Date: 3月 21st, 2015
Cate: 岩崎千明
Tags:

西岸寺にて

audio sharingを公開していることもあって、
share(共有)のアイコンには関心をもつようにしている。

audio sharingのアイコンを考えたことがある。
share(共有)のもっとも象徴的なものは何かと考えた。

火だと思う。

火はいくつにわけても元の火が小さくなったり減ったりはしない。
共有する側の火も共有された側の火も同じ火である。

だから矢印よりも、火を使ったアイコンの方が共有であるとは思っても、
そこから先は気に入るアイコンをつくりだすことができずにいる。

今年も岩崎先生の墓参りに行ってきた。
線香を手に取りロウソクの炎に近づける。
線香に火がつく。
そして手を合せ目を閉じる。

今日まで、なぜ線香に火を着けることを考えたことがなかった。
そうするものだと思ってやっていただけだった。

今日、これは共有なのだ、とはじめて思った。
ロウソクの炎は故人の遺志なのだと思っていた。

ロウソクにロウソクの炎をうつすのであれば、
それは同じ炎だが、あくまでも線香である。

誰であっても故人の遺志をすべて引き継ぐことはできない。
引き継げるのは、一部である。
一部であるから線香なのではないのか。
そう思っていた。

今日来られた人たちみなが、岩崎先生の何かを引き継ぎ、共有されているように感じていた。
墓参は生きている人のためのものだという。
そうだと実感した。

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