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Date: 2月 19th, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その9)

瀬川先生の4ウェイ構想は、
各帯域を受け持つスピーカーユニットをできるだけピストニックモーションの範囲内で使いたいがため、
たいてい、こう受けとめられている。

それは誤解とまではいえないけれど、
瀬川先生の4ウェイ構想は、ピストニックモーションと同じくらい、指向特性を重要視しての結果であることが、
意外に見落されている。

私は、むしろ指向特性の方をより重視されていると受けとっている。

私が読んだ瀬川先生の4ウェイ構想は、
ステレオサウンド別冊のHIGH-TECHNIC SERIES-1に掲載されてたもので、
そこでは指向特性については、それほど触れられていない。
私も、最初読んだときは、ピストニックモーションの追求しての構想だと受けとっていたし、
その後、数年間はそう思い続けてきた。

けれど、瀬川先生の書かれたものを広く読んでいくと、
そのなかでも瀬川先生のリスニングルームの環境について書かれたものを読んでいくうちに、
スピーカーの指向特性をひじょうに重要視されていることがわかってきた。

Date: 2月 18th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その9)

境界線がどこにあるのか、いいかえれば、それぞれのオーディオ機器の領域はどこまでなのかについて論じるときに、
音の入口側(始点)から考えていくべきなのか、それとも出口(終点)側から、なのか。

そのどちらからでもなく、あえてオーディオ系の中点から考えてみる手がある。
オーディオの系における中点は、やはりコントロールアンプである。

そのコントロールアンプ(中点)の領域はどこまでなのか、
コントロールアンプに接続される他のオーディオ機器との境界線をどうとらえるか。

結論を先に書いてしまえば、
コントロールアンプに接がるケーブルはすべて、コントロールアンプの領域に含まれる、と私は考える。

CDプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーシステム、という構成ならば、
CDプレーヤーの出力端子から、パワーアンプの入力端子まで、となる。
CDプレーヤーとコントロールアンプを結ぶケーブル、
コントロールアンプとパワーアンプを結ぶケーブルもコントロールアンプの領域とする。

これだけは、つよく言っておく。
コントロールアンプの領域をはっきりさせずに、コントロールアンプ像について語ることはできないはず。

Date: 2月 17th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

オーディオにおけるジャーナリズム(その11・余談)

この項の(その11)で、わかりやすさについて書いた。

文章において、わかりやすさは必ずしも善ではない。
これはスピーカーの音についても、言える。

他者からの「承認」がえやすい音のスピーカーがある。
これも、いわば「わかりやすい」音のスピーカーのなかに含まれることもある。

この場合も、わかりやすい音は、必ずしも善ではない。

聴き手を育てていくうえでの、ひとつのきっかけにならないからだ。

優れたスピーカーとは何か、と問われたときに、
聴き手を育てていく、ひとつの要素となるモノ、と私は答える。

Date: 2月 16th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・聴く、ということ)

聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と書いた。

最初から多くを、人は聴きとれるわけではない。
そこで、どういう態度をとるか。

たとえばケーブルの音の違いなんて、そんなものはない、と頭から決めつけてしまっている人たちがいる。
あれこれ屁理屈をつけては、声高にヒステリックに、ケーブルが音が変る、なんていうのはオカルトだ、と。

ケーブルの違いによる音の差は、ときには微細なものであったりする。
聴きとれるものがまだ多くないときに出していた音は、そういう違いに対して感度が低かったりもする。
それを、最初は聴きとれなかったとして、なにも恥じることはない。

恥じるべきは、その後の態度である。
音の違いを聴きとれなかった、だからケーブルによって音が変るなんて、ありえない、
そんなことはいう奴らは、みんなオカルトだ、と、勝手に決めつけて、
自分の耳の悪さだけでなく、傲慢さまで棚上げしてしまう。
そして、自分を正当化したいだけの、中途半端なオーディオの知識まがいを、断片的にかき集めて、
御本人は、理論武装した、と悦に入っておられる。

そうなってしまうと、鶏卵前後論争ではないけれど、
聴きとれなかった、だから自分の音として、その違いを表現できない、
表現できないからいつまでも経っても、何度聴いても、音の違いはわからない、聴きとれない。
聴きとれないから表現の領域が広がらない、だから……、と無限ループになってしまっている。

なぜ、そうなってしまうのか。
おそらく、そうするのが、いちばん楽だからだ。そして自分の未熟さを認めなくて済むからだ。

謙虚になってひたすら聴く、という態度を忘れてしまっていては、広がりは生れない。
いつまでたっても、同じところに立っていればいい。

Date: 2月 15th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その8)

つまりスピーカーシステムの入力端子まではパワーアンプの領域となり、
パワーアンプとスピーカーシステムの境界線は、ここにあるといえるわけだ。

コントロールアンプに関しても同じで、パワーアンプの入力端子まで、
つまりコントロールアンプ・パワーアンプ間の接続ケーブルを含めてコントロールアンプの領域であり、
コントロールアンプとパワーアンプの境界線についても同じだ。

CDプレーヤーに関しても、アナログプレーヤーに関しても同じだ。

今度はスピーカーとは反対側、つまり音の入口側から見た場合は、
そこに接がるものが負荷となるわけだから、
例えばカートリッジに関しては、その出力端子に接続されているものすべて負荷となる。
つまりシェルリード線、トーンアームのパイプ内の配線、トーンアームの出力ケーブル、
そしてMC型カートリッジならばヘッドアンプか昇圧トランスとなる。

ケーブルも負荷となるからこそ、MC型カートリッジには低抵抗のケーブル、
MM型カートリッジには低容量ケーブルが用意されてきたわけだ。

スピーカー側から見た場合とは反対に、ケーブルは、次に接がる機器(負荷)側の領域となる。
CDプレーヤーにとっての負荷は、コントロールアンプへの接続ケーブルを含めて、ということ。
コントロールアンプにとっては、ケーブルを含めてパワーアンプが負荷となり、
パワーアンプにとっては、スピーカーケーブルを含めてスピーカーシステムが負荷となる。

ようするに境界線はそれぞれのオーディオ機器の出力端子のところにある、ということになる。

音の出口となるスピーカー側から見た考えかたと、音の入口から見た考えかたでは、境界線の位置が変ってくる。
では、どちらが正しいのか、実は私のなかではまだ結論は出ていない。
ただ言えるのは、音の入口から見た場合には、ケーブルはその負荷となる機器の領域に属することになり、
音の出口から見た場合には、信号源となるオーディオ機器の領域に属する、ということである。

つまりケーブルの両端に、境界線が存在するわけではない。

そして、この境界線は、コントロールアンプを考えていくうえで、さらに重要になってくる。

Date: 2月 14th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・プログラムソースについて)

1948年に、アメリカ・コロムビアがマイクログルーヴ化したディスク、つまりLPを発表したとき、
マスコミに配布した写真を、レコードの歴史に多少なりとも関心の或る方なら、
どこかでご覧になったことがあると思う。

SPが堆くつまれた山(おそらく2mはゆうに越えている高さ)のとなりに、男性がひとり立っている。
彼は20枚くらいだろうか、LPを抱えている。

SPの山が、そっくり手に持てる量にまでコンパクト化された、ということだ。

SPもLPも、形としてはどちらも円盤であることに変りはないが、その姿は変ったいえよう。
そしてCDの登場。CDも円盤という形は同じで、Compact Discの名のとおり、
LPをさらにコンパクト化した。漆黒の円盤は虹色に時として輝く銀色の円盤へと、姿を変えた。

いまの光ディスク技術からすると、16ビット、44.1kHzのCDの規格であるならば、もっとコンパクトにできる。
円盤というモノである以上、やたら小さくしたら取扱い面での不都合が出てくるから、
円盤という形をとる以上、小さくなることは無く、DVDやSACDの登場にみられるように、
大容量化へと進んでいった。

SPからLP、LPからCDへの姿の変化(コンパクト化)からいえば、
円盤という姿そのものをなくす方向に進むのは、当然のことと、私は思っている。

プログラムソースの姿と形、
プログラムソースの変化・進化・純化、と考えていったとき、
純粋なかたちとしてのプログラムソースが、見えてくる、はずだ。

Date: 2月 14th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その7)

まずスピーカーから考えてみる。

スピーカーにとっての駆動源(信号源)はパワーアンプであり、
パワーアンプとスピーカーシステムのあいだにはスピーカーケーブルがある。
この場合、スピーカーケーブルは、パワーアンプ(信号源)に属するのか、
それともスピーカー側に属するもの、どちらなのだろうか。

ケーブルをアクセサリーとはみなさずに、アンプやスピーカーと同等のコンポーネントとみなしている人にとっては、
スピーカーケーブルは、どちら側に属するというものではなく、
パワーアンプとスピーカーシステムのあいだに存在するコンポーネント、ということになろう。

だがスピーカーシステムを細かくみていこう。

スピーカーシステムを構成する部品の中で、最終的に電気信号を音に変換するのはスピーカーユニットである。
このスピーカーユニットと信号源(パワーアンプ)との間には、
スピーカーケーブル、スピーカーシステム内のケーブル、ネットワーク、
そしてネットワークからユニットまでのケーブルが存在する。

スピーカーユニットからみれば、信号源はパワーアンプだけでなく、ネットワークも含まれることになる。
つまりパワーアンプ、スピーカーケーブル、スピーカーシステム内のケーブル、ネットワークまで含めてのものが、
スピーカーユニットからみた信号・駆動源である。

この考えかたに立てば、スピーカーシステムにとっての信号・駆動源は、
スピーカーケーブルを含めてのパワーアンプとなる。

Date: 2月 13th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(プログラムソースについて)

この項の(その28)に、
この「純化」は、「切り離す」ことで生れてくるもののはず、と書いた。

いまプログラムソースは、パッケージメディアという形から切り離されようとしている。
なんらかの「純化」がきっと起ると確信している。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その13)

ここで、また、こんな反論が来そうだ。

グールドのゴールドベルグ変奏曲がアップライトのピアノを弾いているふうに聴こえたのは、
それは、そのスピーカーが、それまでのスピーカーが出し得なかった情報まで音にすること、
そしてそれまでのスピーカーが附加してきた余分な音を徹底的に取り除いた結果としての、
録音の不備・未熟さが、はっきりとあらわれてきたのだろう、と。

ミサ・クリオージャにしても、他のスピーカーでは鳴らせなかった領域まで踏み込んだことによる結果であろう、と。

ヘブラーのピアノにしても、それほどたいしたレベルではなくて、
いままで録音の古さによって覆い隠されてきたものが、はっきりと音に出た結果であり、
日本のとある歌手の歌の下手さかげんについても、まったく同様だ、と。

スピーカーは、たしかに進歩してきている。
進歩してきているところもあれば、そうではないところも多々あるけれど、
それでも全体としては、進歩してきている、といっていい。

スピーカーの進歩によって、余分な音が減り、情報量が増え、
レコード側の、そんな微妙な・曖昧なところがはっきり描写され、
あばたがあばたとしてはっきり聴こえるようになった結果であり、
それをスピーカー側に責任・問題があるとするのはおかしい、という考え方もできる。

音が良くなっただけでなく、演奏の良否まではっきりとわかるようになった、と受けとめる人もいるかもしれない。
そして、そういったスピーカーの音を、新しい、と感じている人がいるように思えてならない。

ほんとうに、グールドのゴールドベルグ変奏曲をアップライトピアノで聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で、
ヘブラーのピアノのおさらい会のレベルの聴かせるスピーカーは、「新しい」のだろうか。

じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その12)

スピーカーは、その原理そのものに革新的な進化はないものの、
物理特性的には、確実に進歩してきている。

測定に正弦波だけでなく、インパルス波が導入され、コンピューターによる解析の導入・進歩によって、
周波数特性も、振幅特性だけでなく位相特性においてもあきらかに改善されてきている。
その他の項目についても同様だ。

ステレオサウンド 54号がでたのは1980年。もう30年以上も前のことだ。
この54号でも、座談会で、スピーカーの物理特性が良くなってきたことが語られている。
確実に、その意味での完成度は高くなっている、といっていいのだろうか……。

それとも大きな欠点は、ほぼなくなりつつある、といったほうがより的確だろうか。

それでも「音楽の響かせ方、歌わせ方」にあきからに問題のある(と私には感じられる)スピーカーは、
やはり存在する。しかもこれは物理特性とは関係なく存在している、とともに、価格とも関係なく存在している。

ひじょうに高価なスピーカーシステムの中に、
どう聴いても「音楽の響かせ方、歌わせ方」がおかしいんじゃないか、と思わせるモノがある。
しかも、そういうスピーカーシステムが、ステレオサウンドで受賞していたりする。

すると、お前の耳、もしくは感性がどこかおかしいのだろう、と言われるだろう。

仮にそうだとしても、この項の(その1)や、「AAとGGに通底するもの」の(その6)に書いた例は、
決して譲ることのできない、音楽がひどく変質した実例だ。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その11)

ステレオサウンド 54号のころは、まだCDは登場してなくて、プログラムソースはアナログディスク。
プレーヤーシステム、カートリッジ、コントロールアンプ、パワーアンプ、それにそれぞれの接続ケーブル、
こここまではまったく同一条件で鳴らしても、スピーカーシステムだけが変っただけで、
ヘブラーのピアノが、優美に歌いもすれば、おさらい会レベルにまでおちてしまう鳴り方をする。

セッティングによってスピーカーの鳴り方は、ときには大きく左右される。
とはいうものの、セッティングだけの要因によって、ヘブラーのピアノが、ここまで変るわけではない。
あきらかにスピーカーシステムによって、ヘブラーのピアノの歌い方も、
日本のとあるポップス歌手の歌い方も、大きく変ってしまう。

なぜ、こうも変質してしまうのだろうか。

菅野先生が語られていることで、
「バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前、というか以外というか」に、
その鍵がある。

なにかスピーカーシステムとしての物理特性に、大きな問題点をあるから、
そういう変質が発生する、とはいえない。
むしろ周波数特性も広く、ほぼフラットといってもいい、歪率も低い値で、指向特性も申し分ない。
とにかく物理特性的にはなんら欠陥らしきものは見当たらないスピーカーシステムであっても、
ヘブラーのピアノを、ときに大きく変質させてしまうものがあらわれる。

ここが、ひじょうにやっかいなところだ。

Date: 2月 11th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その10)

音楽性、そして欠陥スピーカーとはいったいどういうものなのかについて考える上で、
いいヒントとなる話を菅野先生が、ステレオサウンド 54号の座談会の中で語られている。

この号の特集は「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」で、
瀬川先生、黒田先生と試聴のあとに、総論といくつかのスピーカーについて話し合われている。
     *
特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
これに関連する話を1年ほど前に聞いた。
その話をしてくれた人は、日本のポップス歌手を、歌唱力が全くない、はっきりいって下手だ、と。
かなり強い口調で、なぜ、あの歌手が、歌が巧いといわれるのか理解できない、とも。

その歌手の歌を、私はきちんと聴いたことがない。
テレビもラジオも持っていないし、当該歌手のCDも持っていないからだが、
たまに断片だけを耳にする、その歌手の歌を、その人が力説するほどひどい、とは思わない。

少なくとも、歌がほんとうに好きなんだな、とは感じていた。
もっともCDを買ってきて、きちんと聴くとどう、そのへんの印象が変るかはわからないが、
少なくとも、そこまでひどくは思わないだろう。

ヘブラーと、この歌手の話は、スピーカーによって、
「音楽の響かせ方、歌わせ方」に根本的な違いがあるから、だと思う。

Date: 2月 10th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その5)

「ブッダのことば」(岩波文庫)のなかに、
「人が生れたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである」
とある。

「言」という字は、
辞典にあるように、川崎先生のブログを読まれた方ならすでにご存知のように、
辛(刃物)+口という形象である。

Date: 2月 10th, 2011
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その4)

批評と評論の違いは、「論」のいう字があるかないかにあり、
「論」という漢字に「言」がついているところに、はっきりとある。

評論には、「言」がふたつある。

Date: 2月 9th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(番外・その10)

セパレートアンプを選ぶ時、コントロールアンプもパワーアンプも、同じブランドで揃えたい、
揃えた方が結果としての音もいいし、もともと組み合わせて使うことを前提につくられているものだから、
あえて他社のアンプとのあれこれ組合せを試みるのは、時間もお金も無駄、という意見もある。

以前は、コントロールアンプを得意とするメーカー、
パワーアンプを得意をするメーカーといったことが言われていた。

そのころからすると、いまの名の通ったアンプ・メーカーには、あまりそういうことはない。
たとえ得手不得手があったとしても、純正の組合せで使うのが、筋が通った音が得られる。
このことが大事だ、という意見には、あえて反論するつもりはない。
私も、そう思うことがあるからだ。

それでも、せっかくコントロールアンプとパワーアンプとにわかれているのだから、
組合せの面白さ(ゆえの面倒くささ)を楽しみたい、という気持のほうが私は強い。

そして筋の通った音を求めるよりも、
あえてすこしだけの異質のものを感じさせるモノ同士を組み合わせることで生れてくる音の緊張感を、
ここでの組合せでは「対決」のためにも積極的に探して、活かしていきたい。

となると、ここから先は実際に聴いていかないと話が進まない。
でも、もとより妄想組合せということ、
それにロックウッドのスピーカーがまず見つけるのが困難ということもあるから、
妄想アクセラレーターをONにするしかない。