Date: 8月 4th, 2011
Cate: 表現する
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音を表現するということ(続々続・聴く、ということ)

活字には幾つもの書体があって、
たとえばゴシック体と呼ばれるものの中にもさまざまな種類のゴシック体があり、それぞれに特徴がある。
けれどゴシック体のそれらの中からいくつかの書体を選びだして、たった1文字だけを表示して比較してみても、
その違いははっきりとしないことがある。
とくに画数の少ない文字であれば、たとえば「一」(漢字の1)などは特にそうだろう。
けれど文字数が増えてきて、あるまとまった文章になると、
ゴシック体の中でもそれらの違いが誰の目にもはっきりと浮び上ってくる。

つまり違いを認識するには、ある一定量が必要になり、
この量というものは、人によって異ってくるということ。
フォントをデザインしている専門家であれば、素人が同じ書体に見えているものでも、
はっきりとどの書体かを指摘できるように、である。

このことを認識せずに音を聴いている人がいる。
そういう人たちに共通しているのは、音は変らない、である。
ケーブルを変えても音は変化しない、もっと極端になるとアンプを変えても音なんては変りはしない、
という人までいることを、インターネットが浮き彫りにしてきている。

おそらくこういう人たちは音を細分化・分断化して音を比較しようとしているのではないだろうか。
こういう音の聴き方が正確なようにおもえても、実のところ、そうではない。
音の比較にもある時間の幅(つまり書体における文字数と同じ意味で)が必要である、ということ。

瀬川先生がステレオサウンド別冊 HIGH-TECHNIC SERIES-1の中に、こんな話を書かれている。
     *
もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
     *
私がここで言いたいことも、同じことである。
こんな音の聴き方をしているからこそ、音の違いを掴めなくなる、
というオーディオの罠にはまってしまい、科学的だ、とかいう屁理屈をつけて自分の正当化してしまう。

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