーディオとひたすら取り組んできた。
最初は、ほんとうにひどい鳴り方しかしなかった音が、音楽が楽しめる鳴り方になってきた。
と同時に、これから先、どういうふうに取り組んでいけばいいのかが、
自分の中から湧いてこない状態にもなってしまったかのようでもある……、
「だから、一度音を聴きに来てほしい」という連絡があり、4月1日に行ってきた。

話を聞いて、音を聴かせてもらい、また話をしていた。
午後1時にその方をお宅を訪れて、9時半ごろまでいた。
本人だけでなく、奥さんもいっしょに私の話をきいてくれていた。
いくつか具体的なチューニングについて話してきたものの、
これだけの時間話してきても、まだまだ話したりないことのほうが多い。
それでも、ひとつだけくり返し言ってきたのは、
一度、いまのセッティング、これまでチューニングしてきたことをすべて崩して、
リスニングルームからすべてのオーディオ機器(ラックや置き台を含めて)すべてを一旦出して、
つまり部屋を空っぽにした状態で、もう一度、最初からセッティング、チューニングしてみることをすすめてきた。

これをやるのは、ほんとうに大変なことである。
ながい時間をかけて築いてきた音を、すべて解体してしまう。
そして「もう一度、一からやってみたらどうか」と私は言ってきた。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・使いこなしについて話してきたこと)

オーディオマニアだったら、何度も目にしたり耳にしたりしていることだが、
オーディオは高価な機種を買い揃えるだけで、
いい音、もくしは求める(理想とする音)が簡単に手に入るものではない。
(いい音と理想とする音は、人によっては必ずしもまったく同じとはいえないところもあるが、
このことに関しては、今回はあえてふれない。)

購入したオーディオ機器は、リスニングルームとなる自分の部屋に、まず設置する。
そして音を出していく。
最初から、偶然がうまく重なってうまいとこ鳴ってくれることもある。
充分な配慮のもとにセッティングしていけば、オーディオ機器が素性の優れたものであれば、
そうひどい音はしないこともある。
それでも、そこで満足できるものではなく、たとえ最初からかなり満足のいく音が鳴ってきたとしても、
どこかをチューニングしていきたくなる。
まして、部屋の状態によっては、望んでいた音、求めていた音とはずいぶん違う音が鳴ってくることだってある。
となると、チューニングをこつこつとやっていくことになる。

最初からいい音で鳴ったとしてもそうでなかったとしても、チューニングをしていく。
中には、そんな細かいことをせずに、いきなりスピーカーシステムやアンプを買い換える人もいるだろう。
でも、オーディオマニアと呼ばれる人は、チューニングを施していく。

思いつく限り、あれこれ試していく。
自分で思いつかなくなったら、オーディオ雑誌やインターネットを参考にして、
チューニングの手法を手に入れ、それらを試していく。
オーディオの仲間がいれば、彼らの知恵を借りること(そして、貸すこと)もある。

そうやってやっていけば、ごく短期間での上下変動はあるものの、
音は少しずつ(ときにはぐんと)良くなっていくものである。
だから、オーディオは続けられていくし、続いていく。

それでも、ふと、いまの自分の音について確認作業を行ないたくなるときが訪れることもある。
チューニングをひたすらやってきて満足のいく音が出始めてきたとき、
そういうときは不思議と、チューニングの次のステップが思いつかないときでもあろう。

Date: 4月 3rd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(使いこなしについて話してきたこと)

もう20年も経っているのか……、と今日書こうと思っていたことについて、
その年代をふりかえってみたらちょうど20年だった。

1992年に「シャカリキ!」というマンガの連載が始まった。
自転車のマンガである。いまでこそ東京の街中をロードレースで走っていく人は多い。
いまは自転車関係の雑誌も数も増えているし、
書店に置かれる冊数もはっきりと増えている。それに自転車店も増えた。

でも20年前、自転車はいまとは違い、ブームとは呼べる状況ではなかった。
そんななかで連載が始まった「シャカリキ!」を、夢中になって読んでいた。

主人公は野々村輝という少年。
彼が関西のある町に引越してきたところから始まる。
その町は坂が多いため、ほとんど自転車に乗る人がいない。
そこで自転車好きの主人公を待ちうけていたのは、二番坂と一番坂。

どちらも長い坂道で、一番坂は二番坂よりも2倍ほど長く高い坂という設定。
主人公の野々村輝は二番坂を登り切る。
同級生(小学生)は誰も自転車で登り切ることのできなかった二番坂を、である。

そして一番坂に挑戦する。
坂の中ほど、つまり二番坂と同じくらいのところで力尽き、ペダルから足が離れ、地に足をついてしまう。
このあとに主人公がとった行動は、まったく予測できないものだった。
野々村輝は何も言わずに坂を下ってしまう。
そして、もう一度スタート地点にもどり、一番坂を登りはじめる。

足をついたことぐらいなんでもない、そこで休んだわけでもないし、
そのまままた坂の頂上を目指して登り続けたとしても、誰もなにも言わない。
にもかかわらず、野々村輝は坂のはじまりまで戻っていく。

坂をのぼるのはしんどいけれど、時間をかけて登ってきた坂を下ってしまうのはあっという間である。
その短い時間で体力が回復することはない。
常識的に考えれば、足をついたところからまた登り続けた方が、一番坂を登り切る可能性はまだ高い。
それでもまた最初から挑む。

こんなオーディオと関係のないことを書くのは、2日前(4月1日)に、音を聴きに出かけていたからだ。

Date: 3月 19th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(音の黄金比)

音は「バランスが大事だ」とかなり昔からいわれつづけている。

まずは帯域バランス。それから音色の硬軟のバランス。情緒的な面と知性的な面とのバランス、陽と陰とのバランス。
こうやって例をあげていくと、いくつでも出てくる。
これらのバランスが見事にとれいてる総合的な音は、見事な音といえることだろう。
それが、いい音であるのか、は措いとくとしても、ケチのつけようのない音であることは確かなはず。

ただ、バランスでも、特に対比的・対称的・対照的な面に関わってくるバランスにおいては、
1対1、つまりぴったり同等であることが、美しい音を生み出すとはどうしても思えない。

1対1ではなくて、すこしどちらかに傾いたバランス、
それはおそらく黄金比とよばれる比率になるのかもしれないが、
そういうバランスの音こそが、
そしてその比率が、ときに音楽の表情の変化によって逆転することのできる音のみが、
美しい音として認識されてゆくような気がする。

こんなことを書いてはいても、
ではどうやって音の、そういう面のバランスを数値化が出来るのか、と問われても答えられない。
結局は、耳で判断するしかないことなのだから、そこに黄金比をもってくるのはもともと無理がある考え──、
そう思われてもいい。同意してくれる方がいなくてもいい。私もそう思っているところがある。

それでも感覚的な黄金比は確かにある、と感じていて、
この黄金比を己の感覚として身につけることが、私にとっての「音を表現する」ということになっていく……。

Date: 3月 15th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・聴く、ということ)

音は、どこをいじったとしても必ず変化する。
その変化量や変化のベクトルは同じでないにしても、
音が変化しないということは──これは断言しておくが──、絶対にない。

こんなことでも音は変るのか……、と、ときには、その「発見」に喜ぶこともあるし、
またときには、こんなことで音は変ってほしくない、と思うこともある。
ちょっとやそっとのことでは音が変らない、そんなオーディオが欲しい気持はどこかにある。
それでも、音は変る。

にも関わらず、世の中にはオーディオを趣味としているといいながらも、
ケーブルを変えても音は変らない(この程度ならまだいいほうなのかもしれない)、
中にはアンプを変えても音は変らない、という人もいる。

実は、そういう人の音のきき方は、音の違いのみに意識を集中しているのではないか、と感じる。
音の変化を聴き分けるのだから、それでいいんじゃないか、といわれそうだが、
音を聴くということは、音の良さを聴きとろうとする行為であって、
それぞれのオーディオ機器の音の良さを感じとろう、聴きとろうという意識であれば、
音の違いは自然とわかってくるもの。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その11)

自己表現について考えていく前に、自己顕示について考えてみたい。

自己顕示欲については、ここで触れたように、
自己顕示欲を全否定するわけではない。

ただ……、と思う。
自分の音を誰かに聴かせることになったとする。
そのとき、この自己顕示欲を意識することにならないだろうか。

誰にも聴かせない──、どんな人に頼まれたとしても断わることができさえすれば、
そして家族にさえも聴かせない。
その音を聴くのは、世界に自分ひとりだけという状況をつくり維持していければ、
そこで鳴っている音は、自己顕示欲から解放され、無縁でいられるのかもしれない。

けれど、そこに誰かが存在することになれば、そうもいかなくなる。
ここで毎日書いている文章も、結局は誰かに読まれている。
つまりは、読んでくださっている方に向けての表現といえるところも当然あって、
そこ(そして底)には自己顕示欲が、どういうかたちにしろ、存在している。

あと何年こうやって文章を書いていくのかは私にもわからないけれど、
ひとつはっきりいえることは、最後まで自己顕示欲から完全に解放されることはない、ということ。

けれど、音の表現に関しては、もしかすると、自己顕示欲からの完全な解放が可能なのかもしれない。
それとも、誰にも聴かせなかったとしても、無理なことなのだろうか。

もうひとつ思うのは、自意識なき自己顕示欲は存在するのか、ということ。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その10)

この項のタイトルには「表現する」と入っている。
そしてオーディオでは、そこで鳴っている音は、そのシステムの持主の自己表現だ、という人もいる。
けれど、私は、ここでの「表現する」は自己表現ということではない。

30年以上、オーディオという器械を通して音楽を聴いてきた。
飽きもせずに聴いてきた。これから先も、死ぬまで音楽を聴いていく。
それもナマの演奏会で聴くよりも、ずっと長い時間をスピーカーシステムから出てくる音で聴くことになるはず。

そうやって聴いてきたのは、そして聴きたいのは、作曲家・演奏家を含めた意味での音楽家の「表現」であることは、
これまでもこれからさきも変らぬことである。
オーディオにこれほどのめり込んでいるのは、この音楽家の「表現」をあますところなく聴きたいからである。

そこに「自己表現」が入り込む隙があるのか、という疑問がずっとある。
いまのところ完全・完璧なオーディオ機器はなにひとつない。
デジタル機器と呼ばれるCDプレーヤーにしても、
さまざまな回路が生み出され、素子も進歩しているであろうアンプにしても、
そして100年以上前から基本動作に変化のないスピーカーにしても、世の中にひとつとして同じ音を出すものはない。
これはすなわち、どれも不完全なモノということでもある。

同じメーカーの同じ型番の製品(つまり同一製品)にしても、
複数台並べて厳密に比較試聴していくと、まったく同じ音を出すモノは1台もない。
製造管理のきちんとしたメーカーのものであっても、ごくわずかな差がある。

いまのところ、われわれはそういうモノ同士を組み合わせて、
ナマの演奏会場とは大きさも雰囲気も大きく異る自分の空間で鳴らす。
そこには、不完全という隙がいくつも重なり合うように存在している、ともいえる。

その隙は、なにかで埋めていくものなのか、埋めていくとしたら、そこに自己表現が入っていくのか。

Date: 8月 5th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・聴く、ということ)

新しい書体をデザインしていくとき、どういう文字にするのかというルールを定めて、
一文字一文字描いていった後、細かなところを修整していく、
そのときはやはり一文字だけを表示して修整していくのではなく、
ある程度の文章にしたうえでのバランスを見て、ということになる、ときいている。

音も同じではないか。
個々の音ばかりに注意を払って(というよりも気をとられすぎて)、
いったい何の音楽を聴いていたのかすら定かではない、という聴き方をしていては、
音の修整という作業は永遠にできない。

音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断する、ことであるように、
音を修整するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを修整していくことである。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・聴く、ということ)

活字には幾つもの書体があって、
たとえばゴシック体と呼ばれるものの中にもさまざまな種類のゴシック体があり、それぞれに特徴がある。
けれどゴシック体のそれらの中からいくつかの書体を選びだして、たった1文字だけを表示して比較してみても、
その違いははっきりとしないことがある。
とくに画数の少ない文字であれば、たとえば「一」(漢字の1)などは特にそうだろう。
けれど文字数が増えてきて、あるまとまった文章になると、
ゴシック体の中でもそれらの違いが誰の目にもはっきりと浮び上ってくる。

つまり違いを認識するには、ある一定量が必要になり、
この量というものは、人によって異ってくるということ。
フォントをデザインしている専門家であれば、素人が同じ書体に見えているものでも、
はっきりとどの書体かを指摘できるように、である。

このことを認識せずに音を聴いている人がいる。
そういう人たちに共通しているのは、音は変らない、である。
ケーブルを変えても音は変化しない、もっと極端になるとアンプを変えても音なんては変りはしない、
という人までいることを、インターネットが浮き彫りにしてきている。

おそらくこういう人たちは音を細分化・分断化して音を比較しようとしているのではないだろうか。
こういう音の聴き方が正確なようにおもえても、実のところ、そうではない。
音の比較にもある時間の幅(つまり書体における文字数と同じ意味で)が必要である、ということ。

瀬川先生がステレオサウンド別冊 HIGH-TECHNIC SERIES-1の中に、こんな話を書かれている。
     *
もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
     *
私がここで言いたいことも、同じことである。
こんな音の聴き方をしているからこそ、音の違いを掴めなくなる、
というオーディオの罠にはまってしまい、科学的だ、とかいう屁理屈をつけて自分の正当化してしまう。

Date: 7月 20th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・聴いてもらうということ)

「音は人なり」といわれてきている。
私もここで何度か書いている、さらに「人は音なり」とも書いている。

私は、これはオーディオのひとつの真理だと思っているが、
果して言葉にしていいものだろうか、という気持が、最近になって芽生えてきた。

よほどひねくれ者でないかぎり、人から悪く思われたくはない。
だからオーディオマニアにとって、
「音は人なり」という言葉が、本来の意味から少し外れたところの意味をもってくるように思うからだ。
「音は人なり」はときとして強迫観念的な色を帯びてきはしないだろうか。
「音は人なり」は、そういう意味でいわれてきたことばではないにもかかわらず、そう思われてしまうことで、
決着を急ぎさせすぎてしまうことにつながっていく……。
そうなってしまっては、オーディオの楽しさは半減していく。
これはもったいない、という話ではなく、おかしいことにもなっていくかもしれない。

オーディオは、もっともっと楽しまれていくもののはず、と改めて思うからだ。

Date: 2月 21st, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・聴く、ということ)

いい音で、すこしでもいい音で、音楽を聴きたい、とオーディオをずっと続けてきてこられている人ならば、
そう思われているはず。

いい音で聴くために、いい音を出す。

この当り前のように思えていたことが、
実は、ときには、まったく関連性を無くしてしまうことがあるような気がしはじめた。

つまり、いい音を出すこと、と、いい音で聴くこと、
このふたつの行為は切り離せない関係である、と思っていた。

いい音を出せれば、それでいい音が聴ける、そう思っていたわけだ。

だが、このふたつのあいだには、ときとして、大きな隔たりがある。
つねにあるとは思っていない。
なにかの拍子に、なにかのきっかけで、そこで隔たりが生じてしまう。

いい音を出せたからといって、いい音で聴けているわけではない状況がおきる。

Date: 2月 16th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・聴く、ということ)

聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と書いた。

最初から多くを、人は聴きとれるわけではない。
そこで、どういう態度をとるか。

たとえばケーブルの音の違いなんて、そんなものはない、と頭から決めつけてしまっている人たちがいる。
あれこれ屁理屈をつけては、声高にヒステリックに、ケーブルが音が変る、なんていうのはオカルトだ、と。

ケーブルの違いによる音の差は、ときには微細なものであったりする。
聴きとれるものがまだ多くないときに出していた音は、そういう違いに対して感度が低かったりもする。
それを、最初は聴きとれなかったとして、なにも恥じることはない。

恥じるべきは、その後の態度である。
音の違いを聴きとれなかった、だからケーブルによって音が変るなんて、ありえない、
そんなことはいう奴らは、みんなオカルトだ、と、勝手に決めつけて、
自分の耳の悪さだけでなく、傲慢さまで棚上げしてしまう。
そして、自分を正当化したいだけの、中途半端なオーディオの知識まがいを、断片的にかき集めて、
御本人は、理論武装した、と悦に入っておられる。

そうなってしまうと、鶏卵前後論争ではないけれど、
聴きとれなかった、だから自分の音として、その違いを表現できない、
表現できないからいつまでも経っても、何度聴いても、音の違いはわからない、聴きとれない。
聴きとれないから表現の領域が広がらない、だから……、と無限ループになってしまっている。

なぜ、そうなってしまうのか。
おそらく、そうするのが、いちばん楽だからだ。そして自分の未熟さを認めなくて済むからだ。

謙虚になってひたすら聴く、という態度を忘れてしまっていては、広がりは生れない。
いつまでたっても、同じところに立っていればいい。

Date: 11月 4th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴く、ということ)

聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と思っている。

人は、スピーカから出ている音のすべてを聴き取っているわけではないだろう。
人によって、敏感なところと鈍感なところがある。
いろんな音を聴き、音楽を聴き、音に真剣に向き合ってくることで聴きとれる音は増えてくる。
鈍いところは減ってくる。それでも、すべての音が聴きとれるわけではないはず。

うまく聴き取ることができない種類の音に対しては、自分の音として表現することは難しい。
出せないわけではない。オーディオは機器の組合せだから、それぞれの機器のもつポテンシャルのおかげで、
持主である聴き手がうまく聴き取ることのできない音も、いわば勝手に出してくれるところがある。

だから、音としては、出せる。でも出せているから、といって、表現している、とはいえないところがある。

表現する音をふやしていくためには、ひたすら聴く。聴いて、聴きとれる領域をひろげていくしかない。

そして、人が聴き取っている音は、ほんとうのところはわからない。
何度か、同じ音を聴く機会があれば、
この人は、こういうところには敏感で、鈍感なところはあのへんだな、とはなんとなく感じることはあっても、
それは私の勝手な推測でしかなくて、実のところ、わかりあえるものではない。

ただそれでも、音の空間認識に関しては、私の体験では人によってかなりの差がある、と感じている。

短期記録の場として知られている、脳の中にある海馬は、空間認知、空間記録にも関わっている、ときく。
この空間認知・記録が視覚的な情報に対してだけなのか、聴覚的な情報にも関わっているのか、
医学的なこと、専門的なことは知らないけれど、聴感にもふかく関わっているはず、という直感はある。

海馬は、新しく細胞がつくられるところだともきいている。
そして、川崎先生が以前いわれていた「ロドプシンへの直感」が、ここに関係している、そんな直感もある。

Date: 9月 29th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・聴いてもらうということ)

よけいなお世話なんだということはわかっているけれど、それでもいいたいのは、
なにかいそすぎている人がふえている、
もうすこし腰をすえてゆっくりオーディオととり組んだらどうだろう、ということ。

いまのオーディオのことに関しても、情報の伝達がはやいし、信用できるできないかは措いとくとしても、
情報(情報まがいもふくめて)の量は、ネットにアクセスすれば、
いったいどれだけあるのか想像もつかないほど増えている。

オーディオブームだった頃にくらべるとオーディオ雑誌の数は少なくなってきているけど、
得ようと思えば、情報はピンからキリまである厖大なその量は、ブーム時よりも圧倒的に多い。

そして人と人との結びつきも変ってきて、いわゆる「オフ会」が開かれることも、
昔とは比較にならないほど増えているんだろうと思う。

情報が増え、人に聴かせる機会も増え、誰かの音を聴く機会も増えたことの弊害が、
自分のペースを見失い、いつしかまわりの、そんなペースに流されてしまっていることにすら気がついていない、
そんな人も出てきているような気がする。

オーディオはどこまでいっても、その人個人のもの。
個人のものに締切はない。いついつまでにいい音に仕上げなければならない、そういうものじゃない。
じっくり自分のペースで、ゆっくりいい音に仕上げていくだけなのに、と思う。

人に聴かせようと思ったら、その日までにいい音にしたい、と思うのは誰しも同じ。
でも、そのことの弊害(といってはすこし言いすぎか)がどこかしらに出てくる、そんな気は以前から感じていた。

新しいモノを買ったら、心情として、仲の良いオーディオの仲間には、つい言いたくなる。
言ってしまったら、聞いた相手は、とうぜん「聴かせてほしい」といってくるだろう。
自ら言った手前、ことわりにくかろう。そうやって誰かに聴いてもらうこともある。

まだダメだ、ときっぱりことわれる人はいい。
でもそうでない人は、自分の音を大切にするためにも、黙っておいた方がいいのかもしれない。

そして短くても半年、できれば1年、じっくり自分のペースでとり組んで、納得したときに聴いてもらう、
それが、いわば本来の在りかたではないだろうか。

どんなに世の中の流れがはやくなろうと、
1枚のディスクにおさめられた音楽を聴くために必要は時間は、変らない。短くなんてならない。
1時間の音楽を聴くためには、1時間の時間がいる。これからかも、ずっとそうだ、変らない。
急ぐ必要は、どこにもない。