Archive for category ハイエンドオーディオ

Date: 6月 19th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その4)

五味先生は、
《プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった》
と書かれている。

この文章が載っている「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオなのだが、
私自身、プロ用機器を喜んで使っていた。

EMTのアナログプレーヤーに憧れていたのだから、
930stのトーレンス・ヴァージョンの101 Limitedが登場したときは、
後先考えずに「買う」と言ってしまった。

そして930stの上級機である927Dstも手にいれた。
つまり《しょせんは田舎者》であったわけだ。

五味先生も930stを使われていたし、スチューダーのC37も手に入れられている。

927DstやC37は家庭用としては大きすぎる機器でもある。
それでもいいわけめくが、まだ家庭に持ち込めるぎりぎりのサイズではあったと思う。

いまのハイエンドオーディオ機器の一部の機器のように、
これらのスピーカーやアンプ、アナログプレーヤーは、
いったいどれだけの広さの部屋を要求するのだろうか──、
そういいたくなるほど大きすぎるし、重すぎるモノが登場してきている。

これらのオーディオ機器の音は聴いていないし、
聴いたからといって、その音について否定的なことを書きたいわけではなく、
これらのオーディオ機器をポンと買えて、苦もなく設置できる環境に住んでいる人は、
料亭の宴会に出す料理を家庭で食べたいと思っている人なのだろうか。

どれぐらい前のことだろうか、
ある記事で、一億円を超えるマンションは即金で買うものだ、とあった。
会社員で高給取りで、住宅ローンを組めば一億ほどマンションは買えるであろう人がいても、
良心的な業者はすすめない、ともあった。

十年先、二十年先はどうなっているのか、誰にもわからないのだから理由だった。

いまのハイエンドオーディオ機器も同じように思える。
長期の分割払いで買うモノなのか。
即金で買える人が買うモノのように思えるし、
そういう人は、毎日家庭で、料亭の宴会に出す料理を食べたいのだろうか。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その3)

いまでは一千万円を超えるオーディオ機器が、もう珍しくなくなりつつある。
そんな高価なオーディオ機器には関心がない、とはいわない。

関心はある。
実力がきちんとあるメーカーが、持てる力をすべて注入しての、
その時点での最高の製品をつくりあげる。
そのためには一切の制約をなくして取り組む。

そうやって出来上ってきたモノは、そうとうに高価であってもいい。
高価なモノをつくろうとして出来上ってきたモノでなければ、
どれだけの価格になっても、いいと思うところはある。

そしてそうやって出来上ってきた製品の素晴らしさを、
次の世代の製品に活かしてくれれば、そして現実的な価格の製品に仕上げてくれれば、
それでいいという考えだからだ。

けれど、それらの非常に高価な製品を買える層の購買意欲をあおるために、
生産台数をごく少数に限定してしまっているのだとしたら、ひとこといいたくもなる。

そして、関連しておもっていることがある。
     *
 音を聴き分けるのは、嗅覚や味覚と似ている。あのとき松茸はうまかった、あれが本当の松茸の味だ——当人がどれほど言っても第三者にはわからない。ではどんな味かと訊かれても、当人とて説明のしようはない。とにかくうまかった、としか言えまい。しかし、そのうまさは当人には肝に銘じてわかっていることで、そういううまさを作り出すのが腕のいい板前で、同じ鮮魚を扱ってもベテランと駆け出しの調理士では、まるで味が違う。板前は松茸には絶対に包丁を入れない。指で裂く。豆はトロ火で気長に煮る。これは知恵だ。魚の鮮度、火熱度を測定して味は作れるものではない。

 ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
 見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった。
     *
五味先生の文章だ。
私は、この文章を13歳のときに読んでいる。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その2)

瀬川先生は、ステレオサウンド 56号、
トーレンスのリファレンスのところで、最後にこう書かれている。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
56号は1980年に出ている。
そのころの3,580,000円は、ほんとうに高価だった。

1980年は、3,000,000円を超えるオーディオ機器がいくつか登場した年ともいえる。
それまでは2,580,000円あたりが、価格の上限のように思えてただけに、
値段もだけれど、その威容もふくめて、すごいモノが登場したきた、と感じた。

リファレンスは、瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時に聴く機会があった。
ほんとうにすごい音だった。圧倒された。

高校生の時だった。もちろんすぐに買えるわけではないが、
いつかはリファレンス、と思ってもいた。

そんなふうに思えたのは、
新聞配達のアルバイトでしかお金を稼いだことのない高校生ゆえだったのかもしれないが、
リファレンスは買えるようになるまで、現役の製品でありつづけてくれる──、
そんなふうに勝手に信じ込んでいたからでもある。

それから四十数年。
現在のオーディオ機器の、それぞれのジャンルの最高価格の製品は、
いつかは──、なんて思いもしない。
《ため息も出ない、という状態》なのだが、
それ以上に、そういう非常に高価なオーディオ機器は、
生産台数が最初から決っている。限定のオーディオ機器である。

お金をいま以上に多く稼げるようになって、
買えるようになるくらいにまでなれたとして、
その日には、そのオーディオ機器はすでに製造中止になって久しい。

非常に高価で、しかもごく少数の生産。
そういうオーディオ機器は、それらをポンと買える人にとっては、
まさにトロフィーオーディオである。

でも、そこに、いつかは──、という夢は存在しない。

Date: 5月 24th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ, 名器

名器、その解釈(とハイエンド・オーディオ)

この項でも書いているように、
名器ということばも安っぽくなってしまっている。
特にオーディオにおいて、十数年前からそんな感じである。

少しでも話題になった製品をすぐに名器という人が増えてきている。
えっ、これが名器なの? そういいたくなる製品も名器と呼ばれるようになってきている。

それからインターネットの普及で、
オーディオマニア同士の交流は広がっていっているわけだが、
そうやって知りあった相手が使っている機器に対しても、
名器ですね、という人もいたりする。

この手の人にかかると、世の中には数え切れないほど多くの名器が、
オーディオにおいては存在することになる。

同じようにハイエンド・オーディオも、そんな使われ方をされはじめたように感じている。
ハイエンド・オーディオの明確な定義がないこともあろうが、
それにしても、これもハイエンド・オーディオと呼ぶの?、
そういいたくなる製品も、なぜかいまではハイエンド・オーディオと呼ばれてたりする。

ソーシャルメディアを眺めていると、
名器とハイエンド・オーディオは、上級機と同じ意味程度で使われていることがある。

どんなオーディオ機器であっても、誰かが使っているオーディオ機器である。
誰かが使っているオーディオ機器を批判したくない、という気持は理解できるが、
だからといって、名器とかハイエンド・オーディオとか、安易に持ちあげることもなかろう。

そういえば来月早々に発売予定のステレオサウンドの特集は、
「オーディオの殿堂」のはずである。

この特集が、いまの傾向に拍車をかけるのか、ブレーキをかけるのか。

Date: 5月 24th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その5)

その1)は昨年11月5日に書いている。
まだこのころは、FMアコースティックスは飛び抜けて高価なアンプだった──、
とつい過去形で書いてしまいたくなるほど、
同じくらい、さらにはもっと高価なアンプが続けて登場している。

そのためもあって、FMアコースティックスの高価さがさほど目立たなくなっている。

FMアコースティックスのアンプは、
最近の高価すぎるアンプのなかにあっては、
さほど外観にお金を掛けているという印象は薄い。

以前からの変らぬ外観で、当時の価格ならば、この外観もありかな、ぐらいに思えたけれど、
その後の値上げのすごさによって、もう少し外観をどうにかしないのか──、
そんなことを思うようにもなっていた。

けれど、ここ数ヵ月のハイエンドオーディオのアンプだけに限らず、
スピーカーシステムなどの外観を見いていると、
FMアコースティックスの外観が、逆に好ましく感じてしまう。

どこか己の筋肉美を誇張して見せようとしているかのような外観とは、
FMアコースティックスは無縁であるからだ。

とはいえFMアコースティックスの魅力は、やはり、その音である。
いろいろなアンプと比較するなど、じっくりと聴いたことは一度もないが、
聴くたびに、短い時間であっても、FMアコースティックスの音、
特に低音の素晴らしさには、いつも聴き惚れてしまう。

FMアコースティックスで聴いた後に、他のアンプで鳴らされる音を聴くと、
スピーカーは同じ、セッティングも同じ、変ったのはアンプだけなのに、
低音の表現力の豊かさが失われてしまった、と感じる。

山中先生がステレオサウンド 47号で、FM600A、FM800Aの音について、
《きわめて充実感のある中域量感たっぷりな低音部はこのアンプ特有のキャラクターで、ユニークなアンプの出現といえよう》
と評価されていることを引用しているが、
この音は、ずっと受け継がれているような気がするのだ。

Date: 11月 18th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その4)

FMアコースティックスに関しては、音に関することよりも、
音に関係のないウワサのほうが、私の耳には先に届いていた。

けれど、音に関してもしばらくすると入ってくるようになった。
聴いた人は、かなりいい音だ、と感じているようだ──、
そんな感じのことが伝わってくるようになった。

あるオーディオ評論家から直接聞いたことがある。
地方のオーディオ店に招かれて行く。

どうしようもない音で鳴っていることがある。
イベントの開始時間は迫っている。
そういう時、FMアコースティックスのアンプがあれば、替えてもらう。

たいてい、それだけでうまくいく、ということだった。

この話をきいたときも値上りを何度かしている時だったものの、
いまみたいな価格のずっと手前ではあった。

とにかく困った時のFMアコースティックス頼み、であり、
それにきっちりと応えてくれる。

これはなかなかすごいことである。

オーディオ評論家を招いているくらいだから、
FMアコースティックスの前にスピーカーに接がれていたアンプだって、
かなりいいモノだったはずだ。

そのオーディオ店のスタッフのセッティングが未熟だから、
オーディオ評論家が困る音しか鳴っていないのであって、
本来ならば、それでも十分な音が鳴ってくれるはず。

つまりそういう状況下でも、FMアコースティックスは応えてくれるわけだ。

Date: 11月 9th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その3)

FMアコースティックスのアンプを聴く機会は、そう簡単には訪れなかった。
それに、そのころはさほど熱心に聴いてみたい、と思っていたわけでもなかった。

それでもウワサは耳に入ってくる。
けっこういい音みたい、とか、かなりいい、とか。
そんなことがぽつぽつと入ってくるようになった。

と同時にFMアコースティックスの価格も値上りするようになっていった。
これにもウワサがついてきた。

創立者の娘が結婚するから値上げ、とか、
クルーザーを買ったから値上げ、とか。
常識的に、そんなことあるはずがない。

私も最初はそう受けとって笑いながらきいていたけれど、
どうも本当のようだ、という話も聞く。

本当なのかどうかは、わからない。
こんなウワサが流れてきて、実際に価格が高くなる。

それでも買う人がいるわけで、
これまで何度の値上げがなされてきたのか、数えたことはないし、数える気もない。

いえるのは、値下りすることは、まずない、ということと、
これから先もまた値上りする、ということ。
そして、それでも買う人がいる、ということだ。

Date: 11月 7th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その2)

FMアコースティックのFM600A、FM800Aと同時代、同価格帯のパワーアンプは、
マランツのP501M(565,000円)、GASのAMPZiLLA II(598,000円)、
スレッショルドの400A custom(598,000円)、マッキントッシュのMC2205(678,000円)、
フェイズリニアのD500SII(598,000円)、ラックスのM6000(650,000円)、
ルボックスのA740(538,000円)、スチューダーのA68(480,000円)などがあった。

この上の価格になるとSAEのMark 2600(755,000円)、
マッキントッシュのMC2300(858,000円)、テクニクスのSE-A1(1,000,000円)、
マークレビンソンのML2(1,600,000円)などもあった。

1978年当時のFMアコースティックのパワーアンプは、特に高かったわけでもない。

FMアコースティックの名前は、
47号以降、しばらくステレオサウンドにの誌面には登場しない。

私がFMアコースティックの名前を思い出したのは、ほぼ十年後である。
JDFのパワーアンプをレイオーディオが取り扱うようになって、
そういえばフランスとスイスの違いはあるけれど、
以前、FMアコースティックというメーカーがあったなぁ、と思い出したくらいである。

あったなぁ、と過去形で書いてしまったけれど、
47号の記事で読んだだけで、実物をみたこともなかったし、
私のなかでは、すでに消えてしまっているに近い状態だったからだ。

おもしろいもので、JDFによって思い出してしばらくしたころから、
FMアコースティックの名前を、また聞くようになる。

とはいっても、FMアコースティックが、日本にふたたび入ってくるようになったころには、
私はステレオサウンドから離れていたので、
ステレオサウンドの試聴室で聴いたわけではない。

Date: 11月 5th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その1)

FMアコースティックがステレオサウンドの誌面に初めて登場したのは、
1978年夏発売の47号の新製品紹介のページである。
井上先生と山中先生の二人で担当されていた時代である。

輸入元はシュリロトレーディングで、
パワーアンプが二機種、FM600A(500,00円)とFM800A(680,000円)である。

出力はFM600Aが150W+150W、FM800Aが30W+300Wで、
入力端子はXLR端子のみで、RCAによるアンバランス入力はないことからわかるように、
プロフェッショナル用のパワーアンプである。

山中先生は、
《一見アメリカのプロ用アンプとそっくりなコンストラクションで、ヨーロッパ製らしからぬふんいきである》
と書かれている。

モノクロの、それほど大きくなく不鮮明な写真でも、
アメリカ的なプロ用アンプという雰囲気は伝わってきていた。

スイスというイメージは、写真からはまったく感じられなかった。

音はどうか、というと、山中先生はこう評価されていた。
《きわめて充実感のある中域量感たっぷりな低音部はこのアンプ特有のキャラクターで、ユニークなアンプの出現といえよう》
高い評価といえばそうも読めるけれど、
47号の当時、私は高校生、スイス製なのに、アメリカ製のような武骨なパワーアンプを、
特に聴きたいとは思わなかった。

それに47号の特集はベストバイで、FMアコースティックのアンプは登場していない。
新製品だから──が、理由ではないはずだ。

47号の新製品紹介のページに登場していた他社製のアンプは、
いくつかベストバイに選ばれているのだから。

ちなみにFMアコースティックとしているのは、47号の表記はそうなっているからだ。

Date: 11月 27th, 2019
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その1)

昨年3月に「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」を書いた。
一年半ほどそのままにしていた。

このブログの目標である10,000本まであと100本を切っている。
このままだと10,000本を書き終っても、
「ハイエンドオーディオ考」を書き始めないな、と自分でも思い始めた。

それに今年のインターナショナルオーディオショウで、
あらためてFMアコースティックスの音を、惚れ惚れと聴いていた。

なので、やっと書く気になった次第だ。

インターナショナルオーディオショウで聴いたFMアコースティックスのパワーアンプは、
FM711MKIIIは、11,400,000円である。
一千万円を超えるアンプであるが、FMアコースティックスのフラッグシップモデルではない。
その上がある。

FMアコースティックスのアンプは、価格的にはハイエンドオーディオということになろう。
でも、アクシスのブースで、その音を聴いていて、
FMアコースティックスは果してハイエンドオーディオという括りに含まれるのか、と疑問に感じていた。

ハイエンドオーディオのはっきりとした定義は、どこかにあるのだろうか。

ハイスペックオーディオならば、ハイエンドオーディオよりもずっとわかりやすい。
ハイプライスオーディオもまたそうだ。

どちらも数字が表わしてくれるからだ。
数字だけではない、能書きもそうである。

FMアコースティックスのアンプは、確かにハイプライスだ。
けれど、アクシスのスタッフがショウで話していたように、
FM711にしてもMKIIIになっているが、
改良モデルが出る度に、FMアコースティックスにどんな変更が加えられたのか問い合せても、
まったく返答がない、ということ。

FMアコースティックスのアンプは、あまり能書きがない。
CMRRは優秀な特性ぐらいは伝えているが、
それにしても改良モデルの登場によって、どう向上しているかの情報もない。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考を書くにあたって

ハイエンドオーディオについては、いつか書こうと、
このブログを始めた時から考えている。

必ずしも否定的なことばかりを書こうとは考えていない。
ハイエンドオーディオの存在を否定する気もない。

それでも、ハイエンドオーディオについて書き始めると、
書きたいことは次々と出てくるような気もしている。

いつから書き始めるかも決めていない。
ただ書く前に読んでおきたい文章を、今日やっと思い出した。

黒田先生が書かれていたものだ。
かなり以前のステレオサウンドに書かれていたことは憶えていたが、
はっきりと、どの号なのかまでは思い出せていなかったし、
先延ばしにしていたから、探していたわけでもなかった。

その文章は、27号に載っている。
ラサール弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲についての文章である。
     *
 ひどく素朴ないい方になってしまうんだが、この弦楽四重奏団による演奏には、四人の奏者によるものとは考えにくいところがある。ダイナミックスが変化するとき、たとえばクレッシェンドしたり、ディミヌエンドしたりするとき、それは特にきわだつ。こういう演奏をきいていると、弦楽四重奏もついにここまできたかと思ってしまう。いや、ここまできたか──といういい方は、正しくない。これは明らかに、今までの4人の弦楽器奏者があわせてひくことによってなりたった弦楽四重奏とは、別のところから出発してのものと考えなければいけないようだ。
 すでにここでは、あわせることが目的たりえていない、そのすごさがある。だからこの演奏を、ありきたりの言葉で、もし、見事なアンサンブルなどといったとすると、この演奏がもっている力の、きわめて重要な部分を伝えないで終ることになる。たとえばそのようなことはありえないといわれようと、この演奏、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、あわせようとしてあわせた演奏ではないのようにきこえる。たとえばジュリアードカルテットの演奏が、あわせようとしてあわせたぎりぎりのところでのものだとすれば、このラサールカルテットのものは、あたかもまったく別のところから出発してその先に到達してしまったかのようるきこえる。
 その意味でこの演奏には、いささか信じがたいところがある。文字通りの意味で、これは戦慄的だ。それがいいかわるいかは、ひとまず聴者の判断にまかせるとして、この演奏がどういう演奏家、もう少し別の言葉でいっておかねばならないだろう。ここで、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、いずれの音も、かつてなかったほどに無機的にひびく。もし無機的という言葉が誤解をまねくとすれば、ぎりぎりのところまで追いこまれた後の音が、音としての主体性を強く主張している──といいなおしてもいい。しかもそれは、感覚の尋常ならざる鋭利さによってなされているかのようだ。
 その鋭さは、まったくいたさを感じさせないで骨までとどかんとするところまで切りこみうる刃物のそれに似る。当然のことに、雰囲気的なものが入りこむすきまは、まったくない。しかし、俗にいわれる冷徹さは、むしろ表だっていない。そこにこの演奏の、不思議さとすさまじさがあるように思える。
 ただしかし、そういう演奏の性格が、たとえば彼らがウェーベルンをひいた時のように、聴者に有無をいわせぬ力となりえているかというと、そうはいえないようだ。たしかにぼくはこの演奏をきいて、おどろき、心うごかされた。すごい演奏だと思った。このように演奏されてもなお、その音楽的魅力を誇示しえているということで、かならずしもぼくがきくにあたり得意な作品とはいえない(演奏家にだって、得手な作品もあれば不得手な作品があるんだから、聴者にだってそれがあって不思議はない)ドビュッシーとラヴェルのカルテットを、妙ないい方になるが、見なおした。
 これは、一種の、一糸まとわぬものの美だ。分析のメスのあとはない。演奏という行為にどうしてもついてまわる、ある種のおぼつかなさとあいまいさをきれいにとり去って、敢えていえば演奏のあとを残さぬ演奏になっている。しかし一般的な意味での名演奏とは、基本的なところで違っているようだ。
「音楽」における「音」が、これほど「もの」として存在を主張することは、やはり稀といっていい。しかしくりかえすが、数式の非情さは、ここにはない。ただ、「もの」と化した「音」によるドビュッシーやラヴェルの「音楽」を、聴者がいかように受けとるかということになると、これははなはだむずかしい。この、文字どおりのたぐいまれな演奏をきいて心うごかされながら、たとえば親しい友人に、いい演奏だからきいてごらんよというには、いささかの勇気が必要になる。ただものすごい演奏なのはまちがいないんだが。
 その意味で、このラサールの演奏は、一種の踏絵だ。これは演奏じゃないということは、そんなにむずかしくない。しかしそういったが最後、演奏という行為にのこされた可能性の、もっとも聴者に対して挑発的な部分を否定することになり、それはやはりどう考えても、つまらない。だからということではなく、この戦慄的な演奏に戦慄をおぼえたことに正直になって、ぼくはこのラサールの演奏にくらいつき、勉強したいと、今、むきになっているところだ。
     *
ラサール弦楽四重奏団による演奏を、ハイエンドオーディオ、
それもスピーカーが出す音におきかえて読んでみてほしい。

ハイエンドオーディオの世界が、
ここでのラサール弦楽四重奏団のレベルにあるとはいわないが、
もしかするとハイエンドオーディオがめざす世界は、ここに書かれているところ(もしくは近い)のか、
いくつかのキーワードが、こちらの心にひっかかってくる。