Archive for category ハイエンドオーディオ

Date: 11月 18th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その4)

FMアコースティックスに関しては、音に関することよりも、
音に関係のないウワサのほうが、私の耳には先に届いていた。

けれど、音に関してもしばらくすると入ってくるようになった。
聴いた人は、かなりいい音だ、と感じているようだ──、
そんな感じのことが伝わってくるようになった。

あるオーディオ評論家から直接聞いたことがある。
地方のオーディオ店に招かれて行く。

どうしようもない音で鳴っていることがある。
イベントの開始時間は迫っている。
そういう時、FMアコースティックスのアンプがあれば、替えてもらう。

たいてい、それだけでうまくいく、ということだった。

この話をきいたときも値上りを何度かしている時だったものの、
いまみたいな価格のずっと手前ではあった。

とにかく困った時のFMアコースティックス頼み、であり、
それにきっちりと応えてくれる。

これはなかなかすごいことである。

オーディオ評論家を招いているくらいだから、
FMアコースティックスの前にスピーカーに接がれていたアンプだって、
かなりいいモノだったはずだ。

そのオーディオ店のスタッフのセッティングが未熟だから、
オーディオ評論家が困る音しか鳴っていないのであって、
本来ならば、それでも十分な音が鳴ってくれるはず。

つまりそういう状況下でも、FMアコースティックスは応えてくれるわけだ。

Date: 11月 9th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その3)

FMアコースティックスのアンプを聴く機会は、そう簡単には訪れなかった。
それに、そのころはさほど熱心に聴いてみたい、と思っていたわけでもなかった。

それでもウワサは耳に入ってくる。
けっこういい音みたい、とか、かなりいい、とか。
そんなことがぽつぽつと入ってくるようになった。

と同時にFMアコースティックスの価格も値上りするようになっていった。
これにもウワサがついてきた。

創立者の娘が結婚するから値上げ、とか、
クルーザーを買ったから値上げ、とか。
常識的に、そんなことあるはずがない。

私も最初はそう受けとって笑いながらきいていたけれど、
どうも本当のようだ、という話も聞く。

本当なのかどうかは、わからない。
こんなウワサが流れてきて、実際に価格が高くなる。

それでも買う人がいるわけで、
これまで何度の値上げがなされてきたのか、数えたことはないし、数える気もない。

いえるのは、値下りすることは、まずない、ということと、
これから先もまた値上りする、ということ。
そして、それでも買う人がいる、ということだ。

Date: 11月 7th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その2)

FMアコースティックのFM600A、FM800Aと同時代、同価格帯のパワーアンプは、
マランツのP501M(565,000円)、GASのAMPZiLLA II(598,000円)、
スレッショルドの400A custom(598,000円)、マッキントッシュのMC2205(678,000円)、
フェイズリニアのD500SII(598,000円)、ラックスのM6000(650,000円)、
ルボックスのA740(538,000円)、スチューダーのA68(480,000円)などがあった。

この上の価格になるとSAEのMark 2600(755,000円)、
マッキントッシュのMC2300(858,000円)、テクニクスのSE-A1(1,000,000円)、
マークレビンソンのML2(1,600,000円)などもあった。

1978年当時のFMアコースティックのパワーアンプは、特に高かったわけでもない。

FMアコースティックの名前は、
47号以降、しばらくステレオサウンドにの誌面には登場しない。

私がFMアコースティックの名前を思い出したのは、ほぼ十年後である。
JDFのパワーアンプをレイオーディオが取り扱うようになって、
そういえばフランスとスイスの違いはあるけれど、
以前、FMアコースティックというメーカーがあったなぁ、と思い出したくらいである。

あったなぁ、と過去形で書いてしまったけれど、
47号の記事で読んだだけで、実物をみたこともなかったし、
私のなかでは、すでに消えてしまっているに近い状態だったからだ。

おもしろいもので、JDFによって思い出してしばらくしたころから、
FMアコースティックの名前を、また聞くようになる。

とはいっても、FMアコースティックが、日本にふたたび入ってくるようになったころには、
私はステレオサウンドから離れていたので、
ステレオサウンドの試聴室で聴いたわけではない。

Date: 11月 5th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その1)

FMアコースティックがステレオサウンドの誌面に初めて登場したのは、
1978年夏発売の47号の新製品紹介のページである。
井上先生と山中先生の二人で担当されていた時代である。

輸入元はシュリロトレーディングで、
パワーアンプが二機種、FM600A(500,00円)とFM800A(680,000円)である。

出力はFM600Aが150W+150W、FM800Aが30W+300Wで、
入力端子はXLR端子のみで、RCAによるアンバランス入力はないことからわかるように、
プロフェッショナル用のパワーアンプである。

山中先生は、
《一見アメリカのプロ用アンプとそっくりなコンストラクションで、ヨーロッパ製らしからぬふんいきである》
と書かれている。

モノクロの、それほど大きくなく不鮮明な写真でも、
アメリカ的なプロ用アンプという雰囲気は伝わってきていた。

スイスというイメージは、写真からはまったく感じられなかった。

音はどうか、というと、山中先生はこう評価されていた。
《きわめて充実感のある中域量感たっぷりな低音部はこのアンプ特有のキャラクターで、ユニークなアンプの出現といえよう》
高い評価といえばそうも読めるけれど、
47号の当時、私は高校生、スイス製なのに、アメリカ製のような武骨なパワーアンプを、
特に聴きたいとは思わなかった。

それに47号の特集はベストバイで、FMアコースティックのアンプは登場していない。
新製品だから──が、理由ではないはずだ。

47号の新製品紹介のページに登場していた他社製のアンプは、
いくつかベストバイに選ばれているのだから。

ちなみにFMアコースティックとしているのは、47号の表記はそうなっているからだ。

Date: 11月 27th, 2019
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その1)

昨年3月に「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」を書いた。
一年半ほどそのままにしていた。

このブログの目標である10,000本まであと100本を切っている。
このままだと10,000本を書き終っても、
「ハイエンドオーディオ考」を書き始めないな、と自分でも思い始めた。

それに今年のインターナショナルオーディオショウで、
あらためてFMアコースティックスの音を、惚れ惚れと聴いていた。

なので、やっと書く気になった次第だ。

インターナショナルオーディオショウで聴いたFMアコースティックスのパワーアンプは、
FM711MKIIIは、11,400,000円である。
一千万円を超えるアンプであるが、FMアコースティックスのフラッグシップモデルではない。
その上がある。

FMアコースティックスのアンプは、価格的にはハイエンドオーディオということになろう。
でも、アクシスのブースで、その音を聴いていて、
FMアコースティックスは果してハイエンドオーディオという括りに含まれるのか、と疑問に感じていた。

ハイエンドオーディオのはっきりとした定義は、どこかにあるのだろうか。

ハイスペックオーディオならば、ハイエンドオーディオよりもずっとわかりやすい。
ハイプライスオーディオもまたそうだ。

どちらも数字が表わしてくれるからだ。
数字だけではない、能書きもそうである。

FMアコースティックスのアンプは、確かにハイプライスだ。
けれど、アクシスのスタッフがショウで話していたように、
FM711にしてもMKIIIになっているが、
改良モデルが出る度に、FMアコースティックスにどんな変更が加えられたのか問い合せても、
まったく返答がない、ということ。

FMアコースティックスのアンプは、あまり能書きがない。
CMRRは優秀な特性ぐらいは伝えているが、
それにしても改良モデルの登場によって、どう向上しているかの情報もない。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考を書くにあたって

ハイエンドオーディオについては、いつか書こうと、
このブログを始めた時から考えている。

必ずしも否定的なことばかりを書こうとは考えていない。
ハイエンドオーディオの存在を否定する気もない。

それでも、ハイエンドオーディオについて書き始めると、
書きたいことは次々と出てくるような気もしている。

いつから書き始めるかも決めていない。
ただ書く前に読んでおきたい文章を、今日やっと思い出した。

黒田先生が書かれていたものだ。
かなり以前のステレオサウンドに書かれていたことは憶えていたが、
はっきりと、どの号なのかまでは思い出せていなかったし、
先延ばしにしていたから、探していたわけでもなかった。

その文章は、27号に載っている。
ラサール弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲についての文章である。
     *
 ひどく素朴ないい方になってしまうんだが、この弦楽四重奏団による演奏には、四人の奏者によるものとは考えにくいところがある。ダイナミックスが変化するとき、たとえばクレッシェンドしたり、ディミヌエンドしたりするとき、それは特にきわだつ。こういう演奏をきいていると、弦楽四重奏もついにここまできたかと思ってしまう。いや、ここまできたか──といういい方は、正しくない。これは明らかに、今までの4人の弦楽器奏者があわせてひくことによってなりたった弦楽四重奏とは、別のところから出発してのものと考えなければいけないようだ。
 すでにここでは、あわせることが目的たりえていない、そのすごさがある。だからこの演奏を、ありきたりの言葉で、もし、見事なアンサンブルなどといったとすると、この演奏がもっている力の、きわめて重要な部分を伝えないで終ることになる。たとえばそのようなことはありえないといわれようと、この演奏、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、あわせようとしてあわせた演奏ではないのようにきこえる。たとえばジュリアードカルテットの演奏が、あわせようとしてあわせたぎりぎりのところでのものだとすれば、このラサールカルテットのものは、あたかもまったく別のところから出発してその先に到達してしまったかのようるきこえる。
 その意味でこの演奏には、いささか信じがたいところがある。文字通りの意味で、これは戦慄的だ。それがいいかわるいかは、ひとまず聴者の判断にまかせるとして、この演奏がどういう演奏家、もう少し別の言葉でいっておかねばならないだろう。ここで、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、いずれの音も、かつてなかったほどに無機的にひびく。もし無機的という言葉が誤解をまねくとすれば、ぎりぎりのところまで追いこまれた後の音が、音としての主体性を強く主張している──といいなおしてもいい。しかもそれは、感覚の尋常ならざる鋭利さによってなされているかのようだ。
 その鋭さは、まったくいたさを感じさせないで骨までとどかんとするところまで切りこみうる刃物のそれに似る。当然のことに、雰囲気的なものが入りこむすきまは、まったくない。しかし、俗にいわれる冷徹さは、むしろ表だっていない。そこにこの演奏の、不思議さとすさまじさがあるように思える。
 ただしかし、そういう演奏の性格が、たとえば彼らがウェーベルンをひいた時のように、聴者に有無をいわせぬ力となりえているかというと、そうはいえないようだ。たしかにぼくはこの演奏をきいて、おどろき、心うごかされた。すごい演奏だと思った。このように演奏されてもなお、その音楽的魅力を誇示しえているということで、かならずしもぼくがきくにあたり得意な作品とはいえない(演奏家にだって、得手な作品もあれば不得手な作品があるんだから、聴者にだってそれがあって不思議はない)ドビュッシーとラヴェルのカルテットを、妙ないい方になるが、見なおした。
 これは、一種の、一糸まとわぬものの美だ。分析のメスのあとはない。演奏という行為にどうしてもついてまわる、ある種のおぼつかなさとあいまいさをきれいにとり去って、敢えていえば演奏のあとを残さぬ演奏になっている。しかし一般的な意味での名演奏とは、基本的なところで違っているようだ。
「音楽」における「音」が、これほど「もの」として存在を主張することは、やはり稀といっていい。しかしくりかえすが、数式の非情さは、ここにはない。ただ、「もの」と化した「音」によるドビュッシーやラヴェルの「音楽」を、聴者がいかように受けとるかということになると、これははなはだむずかしい。この、文字どおりのたぐいまれな演奏をきいて心うごかされながら、たとえば親しい友人に、いい演奏だからきいてごらんよというには、いささかの勇気が必要になる。ただものすごい演奏なのはまちがいないんだが。
 その意味で、このラサールの演奏は、一種の踏絵だ。これは演奏じゃないということは、そんなにむずかしくない。しかしそういったが最後、演奏という行為にのこされた可能性の、もっとも聴者に対して挑発的な部分を否定することになり、それはやはりどう考えても、つまらない。だからということではなく、この戦慄的な演奏に戦慄をおぼえたことに正直になって、ぼくはこのラサールの演奏にくらいつき、勉強したいと、今、むきになっているところだ。
     *
ラサール弦楽四重奏団による演奏を、ハイエンドオーディオ、
それもスピーカーが出す音におきかえて読んでみてほしい。

ハイエンドオーディオの世界が、
ここでのラサール弦楽四重奏団のレベルにあるとはいわないが、
もしかするとハイエンドオーディオがめざす世界は、ここに書かれているところ(もしくは近い)のか、
いくつかのキーワードが、こちらの心にひっかかってくる。