サイズ考(その35)
決して数多くの例を見てきているわけではないけれど、
それでも、なんとはなくであるが言えるのは、
バイワイヤリング対応のスピーカーシステムのシングルワイヤー使用時に、
トゥイーター側を選択する人は、比較的小口径ウーファーを、
ウーファー側を選択する人は、比較的大口径ウーファーを指向するのではないか、ということ。
必ずしも現用のスピーカーがそうでなくても、音を聴いたり話をしてみると、
そう感じることが、たまにある。
決して数多くの例を見てきているわけではないけれど、
それでも、なんとはなくであるが言えるのは、
バイワイヤリング対応のスピーカーシステムのシングルワイヤー使用時に、
トゥイーター側を選択する人は、比較的小口径ウーファーを、
ウーファー側を選択する人は、比較的大口径ウーファーを指向するのではないか、ということ。
必ずしも現用のスピーカーがそうでなくても、音を聴いたり話をしてみると、
そう感じることが、たまにある。
バイワイヤリング対応のスピーカーシステムをシングルワイヤーで鳴らす場合、
最終的には、比較試聴して、どういう結線にするかは、使う人の判断によるわけだが、
その判断するための試聴をするためには、まずどちらかのスピーカー端子に接ぐわけである。
このとき、ウーファー側の端子か、それともトゥイーター側の端子に接ぐのかは、
その人の音の聴き方が、やはり現われていると思う。
人それぞれ、それまでの経験から、どちらにするかは選ぶわけだろうから、
トゥイーター側に接いだほうがいいと判断している人は、ほぼ無意識のうちにトゥイーター側の端子を選び、
間違ってもウーファー側は選ばないはず。
もっとも最近では、プラス側はウーファー、マイナス側はトゥイーター(もしくはその逆)という、
変則的な接続も見かけるようになった。
井上先生は前出したようにウーファー側に、
私のまわりでは早瀬さんもそうだし、友人のAさんもそうだ。もちろん私もウーファー側を優先する。
低音再生といえば井上先生、というイメージが、どこかにある。
たぶんにステレオサウンド 48号に掲載された、
岩竹義人氏との「超低音再生のための3D方式実験リポート」の印象が強かったためであるのだが、
インフィニティのIRSのウーファータワー、
BOSEから出たAWCS1キャノン・サブウーファーシステムを調整されているときの井上先生の表情を見ていると、
いつもの試聴時とはすこし違う表情をれれて、楽しんでおられることが伝わってくる。
よく言われていたのは、低音は、もっとも重要なベーシックトーンだから、
オーディオにおける音楽再生では、最優先に考えなければならない、ということだ。
だからバイワイヤリング対応のスピーカーシステムをシングルワイヤーで鳴らす場合、
ウーファー側の端子にスピーカーケーブルを接ぐのか、トゥイーター、スコーカー側の端子にするのかは、
必ずウーファー側だった。
井上先生の指示で、デジタル信号をアンプへ直接接続したのは、いまから20数年以上前のこと。
タイムロードのイベントよりも、ほぼ20年前のこと。
よくこんなことを試されていたな、と感心するばかりである。
デジタル信号のノイズに埋もれながらも音楽が聴こえてくることに驚きすぎて、
なぜ、こんなことを思いつかれたのかを、残念ながら聞いていなかった。
井上先生はプライヴェートなオーディオを公開されていない。
ステレオサウンド 38号が例外的なことであって、
雑談のなかで、手に入れられてたオーディオ機器について、ぽつぽつと語られることはあっても、
プライヴェートなオーディオの空間で、いったいどういう機器を使われて、どういうことを試されていたのか、
いまとなっては、どうやっても知ることはできない。
タイムロードのイベントでは、PCM信号だけではなく、
DSD信号もアンプのライン入力につないでの音だしもあった。
DSD信号の成り立ちからして、おおよその予測はしていたものの、出てきた音には、また驚いた。
D/Aコンバーターを通していないにもかかわらず、ほとんど問題なく音楽が再生されている。
基本的にはDSD信号は、ハイカットのアナログフィルターを通すだけでもいいわけで、
それではなぜD/Aコンバーターが必要になるかというと、ジッターの問題に対して、である。
デジタル信号といっても、PCM信号とDSD信号においては、ひとくくりできないほどの違いがある。
CDプレーヤーに関することで思い出すのは、セパレート型CDプレーヤーが登場して半年くらい経ったころだろうか、
試聴中の、井上先生の指示は、耳を疑うもので、思わず、何をするのか聞きかえしたことがある。
CDトランスポートのデジタル信号を、そのままアンプのライン入力に接続してみろ、というものだった。
デジタル信号をアンプにつないで、CDを再生したら、スピーカーをこわすほどの、
ものすごいノイズが出てくるものだと、試しもせずに思っていた。
試された方もおられるだろうし、5年ほど前の、タイムロードの試聴室でのイベントでも行われているから、
どういう結果になるかは、ご存じの方もおられるだろう。
ノイズだけが聴こえるのではなく、レベルは低いものの、意外とはっきりと、
そのCDに収録されている音楽が聴こえてくる。
S/PDIFにはデジタル信号だけが流れているもの、
デジタル信号とアナログ信号はまったくの別ものである、という思い込みがくずれてしまった。
手塚治虫自身のルーツをさぐる作品のタイトルである「陽だまりの樹」は、
徳川幕府のことを比喩する言葉でもある。
「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。
カザルスの、生命力が漲るベートーヴェンの交響曲第七番を聴いたばかりのころは、
どうしても耳は、強い緊張感の持続、燃えあがるような表現に傾きがちだったが、
なんどとなく聴いていくうちに、それだけでなく、カザルスの音楽に対する誠実さに気がついていく。
もうどこで見たのかも忘れてしまったが、カザルスとクララ・ハスキルが写っていた写真があった。
このふたりの演奏家に共通しているのは、音楽に対する誠実な態度であり、
その写真は、つよく、その誠実を伝えてくれていた。
パブロ・カザルスは、1876年12月29日、
クララ・ハスキルは、1898年1月7日生れで、ふたりとも山羊座であることは、単なる偶然とは思えない。
音楽に対して誠実であることの重要さを、ふたりの演奏を聴いていくごとに実感していくと、
オーディオ機器においても、とくに音の入口については、
誠実であることはかけがえのないことだと、理解できるようになっていく。
これが、カザルスのベートーヴェンを聴きつづけてきて得たもののひとつである。
トーレンスのTD226で、もうひとつ気になっていたのは、トーンアームを2本装着できるサイズが、
私にとっては大きすぎたこと。
ロングアームが使える1本アーム仕様のものが出てくれたら、と思っていたら、
わりとすぐにTD127が発表になった。
そんなに高価なものは購入できないし、TD127を目標に貯金に励もう、と考えていたら、
「TD226に1本だけアームをつけて、反対側のアームベースには、
重量バランスをとるためにちょっとしたウェイトを乗せたほうが、
TD127よりも安定感のある音がして、いいんだよ」とさらりと言われた。
井上先生の、この一言で、ターンテーブル選びは振出しにもどった。
TD226のフローティングベースは、当然1本アームのTD127よりも大きく、
重量もその分増しているため、
TD226を1本アームで使うのは、使わないトーンアームの共振による影響をなくすためである。
それからもう一言あった。
「TD226もTD127も、螢光灯は、ノイズの発生源だから消しとくんだぞ」
TD226もTD127もレコード盤面を照らすための螢光灯が、ターンテーブルの奥にある。
この螢光灯を灯けると、聴感上のSN比は、たしかに悪くなる。
いま豚インフルエンザが流行っている。
誰しも病気にはなりたくない。けれど、マスク姿の関係者の姿をみかけた。
いったい、どういう感覚なのだろうか、と思う。
勤務時間中、机の前にすわり、来客のない、そんな仕事場であれば、
感染したくないからといって、マスクをしたままでいても許されようが、
マスク姿のまま、来場者の前でしゃべり、そのまま接客するというのを、
本人は当たり前の権利と思っているのか、
そのブースの責任者も、それが当り前とし、なんとも思っていないのだろうか。
とにかくマスクをしていた本人には、あきらかに「事務的」な雰囲気がまとわりついていた。
彼は、豚インフルエンザには感染しないだろうが、
「事務的」な雰囲気には感染しているし、彼自身が感染源にもなっていくだろう。
会場にいたのは最終日の午後だけだから、このときだけの印象でいえば、
なんとなく来ている人が、例年よりも少ないように感じた。
実際、ブースにはいっても、講演以外では、人がぽつんぽつんというところもあり、
なんとなくさびしい感じを受けていた。
3日間の来場者数は、もしかすると例年とそれほど変わっていないのかもしれない。
そうだとしたら、そんな印象をうけるのは、
来ている人たちが、以前よりも会場にいる時間が短くなっているためではないかという気もする。
ここ数年、なんとなく、ぼんやりとではあるが、感じられるのは、
一部のブースの、一部の人たちから「事務的」な雰囲気が出ていることだ。
こういうものに関しては、人は敏感である。はっきりと意識していなくても、感じとってしまう。
それゆえ会場での滞在時間が短くなりつつあるのかもしれない。
もっとも入場者数は調べていても、滞在時間までとなると大変だろうから、はっきりしたことはいえない。
それでも、この「事務的」な雰囲気が、今年、はっきりと、ひとつ顕れていた。
2008年のショウ雑感がまだ途中だけれど、
今年のインターナショナルオーディオショウで、意外だったのは、
アル・ディメオラ、パコ・デ・ルシア、ジョン・マクラフリンの「スーパー・ギター・トリオ」が、
2つのブースで鳴っていたこと。
初日は仕事の都合で、有楽町着が8時すぎ、ショウは見れずに、
友人たちと合流して、あれこれ楽しい雑談。
2日目は私用があり、行けずじまい。
で、最終日、今日の午後、なんとか各ブースをまわってきた。
会場にいた時間は5時間ほどにもかかわらず、
2つのブースで「スーパー・ギター・トリオ」がかかっていたのに出会したのだから、すこし驚きである。
ここ7年くらいは毎年、ショウに足を運んでいるが、
「スーパー・ギター・トリオ」が鳴っていたのは、たまたまかもしれないが、なかった。
なぜ、今年に限って、鳴っていたのだろうか。
しかも昨日、「スーパー・ギター・トリオ」を聴いたばかりだったし、
黒田先生の項でもふれているだけに、
この偶然には、なにかしら意味があるのかなぁ、ともちょっとだけ思う。
人が受け取る情報の量は、確実に増している、といわれている。
増えているといえば、増えているといえなくもない今日だが、
黒田先生の「情報もどき」という言葉を思い出すと、
情報の量のなかには、情報・量と情報もどき・量があるわけで、
前者の量が増えているかどうかは、はなはだあやしいものかもしれぬ。
となると、ふたつの量をまとめたものは、情報量よりもデータ量といったところか。
データ(data)にも情報の意味が含まれているのはわかっているが、
情報は、information のほうがしっくりくる。
こんなことを考えていたら、川崎先生の「デジタルなパサージュ」のなかに、
「情報内容=データ性より、むしろ情報形式=メディア性が、
現代では情報の質に対して意味をもつことになることがある」
と書かれてあるのを、思い出した。
データ量とデータ性、データ性とメディア性──、
あたまのなかでくり返していたら、デジタル配信とパッケージメディアの違いは、
マスタリングの違いにおよぶように思えてきた。
手塚治虫の作品を、ある量読んだことのある方ならば、
手塚作品の特長のひとつとして、モブシーンがわりと使われていることに気がつかれているだろうし、
その素晴らしさ、面白さにも気づかれていると思う。
それまでコマ割りという時間軸によって流れてきていたストーリーが、
大きなコマ、ときに2ページ見開きを使ったモブシーンによって、時間軸をとめてしまう。
そのモブシーンは、じつに丁寧に描かれているし、手塚治虫自身が、嬉々として描いているようにも感じられる。
時間軸はとまるが、物語全体を俯瞰するときもあり、手塚作品のモブシーンは、さっと読み飛ばすわけにはいかない。
このモブシーンが、「ルードウィヒ・B」における音楽そのものの表現手法へと変化している、と思っている。
3012-Rを手に入れたものの、組み合わせるターンテーブルはない。
しばらく、手持ちのオーディオ機器は、トーンアームだけ、という、
他に、こんなヤツはいないであろう、という状況が続いた。
ステレオサウンドで働くようになるまで続いていたから、
はじめての編集後記に、そのことを書いている。
瀬川先生は、3012-Rの試聴は、マイクロのSX8000で行われている。
たしかに音はいいだろう、でも3012-Rの美しさにしっとり似合うかというと、武骨すぎる。
それに高価すぎた。
3012-Rはロングアームだけに対象となるターンテーブルは、どうしても限られてしまう。
そのころ、トーレンスからロングアームが搭載可能なTD226が出ていた。
じつはこれが第一候補だった。
ただ、実物を見ると、木目の、赤みを帯びた仕上げが個人的に受け入れられなかったのと、
3012-Rの美しさが映えるかというと、無難という感じにとどまる。
それでもサウンドコニサーの表紙は、TD226に、3012-R Goldとの組合せ。
金メッキが施された3012-Rだと、TD226の仕上げも気にならない。
とはいうものの、私がもっているのは通常の3012-Rだから、TD226は、私にとって、つねに次点候補だった。