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Date: 1月 17th, 2015
Cate: D130, JBL

ミッドバスとしてのD130(その4)

ミッドバスとミッドハイが決ることで、
自然とミッドバスとウーファーのクロスオーバー、ミッドハイとトゥイーターのクロスオーバー周波数が決る。

80Hz、630Hz、5kHzとなる。
JBLの4343クロスオーバー周波数は300Hz、1.25kHz、9.5kHz、
4350では250Hz、1.1kHz、9kHzであり、
瀬川先生のフルレンジからスタートする4ウェイ・システムもJBLの4ウェイとほぼ同じである。

D130をミッドバスとする4ウェイ・システムは、クロスオーバーの設定はかなり違うものになり、
ミッドバス・ミッドハイの受持帯域が約6オクターヴ、
JBLのミッドバス・ミッドハイは約5オクターヴであり、
D130ミッドバイのほうは2オクターヴほど下に移行する。

ミッドバスとミッドハイは決っている。
トゥイーターをどうするのか。
JBLの4343、4350では2405が使われている。
このトゥイーターは5kHzから使うには、ちょっとしんどい。
となると075ということになるのか。

では何をもってくるのか。

いま私のところにあるHarknessには175DLHがついている。
これでいいのではないか、と思っている。
これならば5kHzからでも問題なく鳴らせる。
もちろん最高域の再生となると2405には及ばない、075にも及ばない。

けれどD130をミッドバスにもってくるという発想からして、
現代的なワイドレンジを求めているのは違っているのだから、175DLHがもっともふさわしいように思える。

しかもこれら三つのユニットはすでに揃っている。
問題はウーファーをどうするかだ。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その15)

スタビライザーを使うのがいいのかどうかについても同じことである。
あるレコードについては使った方がいいことだってある。
同じレコードであっても、カートリッジがかわれば使わない方がいいことだってある。

それにシステムの音も聴き手の感覚も毎日完全に同じではない。
ひとりの聴き手の朝と夜とでも違うように、常に変化しているのだから、
それに応じて柔軟に対処するのが、それができるのがアナログディスク再生の、
デジタルディスク再生に対しての大きな強みといえる。

スタビライザーにもいろんな種類がある。
それらを試して、これがいちばんいい、と思えるスタビライザーをえらぶのではなく、
それぞれのスタビライザーの音の傾向をきっちりと把握しておくことで、
同時にカートリッジとの相性をふくめて、その調整、それらの関係性の把握こそが、
アナログディスク再生の柔軟性を、聴き手が手にすることができる。

このことは針圧計で針圧をできるかぎり精密に測ることではない。
自分の感覚の把握でもある。

つまりあれこれ調整することで、
その時の自分の感覚に合せることは、自分の感覚を調整していることでもある。

アナログプレーヤー関連のアクセサリーをどう捉えるのか。
私は、こう捉えている。

Date: 1月 16th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その14)

アナログディスク再生とデジタルディスク再生。
このふたつの違いは、いろんな言葉で表現できる。

究極的には、アナログもデジタルも同じだと私は考えている。
だからといってアナログディスク再生とデジタルディスク再生が同じというわけではない。

デジタルディスク再生、
いいかえればCDプレーヤーの場合、ひとつのブラックボックス的要素が強い。
アナログプレーヤーにはブラックボックス的要素はほとんどないといえる。
機種によって、その辺の違いはあるけれど、
ほとんどすべての動作は視覚的に確認できるのがアナログプレーヤーである。

それゆえに調整箇所が多いのがアナログプレーヤーである。
CDプレーヤーでは、アナログプレーヤーでカートリッジを交換するようなことはできないし、
カートリッジの調整にあたる箇所もない。

つまりアナログプレーヤーによるアナログディスク再生は、
その時々の自分の感覚に応じて調整すること(融通をつけること)ができることが、
CDプレーヤーによるデジタルディスク再生との大きな違いである。

スピーカーから鳴ってくる音をきく聴き手は、いうまでも人間である。
機械がきくわけではない。
人間である以上、常に同じ状態ではない。
スピーカーから鳴ってくる音楽に気乗りしない時もある。身が入らない時もある。
上の空で聴いてしまいそうになるときがある。

そういう時、アナログにプレーヤーならば、その時の自分の感覚に合せるように調整することができる。
カートリッジの交換も、そう受けとめることができる。

このLPにはこのカートリッジで、というふうに決めておくのではなく、
むしろ、いま聴きたいレコードを、いまの感覚に合せてカートリッジを選択する、という聴き方である。

Date: 1月 16th, 2015
Cate: audio wednesday

第49回audio sharing例会のお知らせ

2月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その2)

あるスピーカーの輸入商社の社長に、こんなことを話したことがある。
そのスピーカーは振動板にチタンを採用していた。
そのスピーカーに私は惚れ込んでいた。いまも惚れ込んでいる。

それで「振動板、カーボンもいいはず」と話した。
動作原理からいってカーボンでも動作するはずだし、
チタンとカーボン、どちらが優れているかは現実に製品化されなければなんともいえないものの、
カーボンにはカーボンならではの素材のよさがあるのだから、
チタン採用とはまた違うよさを、そのスピーカーから抽き出してくれるはず、という確信があった。

だが返ってきたのは「カーボンなんてありえない」だった。
どうもカーボンでは動作しないと判断しての即答だった。
それ以上、この件については話さなかった。

その一年後くらいして、そのメーカーからカーボンを採用したヴァージョンが登場した。
チタンがいいのかカーボンがいいのか、それは聴く人に委ねられているわけだが、
やはりカーボンで出してきたな、と思ったけれど、そのことを蒸し返す気はなかった。

オーディオ・エンジニアリングに長けている、長けていようとする人ならば、
そのスピーカーでのカーボンの可能性に気づいて当然である。

以前、「気になっている(その3)」で書いたが、
オーディオ業界に属している人は、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
けれど、そのスピーカーの輸入元の人は残念ながら違っていた。

カーボンの可能性に気がつかないから、というわけではない。
誰しも気づかないことはある。
だがそれを誰かから指摘されたときに、その人がオーディオのプロフェッショナルであるならば、
すぐに気づかなければならない。

そのスピーカーの輸入商社の社長は、オーディオ業界にいるわけだから、
オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者といった、
オーディオのプロフェッショナルであるべき人たちと仕事で日常的に接している。

ここで彼らがオーディオのプロフェッショナルであったならば、
輸入商社の社長もオーディオのプロフェッショナルとなっていたようにも思える。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」
1 msg

オーディオの「美」(コメントへの返信・その1)

この項の(その4)へ、上野晃一様のコメントがあった。

グールドの演奏が残酷であると感じたことを、ある人に話した、と書いた。
ここのところは、ある人を否定することにもつながるから、それ以上のことは書かなかった。
言葉足らずなのかはわかっていた。

言葉たらずなのだから、上野様のコメントにあるように、
そういう受けとめ方をされるかも、と思っていたけれど、それはそれでいいかな、と思い、
あえて言葉足らずのままにしておいた。

知人の「あたりまえじゃないですか」の後には、
「彼はプロなんですよ」という言葉が続いていた。
その人とのつきあいは長かった。

彼と話すことといえば、オーディオと音楽の話ばかりだったといってもいい。
それでも、彼に私がいいたかったことは伝わらなかった。
ここで知人との会話の逐一を書いたりはしない。

コメントには、
《グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。》とある。

知人の「あたりまえ」とコメントにある「あたりまえ」は同じ意味で使われているとは、私には思えない。

知人と私の関係をほかの人は知らないのだから、
それに言葉たらずなのだから、そういうふうに受けとめられてもしかたない。

それでも、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴」したのではない。
こんなことをここに書くことではないのだが、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」のは知人の方だとつねづね感じていた。

一蹴するのは、別にかまわない。
人の話を禄にきかずに知人はたやすく一蹴する。
そういうことがあって、昨日のブログであった。

コメントには「才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?」とある。
オーディオに関する限りはない、と答える。
なんという自惚れといわれても、オーディオに関しては「才能の隔絶による絶望」はまだ味わっていない。
これから先、味わうことになるかもしれない。先のことはわからない。

だからといって才能の差、違いを感じていないわけではない。
私よりも専門知識を持っている人はいる。けっこうな数の人がいる。

たとえばメーカーのエンジニア。
スピーカーのエンジニア、アンプのエンジニア、
そういった人たちのスピーカーに関する専門知識、アンプについての専門知識は私の敵うところではない。
けれど、オーディオの難しいのは、
スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。

スピーカー・エンジニアリング、アンプ・エンジニアリングが、
オーディオ・エンジニアリングと常に直結しているとはいえない。
だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。
そしてオーディオ評論家の活躍の場となるオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない、とも考えている。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その7)

マークレビンソンのML6のデザインも、素晴らしいとはいわない。
けれどML6をステレオサウンドに載った写真でみたとき、
LNP2、JC2(ML1)には感じないものを感じていた。

ML6はウッドケースにおさめられた写真が多かった。
中に、ウッドケースから取り出し、上下に重ねた写真もあった。

ML6はウッドケースにいれないほうが断然いい。
少なくとも私がML6に感じていた魅力は、ウッドケースなしのほうが映える。

ML6の基本はJC2のデザインである。
JC2のフロントパネルからツマミやスイッチを取り外して、
レベルコントロールとインプットセレクターだけにしたのがML6である。
これ以上省けないところまで機能を削っている。

音のために、その潔さに魅力を感じていたのか、と思いもしたが、どうもそうではない。
ML6を、LNP2、JC2の写真を何度も見較べた。
実物をみる機会はなかったから、ステレオサウンドに載った写真を見較べるしかない。

ML6には、色気のようなものがあるのに気づいた。
色気のようなもの、であって、色気とは書かない。

ほとんどのっぺらぼうに近いフロントパネルのML6にあって、
メーターもついていて、ツマミの数も多いLNP2に感じられないもの。

それは肉感的な要素であり、官能的な要素である。
とはいえML6にそういった要素があるとはいえないのだけれど、
LNP2にはそういった要素を拒否している。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: オーディオの「美」
1 msg

オーディオの「美」(その4)

もう30年ちかく前のことだ、20代半ばだったころ、グレン・グールドのピアノを聴いていて、
なんて残酷なんだろう……と感じた。

グールドの演奏を聴いていると、ピアノを弾ける、ということは、なんと素晴らしいことだと思える。
人生を最初からもう一度やり直せるのであれば、ピアノを弾けるようになりたい、とも思わせる。

けれど次の瞬間、なんと残酷なんだろう……、となっていた。

たとえピアノが弾けるようになるのに理想的な環境が与えられて、もう一度やり直したところで、
グレン・グールドのようには到底なれない。
一度だけではなく、二度三度やり直せたとしても、絶対に無理だ……。

圧倒的に隔絶したものを、グールドのピアノの音は感じさせていた。
だから、なんて残酷なんだろう……、と感じたのだろう。

この話を、ある人にしたことがある。
彼は「そんなのあたりまえじゃないですか」といった。
説明したけれど、彼の反応は同じだった。

それは彼の音楽の聴き方がそうなのであり、
同じようにグールドの演奏が素晴らしいとふたりともいっていても、違うだけのことだ。

そのときに、この人とは、「美」について真剣に語り合うことはないだろう、と予感した。
この予感は的中した。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・絵に描いた餅ならば)

「絵に描いた餅」なのはわかっていて、あえて餅の絵を描く人と、描かない人とがいる。
描く人はオーディオマニアであり、
描かない人は音楽が好きで、いい音でききたいと思っていてもオーディオマニアではない──、
そう思えてきた。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(絵に描いた餅ならば)

ハイ・フィデリティは高忠実度であり、
何に対して高忠実度かといえば、いちおう原音ということになっている。

その原音とはなんなのか。
録音の現場で鳴っていた音なのか、マスターテープに収録された音なのか、
アナログディスクならば、そこに刻まれた音なのか、
CDならばピットとして記録された音なのか。

菅野先生は自身で録音されたものについても、
マスターテープに収録された音は、はっきりとはわからない、といったことを何度も発言されていた。
ましてカッティングで、別の要素がそこに加わる。
アナログディスクに刻まれた音は、さらにはっきりとはわからなくなる、ともいえよう。

なんとこころもとない高忠実なのだろうか。

こんなことは私がいう以前から指摘されていたことでもある。
だから、原音再生は絵に描いた餅である──、
そういう表現をつい最近もみかけた。

絵に描いた餅とは、感心するほど見事に描かれた餅の絵であっても、
絵である限りは食べられない、腹の足しにはならない。
つまり何の役にもならないこと、もしくは本物・実物でなければ意味がない、というもの。

オーディオにおける原音再生は、確かに「絵に描いた餅だ」といわれれば、確かにそうだ、とうなずく。
うなずくけれど、こう問い返したくもなる。

その餅を描いてみたことがありますか、と。

絵に描いた餅だとわかっていても、
一度は、絵に描いて、いうべきなのではないか。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(魔法の鏡なのか)

グリム童話「白雪姫」では継母の王女が、魔法の鏡に向ってきく、「世界でいちばん美しい人は?」と。
魔法の鏡は現実にはない。

けれど時としてインターネットは、魔法の鏡のようでもあるように感じる。
昔は個人でウェブサイトをやる人がめずらしかったこともある。
それもいつしか簡単にできるようになり、始める人が増えた。
わざわざ自分のウェブサイトまで……、という人でもブログを始めたりした。

いまはSNSが流行っていて、ウェブサイト、ブログを始めなくとも、
いいたいことを友人・知人にとどまらず、不特定多数人に向って書くことが容易になっている。

そうなってきて、いよいよインターネットがオーディオマニアにとって、
いわば魔法の鏡的な要素を鮮明にしてきているように感じることがある。

「世界でいちばん素晴らしい音は?」
そう魔法の鏡にたずねる人はいないだろうが、
間接的にたずねているのではないだろうか。

自分のシステム、リスニングルームを公開し、
これまで使ってきたオーディオ機器、レコードなどについても公開する。
そういう人すべてというわけでないのはわかっている。

それでもそういう人の中には、「世界でいちばん素晴らしい音は?」というよりも、
「世界でいちばん素晴らしい音を出しているのは誰?」とたずねているような気がすることがある。

継母の王女は、魔法の鏡が「貴女です」と答えてくれることを期待している。
継母の王女は、世界でいちばん美しい人を知りたかったわけではない。

Date: 1月 13th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その3)

2013年、ジェームズ・ボンジョルノが逝った。
ステレオサウンドにボンジョルノの記事が載ることはなかった。

数ヵ月後、ソナスファベールの創業者のフランコ・セルブリンが逝ったときは、
ステレオサウンドに記事が載った。

扱いの違いに、腹が立った。
編集者は何をみているんだろうか、と。

マーク・レヴィンソンは生きている。
ダニエル・ヘルツというブランドを興している。
レヴィンソンもいつかは逝く。
数年後か十年後か、いつなのかはまったくわからないけれど、いつかその日はくる。
ステレオサウンドは、きっとマーク・レヴィンソンの記事を掲載することだろう。

その時は、もう腹を立てることはない。
もうわかっていることだから、……その程度だと。

ジェームズ・ボンジョルノには長いブランクがあった。
一時期忘れ去れていた、ともいえる。
けれど、ボンジョルノによるアンプの音を聴いた者(惚れ込んだ者)は、
そんなときでもボンジョルノのことを忘れてはいなかった。

Date: 1月 13th, 2015
Cate: 4343, JBL

40年目の4343(その1)

JBLの4343は1976年秋に登場した。
来年(2016年)は、40年目である。

1976年中に4343を手にした人はそう多くはないだろうが、
円高ドル安のおかげで4343は価格は下っていった。
それに反比例するように、ステレオサウンド誌上に4343は毎号のように登場し、
特集記事も組まれていった。
ペアで百万円をこえるスピーカーシステムとしては、驚異的な本数が売れていった。

いまも4343を鳴らしている、持っている人はいる。
新品で購入した人ならば、長い人で40年、短い人でも30年以上経っている。
しかもウーファーの2231A(2231H)とミッドバスの2121(2121H)のエッジはウレタンだから、
エッジの補修は誰もがやられている。

それ以外にもリペアは必要となる。
ネットワークの部品も交換されていると思うし、スピーカー端子もバネがダメになることがある。
アルニコマグネットは衝撃に弱いため、減磁している可能性もある。

どんなに大切に使って(鳴らして)いても、リペアをせずにすむわけではない。

これから先もリペアしていくのか、それとも……。

リペア(repair)は、修理する、修繕する、回復する、取り戻す、といった意味をもつ動詞。
リペアと同じように使われる言葉にレストア(restore)がある。
元の状態に戻す、という意味の動詞である。
このふたつと同じように”re”がつく言葉に、リバース(rebirth)、リボーン(reborn)がある。
名詞と形容詞だ。

Date: 1月 12th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その6)

ワディアのPower DACの音は、いったいどうだったのか。
いまでも興味がある。
けれど残念なことにステレオサウンド 100号でのプロトタイプ、
133号での,7ページにわたる紹介記事、
どちらも書いているのは三浦孝仁氏である。

三浦孝仁氏になんの憾みも個人的感情はもっていないけれど、
三浦孝仁氏の書くものは、まったく参考にならない。

なぜそうなのかについては、ここで書くことではないし、書くつもりはない。
それに私はそう思っているけれど、三浦孝仁氏の評価がいちばん参考になる、という書き込みも、
インターネットで何度か目にしている。

私が正しいとか間違っているとか、三浦孝仁氏の評価を信じる人が正しいとか間違っているとか、
そんなことではなく、ただステレオサウンド編集部が、Power DACという、
これまで存在しなかったジャンルのオーディオ機器の記事に、
三浦孝仁氏だけの起用だったことにがっかりしているのである。

でも133号のコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーにpower DACは選ばれている。
かろうじて他の方の意見が読める。
それからベストバイで、井上先生が一千万円をこえるにも関わらず、星ひとつを入れられているのも参考になる。

それでもプロトタイプの音については参考になる記事がないのが、いまでも残念でならない。

Date: 1月 12th, 2015
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その2)

蚕が透明な体になって糸を吐きながら死に行く──、
これが純化なのだろうか。

はっきりとはわからない。まだわからない。