音を表現するということ(続・聴く、ということ)
聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と書いた。
最初から多くを、人は聴きとれるわけではない。
そこで、どういう態度をとるか。
たとえばケーブルの音の違いなんて、そんなものはない、と頭から決めつけてしまっている人たちがいる。
あれこれ屁理屈をつけては、声高にヒステリックに、ケーブルが音が変る、なんていうのはオカルトだ、と。
ケーブルの違いによる音の差は、ときには微細なものであったりする。
聴きとれるものがまだ多くないときに出していた音は、そういう違いに対して感度が低かったりもする。
それを、最初は聴きとれなかったとして、なにも恥じることはない。
恥じるべきは、その後の態度である。
音の違いを聴きとれなかった、だからケーブルによって音が変るなんて、ありえない、
そんなことはいう奴らは、みんなオカルトだ、と、勝手に決めつけて、
自分の耳の悪さだけでなく、傲慢さまで棚上げしてしまう。
そして、自分を正当化したいだけの、中途半端なオーディオの知識まがいを、断片的にかき集めて、
御本人は、理論武装した、と悦に入っておられる。
そうなってしまうと、鶏卵前後論争ではないけれど、
聴きとれなかった、だから自分の音として、その違いを表現できない、
表現できないからいつまでも経っても、何度聴いても、音の違いはわからない、聴きとれない。
聴きとれないから表現の領域が広がらない、だから……、と無限ループになってしまっている。
なぜ、そうなってしまうのか。
おそらく、そうするのが、いちばん楽だからだ。そして自分の未熟さを認めなくて済むからだ。
謙虚になってひたすら聴く、という態度を忘れてしまっていては、広がりは生れない。
いつまでたっても、同じところに立っていればいい。