音を表現するということ(聴く、ということ)
聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と思っている。
人は、スピーカから出ている音のすべてを聴き取っているわけではないだろう。
人によって、敏感なところと鈍感なところがある。
いろんな音を聴き、音楽を聴き、音に真剣に向き合ってくることで聴きとれる音は増えてくる。
鈍いところは減ってくる。それでも、すべての音が聴きとれるわけではないはず。
うまく聴き取ることができない種類の音に対しては、自分の音として表現することは難しい。
出せないわけではない。オーディオは機器の組合せだから、それぞれの機器のもつポテンシャルのおかげで、
持主である聴き手がうまく聴き取ることのできない音も、いわば勝手に出してくれるところがある。
だから、音としては、出せる。でも出せているから、といって、表現している、とはいえないところがある。
表現する音をふやしていくためには、ひたすら聴く。聴いて、聴きとれる領域をひろげていくしかない。
そして、人が聴き取っている音は、ほんとうのところはわからない。
何度か、同じ音を聴く機会があれば、
この人は、こういうところには敏感で、鈍感なところはあのへんだな、とはなんとなく感じることはあっても、
それは私の勝手な推測でしかなくて、実のところ、わかりあえるものではない。
ただそれでも、音の空間認識に関しては、私の体験では人によってかなりの差がある、と感じている。
短期記録の場として知られている、脳の中にある海馬は、空間認知、空間記録にも関わっている、ときく。
この空間認知・記録が視覚的な情報に対してだけなのか、聴覚的な情報にも関わっているのか、
医学的なこと、専門的なことは知らないけれど、聴感にもふかく関わっているはず、という直感はある。
海馬は、新しく細胞がつくられるところだともきいている。
そして、川崎先生が以前いわれていた「ロドプシンへの直感」が、ここに関係している、そんな直感もある。