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Date: 12月 11th, 2014
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その2)

二年前に、「毎日書くということ(オーディオを語る、とは)」を書いた。

オーディオを語ることは難しい。
オーディオを語っているつもりでも、そこで語られているのは個々のオーディオ機器についてだったり、
そこで鳴っていた音の良し悪し、特徴だったするからだ。

そのことに気づかずに、オレはオーディオを語れる、と豪語する人もいるけれど、
そんな人が語っているのは、オーディオのことでは決してない。

オーディオを語る、とは、を意識すればするほど、難しくなっていく。
同じことがオーディオの「美」にもいえる。

音の美について語るのは難しい。
音を語ることが難しいことだし、そのうえに「美」を語っていくことの難しさが重なってくる。

それでも、まだオーディオの「美」を語るよりは、少しは難しさも和らぐように感じている。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その4)

この項の(その1)を書いてから、
瀬川先生のことをあれこれおもい出している。

私がまだ学生で熊本に住んでいたころ、瀬川先生は熊本のオーディオ店に定期的に来られた。
そのとき語られたことがある。

音を健康状態に例えられた。
体のどこかが悪くなる。怪我をすれば痛い。痛いことで、怪我したところを意識する。
手を怪我していたければ、そこに手があるのを意識してしまう。
だが怪我をしていなくて傷みがなければ、ふだんは手があることをことさら意識することはない。

病気も同じである。
具合が悪いところがあるから、その存在を意識してしまう。
腹痛がすることで、体の中の内蔵を意識する。
病気とまでいかなくとも食べ過ぎ呑みすぎで胃もたれすれば、胃がどこにあるのかを意識する。
健康であれば、そんなことはない。

そういう意味で悪い音を出すシステムは、その存在を聴き手に意識させてしまう。
装置の存在を意識させない音は、つりは健康な状態の体と同じで、いい音ということになる。

たしかにそうである。
だが瀬川先生の話はつづく。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 異相の木

「異相の木」(好きな音と正しい音・その1)

facebookで、オーディオについて語り合われているものを見ていると、
オーディオには正しい音はなく、あるのは好きな音か嫌いな音である、といったことに出会すのが、増えた。
私が今年目にしたそれらの発言のほとんどは10代、20代の若い人たちではなく、
40代より上、私よりも上の世代も含めて、オーディオをやってきた時間の長い人たちが、そう言っている。

つい先日見かけた発言には、こんなことが書かれていた。
気に入ったオーディオ機器で、好きな音楽をかけつづけていれば、音は自分好みになっていく、とあった。

好きな、とか、好みの、とかいったものこそが個人において優先されることなのといっていいのだろうか。
たしかに気に入ったオーディオ機器(デザインも音も含めて)を手に入れ、
時間をかけて好きな音楽をかけて鳴らしこんでいくことで、そこから得られる音は好みに寄り添ってくれる。

だがそんな音楽の聴き方をしていれば、狭いところにいつづけることになっていく。

だから、こんなオーディオのやり方、音楽の聴き方はだめだとはいわないけれど、
それだけでいいともいわない。

それに、正しい音はオーディオには存在しない、ともいわない。

はっきりいう。
正しい音はある。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その3)

こういうタイトルをつけると、
短絡的に老いていくことで高域が聞こえ難くなることだと捉える人がいる。

歳をとれば、個人差は多少あっても高域は聞こえ難くなる。
だが聴覚検査で使われる信号音はあくまでもサイン波であって、
スピーカーからわれわれオーディオマニアがいい音で聴きたいと願っているのは、
音楽であってもサイン波ではない。

おそらくわれわれは一瞬一瞬のパルスを聴いて、音として音楽として判断しているとは思えない。
少なくともある一定の時間というスパン(それがどのくらいの長さなのかは人によっても違ってくるだろう)という、
ある種の複合体としての音を捉えているのだと考えている。

だとすれば、その複合体としての音の波形を、ある瞬間にはひじょうに短いスパンで、
同じ曲であってももう少し長いスパンで捉えたりしているようにも思える。

若い人が、インターネットの匿名の掲示板で、年寄りは高域が聞こえないから……、といったことを書いている。
確かにサイン波は聞こえ難くなる。
だが、そういって彼らもまた歳をとればそうなるのである。

彼らがいうようにサイン波の高音が聞こえ難くなれば、音を聴き分けることもできなくなるのであれば、
音楽家はどうなるのか。
10代の音楽家がいちばん優れているということになる。
20代、30代、40代、さらには70代ともなれば、ひどく劣化することになるわけだが、実際にはそうではない。

だから、ここではそんな老いについて書くつもりはない。
もっと肉体的で、本能的なところでの老い、
そのことがオーディオにどう関係してくるのかについて書いていきたい。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: audio wednesday

第48回audio sharing例会のお知らせ

来年1月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: コントロールアンプ像

ミキサーはコントロールアンプたり得るのか(その1)

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半には、ミキサーの一部がコントロールアンプとして存在していた。

岩崎先生が愛用されていたクワドエイト(QUADEIGHT)のLM6200Rがその筆頭だし、
イタリアのギャラクトロン(Galactron、輸入元:成川商会)のMK16、
ベルギーのロデック(Rodec、輸入元:今井商事)のMixmaster、
それにマークレビンソンのLNP2は、もともとミキサーとして開発されたLNP1がベースとなっているし、
LNP2をミキサーとして作りかえたモノが、当時のチック・コリアのコンサートでは使用されている。

1970年代のステレオサウンド別冊HI-FI STEREO GUIDEには、ミキサー/ノイズリダクションのページがあった。
当時は生録もブームだったこともあり、据置型だけでなく可搬型のミキサーもいくつかあった。
可搬型のモノはAC電源だけでなくDC電源パックが用意されていた。

この時代はまだCDは登場していなかったから、アナログディスクがプログラムソースの中心であり、
上記のモデルはすべてフォノイコライザーを搭載していた。
つまりフォノイコライザーがなければコントロールアンプとしてみなされなかった、ともいえる。

いまならば単体のフォノイコライザーアンプがいくつも登場してきているし、
アナログディスクを聴かない人もいるから、
フォノイコライザーを搭載していないミキサーでも、コントロールアンプとして使える、といえる。

ミキサーによってはパラメトリックイコライザーを搭載している機種もある。
ギャラクトロンのMK16は10バンドのグラフィックイコライザーを搭載していた。
クワドエイトのLM6200Rにはない。
ロデックのMixmasterには、いわゆるBASS・TREBLEのトーンコントロールがついていた。

コントロールアンプとミキサーとをわけるものといえば、ミキシング機能の有無なのだが、
それ以外にコントロールアンプとミキサーの共通するところ、そうでないところ、はっきりと違うところ、
これからのコントロールアンプ像を考えていく上で、ミキサーの存在は無視できないのではないか。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その1)

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記。

オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生──、
五味先生のことをそう書かれている。

17歳のときにこれを読んだ。
たしかにそうだ、と「五味オーディオ教室」でオーディオにはいってきた私は思った。

だが、このときは、原田勲氏が「音の〝美〟」ではなく「オーディオの〝美〟」とされたことを、
深くは考えはしなかった。

けれど、いまは違う。
確かに五味先生はオーディオの「美」について、多くの示唆を与えつづけられていた。
いま強く実感している。

だからこそ、オーディオの「美」について書いていかねば、とおもう。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 無形の空気

いま、空気が無形のピアノを……(その3)

どれほどつきあいがながくても、その人が出している音に対して、
ほんとうに感じたことを話してはいけない、という体験を私もしている。

彼とは20年以上のつきあいだった。
彼の音はことあるごとに聴いている。
彼がどういう音を好むのかも知っている。

ある時、自信たっぷりに聴いてほしい、と連絡があった。
だが、そこで鳴っていた音は、彼自身の好みを知っている私が聴いても、間違っている音であった。

いくつかのディスクを聴いた。
彼が自信たっぷりに鳴らすディスクも聴いた。
持参したディスクも聴いた。

あきらかに間違っている音だった。
とはいえ、さすがに「間違っている音ですよ」とはいわなかった。
彼は遠慮なく言ってくれ、という。

だからそうとうオブラートに包んだつもりで、「ちょっとおかしい」と答えた。
これが彼のプライドをそうとうに傷つけたようで、
彼は後日、自身のブログで、私のことを書いていた。

どんなことを書いていたのかは、ここではどうでもいい。
ただ、どんなにつきあいが長かろうと、かなり遠慮気味に言ったとしても、
ネガティヴな表現を使ってしまうと、相手を傷つけてしまう。

そんなことはわかりきったことだろう──、
たしかにそうなのだが、彼は悪いところはそういってくれ、と日頃から私にいっていた。
そういう人でも、そうではなかった、というだけの話である。

そういうこともあって、聴かせていただいても、音の形については、聴かせてくれた人に言ったことはなかった。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 無形の空気

いま、空気が無形のピアノを……(その2)

音を聴きに来ませんか、と誘いがあれば、時間の都合がつくかぎりは行くようにしている。
一ヶ月前から決められているよりも、前日、当日に誘いがあったほうが都合がつきやすいことが多いので、
当日でも行けるのであれば行く。

そんなふうにして、決して多くはないけれど、オーディオマニアの方たちの音を聴かせてもらっている。
聴いたあとには、どうでしたか、ときかれることが多い。

そんなとき、感じていながらもいままで言わなかったことがある。
それは、音の形のことだ。

意外にも、というか、ほとんどの人が、音の形ということに無関心・無頓着なように感じている。
これは音像定位が悪い、といったことではない。

そこでピアノが鳴っているとする。
どんなにいい音で鳴っていたとしても、
目をつぶれば、すぐそこにグランドピアノがあり、そこから音が発せられているという感じがない。

これは音場感がよく再現されている、といったことともまた違う。

私は「五味オーディオ教室」からオーディオに入ってきた人間だから、
そこに書かれていた「いま、空気が無形のピアノを……」ということがまず気になる。

そう書いているけれど、私もまだまだではある。
けれど、音の形に、他のことよりも重きをおいている。

重きがおかれていない音に出あうと、
音の形について語りたくなるけれど、いままでは黙っていた。
それは失望を語ることに近いわけで、そうとうに親しい人であっても、そんなことをいえば角が立つ。

よく、忌憚なき意見を聞きたい、といわれる。
けれど、実際はそうではない。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その2)

オーディオについて語るさいに、性的なことを極端に拒否する人がいるのを、
ステレオサウンドにいたときに知った。

菅野先生がある座談会で、射精という言葉を使われた。
そのことに関して、編集部に手紙が届いた。

30年ほど前のことだから正確に記憶しているわけではないが、
その手紙には、ステレオサウンドはオーディオマニアにとっての聖書である、とまず書いてあった。
聖書に性的なことをイメージさせる言葉が載っているのは許し難い、
そういうことだった。

この手紙は意外だった。
いまこうやって書いていると、そのころ意外と感じた理由以外でも意外と感じてしまう。

ステレオサウンドの作り手であったころに、そのステレオサウンドを聖書として読まれることは、
喜んでいいことなのだろうか、とも考えさせられる。

ステレオサウンドを聖書と捉える人が他にもいるのかどうかはわからないけれど、
ひとりいたということは、そう思っている人は他にもいて不思議ではない。

音楽を聴くという行為は、官能的な行為でもある。
人によって、いろいろな聴き方があるけれど、
音楽を聴く際に、まったく官能的なものを拒否している(できている)人はいるのだろうか。

ステレオサウンドを聖書と捉えていた人からすれば、
この項で書いていこうとしていることは、オーディオを侮辱するものだ、ということになるのかもしれない。

それでも「老化とオーディオ」は書いていきたいテーマである。

Date: 12月 8th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(SL10のこと)

ステレオサウンド 55号の編集後記。
     *
 五味先生が四月一日午後六時四分、肺ガンのため帰らぬ人となられた。
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文で、テクニクスのSL10とSA−C02(レシーバー)をお届けした。
 先生は、AKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。
     *
原田勲氏の編集後記である。
〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟
テクニクスにとって最上の褒め言葉だと思う。

これを読んでいたから、強く印象に残っていたから、
SL15ではなくSL10を選択したのは、予算の関係もあってだが、五味先生がそういわれたことを知ったからである。

そして、ここでもうひとつ重要なことは、オーディオの〝美〟である。
音の美ではなく、オーディオの美。

オーディオのデザインについて語っても、
音の美しかみえていない人のデザインについて語る言葉と、
オーディオの美をみている人のデザインについて語る言葉の違い。

オーディオの美と音の美。
私はオーディオマニアだ。
五味先生の書かれたものでオーディオの世界に入ってきた。

だからこそのオーディオの美である。

Date: 12月 8th, 2014
Cate: アナログディスク再生, 型番

電子制御という夢(テクニクスの型番)

テクニクスのアナログプレーヤーの型番はSLから始まる。
ターンテーブルはSPから始まる。

テクニクスのターンテーブルのフラッグシップモデルはSP10。
SP10を頂点として、SP15、SP20、SP25などがあった。
数字が大きくなるほど価格は安くなっていく。

これはアナログプレーヤーも基本的には同じである。
SLの後に続く数字が大きいほど低価格帯のモデルであり、数字が小さくなるほど価格は高くなっていく。

けれどSL10の登場で、このシリーズに関してだけは変更があった。
SL10は10万円、型番の数字と定価が一致している。
上級機のSL15は15万円で、SL7は7万円。これもか型番の数字と価格の一致。
だから型番の数字が大きいほど価格は高くなるという、それまでの型番のつけ方は逆になっている。

Date: 12月 8th, 2014
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(構造と構成)

構造と構成について考えている。

構造とは、大辞林にはこう書いてある。
 全体を形づくっている種々の材料による各部分の組み合わせ。作りや仕組み。
 さまざまな要素が相互に関連し合って作り上げている総体。また,各要素の相互関係。

構成については、
 いくつかの要素を組み立てて一つのまとまりあるものにすること。また,その組み立て。
 経験によらずに概念・形式・イメージなどを操作することで対象を組み立てること。

英語では構造は(a) structure; (a) construction; (a) make; 〈組織〉 organization; 《文》 constitution、
構成はmaking; (a) make-up; (a) construction; structure; composition;
(an) organization; a setup; 《文》 formation。

構造と構成について明確に説明しようとすると意外に難しいのに気づく。
にも関わらず、ほとんど無意識に構造と構成は使い分けている。

オーディオにあてはめてみれば、いわゆるオーディオ業界は構造であり、
オーディオ雑誌にあるのは構成ということになる。

構造と構成の関係を考えていけば、そうか、と納得がいくことがある。
何に納得しているのかは、いずれ書いていくことになるはず。

Date: 12月 7th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その31)

こんなことを書いているけれど、私がSL10を買ったのは、SL15の登場後である。
SL15が欲しくなかったわけではない。
SL15の150000円は、そのころの私には少し高すぎた。

SL10にしてもSL15でもセカンドプレーヤーとしての使用である。
それに150000円は出せなかった。
だからSL10を選んだ。
そして後悔した。

テクニクスのエンジニアもSL10の任意の曲の頭出しが意外に難しいのはわかっていたはず。
だからこそ蓋にキャリングインディケーターをつけたのだろうし、
ほんとうに出したかったのはSL15だったとも思える。

けれどSP10発表10周年を記念しての10づくしのプレーヤーなのだから、
自動選曲機能は予算の関係で無理だったのだろう。

SL10の附属カートリッジはMC型でヘッドアンプも内蔵されていたのが、
SL15ではMM型に変更になり、ヘッドアンプもない。
それでもSL10の五割アップの価格である。

SL10の仕様で自動選曲機能をつけていたら、もっと高くなっていたであろう。

とはいえSL10は成功である。
SL10はステレオサウンド 53号でState of the Artに選ばれている。
SL10と同時にState of the Artに選ばれたアナログプレーヤーは、パイオニアのExclusive P3。

53号では見開きで、この二機種が並んだ写真が載っている。

Date: 12月 7th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その30)

リンのLP12の初期、ARのTurntable、
どちらもこれ以上部品を省略することはできないところでまとめられているアナログプレーヤーである。

どちらのプレーヤーの回路図にはモーターと進相コンデンサー、それに電源スイッチとなる。
速度切替えもない。

回路図をみれば電子回路というよりも電気回路といったほうがぴったりくる。

リンもARもコンパクトといえるサイズにまとめられている。
それでもテクニクスのSL10と比較すると大きくなる。
しかもリンもARもマニュアルプレーヤーである。
SL10はフルオートプレーヤーである。

ステレオサウンド 57号のSL7、SL15の記事には、SL10の構造透視図が載っている。
この図を見なくとも、リンのLP12、ARのTurntableとは違い、
内部には電子部品を数多く搭載したプリント基板があるのは想像できる。

Sl15にはSL10にはなかった自動選曲機能がついている。
SL15の内部はもっと電子部品が数多く使われている。

SL10のコンセプトと形態からすれば、自動選曲機能は必須の機能である。
SL10を持っていたからわかるのだが、頭出しが慣れないとけっこう難しい。

フルオートプレーヤーということでLPを頭から最後まで通して聴く分には、
SL10の操作性にはまったく不満はないのだが、
二曲目、三曲目だけを聴きたい時には、
蓋に印刷されているキャリングインディケーター(定規のような目盛り)とLPをじっと見つめて、
このへんかな、というあたりをつけてキューイングボタンを押す。
けれどうまく行く時もあればちょっとずれてしまうときもある。

マニュアルプレーヤーの操作になれてしまっているいると、けっこうイライラするし、
フルオートプレーヤーなのに使い手にわずらわしさを感じさせてしまう。

SL10の完成度を高めるためにも、自動選曲機能は絶対に必要とSL10ユーザーならば思っていたはずだ。