音を表現するということ(その10)
この項のタイトルには「表現する」と入っている。
そしてオーディオでは、そこで鳴っている音は、そのシステムの持主の自己表現だ、という人もいる。
けれど、私は、ここでの「表現する」は自己表現ということではない。
30年以上、オーディオという器械を通して音楽を聴いてきた。
飽きもせずに聴いてきた。これから先も、死ぬまで音楽を聴いていく。
それもナマの演奏会で聴くよりも、ずっと長い時間をスピーカーシステムから出てくる音で聴くことになるはず。
そうやって聴いてきたのは、そして聴きたいのは、作曲家・演奏家を含めた意味での音楽家の「表現」であることは、
これまでもこれからさきも変らぬことである。
オーディオにこれほどのめり込んでいるのは、この音楽家の「表現」をあますところなく聴きたいからである。
そこに「自己表現」が入り込む隙があるのか、という疑問がずっとある。
いまのところ完全・完璧なオーディオ機器はなにひとつない。
デジタル機器と呼ばれるCDプレーヤーにしても、
さまざまな回路が生み出され、素子も進歩しているであろうアンプにしても、
そして100年以上前から基本動作に変化のないスピーカーにしても、世の中にひとつとして同じ音を出すものはない。
これはすなわち、どれも不完全なモノということでもある。
同じメーカーの同じ型番の製品(つまり同一製品)にしても、
複数台並べて厳密に比較試聴していくと、まったく同じ音を出すモノは1台もない。
製造管理のきちんとしたメーカーのものであっても、ごくわずかな差がある。
いまのところ、われわれはそういうモノ同士を組み合わせて、
ナマの演奏会場とは大きさも雰囲気も大きく異る自分の空間で鳴らす。
そこには、不完全という隙がいくつも重なり合うように存在している、ともいえる。
その隙は、なにかで埋めていくものなのか、埋めていくとしたら、そこに自己表現が入っていくのか。