ハイエンドオーディオ考(その6)
(その5)を書いたあとで思い出した記事がある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
瀬川先生がタンノイのリビングストンにインタヴューされている。
リビングストンが、ガイ・R・ファウンテン氏のことを語っている。
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彼は家ではほんとうに音楽を愛した人で、クラシック、ライトミュージック、ライトオペラが好きだったようです。ロックにはあまり興味がなかったように思います。システムユニットとしてはイートンが二つ、ニッコーのレシーバー、それにティアックのカセットです。
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瀬川先生も含めて誰もが、
ファウンテン氏はオートグラフを使われていたと思っていたのではないだろうか。
私もそう思っていた。けれど違っていた。
イートンだった、25cm口径の同軸型ユニットをおさめたブックシェルフだったのだ。
リビングストンへのインタヴューは続く。
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これ(オートグラフではなくイートン)はファウンテン氏の人柄を示すよい例だと思うのですが、彼はステータスシンボル的なものはけっして愛さなかったんですね。そのかわり、自分が好きだと思ったものはとことん愛したわけで、そのためにある時には非常に豪華なヨットを手に入れたり、またある時はタンノイの最小のスピーカーをつかったりしました。つまり、気に入ったかどうかが問題なのであって、けっして高価なもの、上等そうにみえるものということは問題にしなかったようです。
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非常に豪華なヨットを手にいれるだけの財力をもち、
オートグラフをうみだした男が、自宅ではイートンで好きな音楽を聴いている。
気に入ったモノを自分のものとするだけであって、
高価だから、とか、周りに持っている人がいない、とか、そういった理由ではない。
ステイタスシンボルだからといって愛す男ではなかった。
非常に高価なハイエンドスピーカーをつくっているブランドのトップは、
やはり自社のフラッグシップモデル(いちばん高価なモデル)を使っているのか、
それとも違うのだろうか。
REPLY))
私の知るメーカーの人間は、彼の会社の最も安価なモデルを愛用している時期がありました。後で、これは非常に実感を持って理解できることとなりました。
というのは、ジャズ喫茶とサロンを隣接して開いていたころ、私が夢中になっていたのは小型のスピーカーだったのです。それはちょうど、ミニカーの立体駐車場を買ってもらったものの、急にイマジネーションを失ってしまった子供のようなものでした。
オートクチュールがプレタポルテに勝るとは限らないし、貧民の恋が貴族のラブストーリーに負けるとは限らない。話としてはよく聞く話ですが、実のところ、まったくその通りでした。
イートンについては、3、4日借りて使っていたことがあります。ラグジュアリーさと知性とオーセンティシティ、それらが絶妙にバランスした音は魅惑的でした。節度を伴った安堵感、脱力感の表し方に、他のスピーカーでは得られない独自のものを感じました。
イートンを使っていた友人がプリアンプにニッコーを使っていました。いい鳴り方でした。今思えば、ファウンテンのエピソードをシャレていたのだろうと思います。
戦後、我が国は国民教育から市民の時代になり、ソ連崩壊からイデオロギー1本化の流れの中で、個性と競争の時代が長く続いたと思います。科学と物質の時代が、上昇志向と執着の正当化を促し、バブル崩壊後も新自由主義のイデオロギーを支えていました。
映画バトルロワイヤル(2000年)は、新自由主義のサバイバリティと競争社会の病理を比喩した映画でしたが、大衆によって娯楽ファンタジーとして消費された結果、ファンタジー批判を生みました。
Windows95の登場はセンセーショナルでした。インターネットとマルチメディアによって評価経済社会は浸透し、論理展開や科学的な整合性に対する価値が急速に失われていきました。「ハリーポッターと賢者の石」「ロード・オブ・ザ・リング」が2001年、「パイレーツ・カリビアン」が2003年に公開され、ファンタジーの消費が拡大していきます。こうして、虚構の需要が膨らむ中で、同年、養老孟子の「バカの壁」が出版されます。
あのころ、我々はチェルノブイリを忘れ、もんじゅの火災事故隠ぺいも忘れ、競争主義をひたすら飲み込むことに溺れていました。そして、資本経済を続ける中で、わが国はついにフクシマをメルト・ダウンさせてしまいました。
YouTube(2006)とInstagram(2010)によって何が終わったでしょう。2013年、ロビン・シックとファレル・ウィリアムズの楽曲「ブラード・ラインズ」がスピーカー「ビーツ・ピル」のCMに使われ、ブルートゥース・スピーカーが加速度的に認知されました。
この楽曲は、女性から誘惑され、自制心を失う男を演じたものでしたが、製作者の意図とは無関係にミソジニーとSNS時代の優越主義に働きかけ、思いがけないヒットを生みだします。
インセルによる銃乱射事件が2014年、わが国では翌年にAKB握手会傷害事件、米インセルの反乱が2018年に起こります。こうしてミソジニーとルッキズムは若者の文化を支配するようになりました。
ジェニファーLスコットの「フランス人は10着しか服を持たない」が、書店にならんでいたのは2015年の頃でした。コンテンツと物質の氾濫が、競争主義の裏側でミニマリズムというカウンター・カルチャーをつくり始めていました。
かつて、ティラミスが流行し、企業戦士がリゲインを飲んで働いていたころ、オーディオ・メーカーのトップ・モデルとは、メーカーを代表する広告塔であり、その思想を反映したものだと認識されていたと思います。
ところが、環境破壊が進み、自由競争主義が末期的な症状を呈する中で、カウンター・カルチャーの中でコスモポリタン的思想がリバイバルし、競争と個性が重視される時代から、フラタニティ(共生・友愛)の時代へと変遷しはじめています。
そういった今日のパラダイム・シフトの中で、人々がオーディオ・メーカーのトップ・モデルに抱く感情というのは、随分と変わってきていると思うのです。
新自由主義の台頭とソ連崩壊は、中産階級という存在を殺しました。イノベーション・ドリームが人々を競争へと駆り立て、FAANG(Facebook, Amazon, Apple, Netflix, Google)が仮想的な管理社会を作り上げました。
マルチメディアはサイバー・スペースに無数のコミュニティーを作り出し、家族全員でテレビを見たり、ステレオや映画を鑑賞するという20世紀の家族の夢を崩壊させました。
肩をすくめるアトラスさながら、ハイエンド・オーディオは価格の高騰を続け、トヨタ・クラウンがステータス・シンボルの座から引きずり降ろされるころには、社会は別の歪みを生み出していました。
優越主義のマウンティング文化。そこに対するマスのルサンチマンが、大量の冷笑主義者とインセルを作り出し、アメリカ社会は大量のジャンキーと、二分化された社会の高すぎる“壁”を生みだしていきます。
哲学的な視点で見れば、競争主義のストア派と、ミニマリストたちのエピクロス派が、1対99で“拮抗”しているという状況と言ってもよいでしょう。
1976年のアメリカン・ニュー・シネマ「タクシー・ドライバー」は社会病理に冒され、異常を来した男の憤りを描いた作品でした。
それから40年、社会病理によって生み出された様々な問題はマス全体にまで広がっていきました。ジャンキー、性的倒錯、ロリータ・コムプレックス、インセル、ミソジニー、優越主義、サバイバリティ、プロフェッショナル信奉、機能不全家族――、それらに対するカウンター・カルチャーは、かつてヌーベル・バーグが反体制として権力に衝突した形ではなく、エピクロス派の信条を示す言葉「隠れて生きよ」という形によって表れてきているようです。つまり、心の平静を乱す政治や、世俗にかかわることを回避して、アタラクシアによる生活を過ごすという思想です。これがZ世代の言うスルー・スキルであり、この世代はストイックなストア派の考えではなく、エピクロス派のフラタニティ思想がイニシアチブを取っているように思われます。
かつて、レビンソンやボンジョルノのハイエンド・オーディオが思想として主張していたイデオロギーと、今日の多くのハイエンド・オーディオが内包している思想との間には、あまりにも懸隔があるように思います。
かつて、産業と科学によって貴族の時代が終わり、国民の時代へ、そして市民の時代へと変遷を遂げました。そして、市民の時代を経て富豪の時代へと進む中で、ハイエンド・オーディオもまた、国民のものから市民のものへ、そして、富豪のものへと移ってきているのではないでしょうか。