西岸寺にて
audio sharingを公開していることもあって、
share(共有)のアイコンには関心をもつようにしている。
audio sharingのアイコンを考えたことがある。
share(共有)のもっとも象徴的なものは何かと考えた。
火だと思う。
火はいくつにわけても元の火が小さくなったり減ったりはしない。
共有する側の火も共有された側の火も同じ火である。
だから矢印よりも、火を使ったアイコンの方が共有であるとは思っても、
そこから先は気に入るアイコンをつくりだすことができずにいる。
今年も岩崎先生の墓参りに行ってきた。
線香を手に取りロウソクの炎に近づける。
線香に火がつく。
そして手を合せ目を閉じる。
今日まで、なぜ線香に火を着けることを考えたことがなかった。
そうするものだと思ってやっていただけだった。
今日、これは共有なのだ、とはじめて思った。
ロウソクの炎は故人の遺志なのだと思っていた。
ロウソクにロウソクの炎をうつすのであれば、
それは同じ炎だが、あくまでも線香である。
誰であっても故人の遺志をすべて引き継ぐことはできない。
引き継げるのは、一部である。
一部であるから線香なのではないのか。
そう思っていた。
今日来られた人たちみなが、岩崎先生の何かを引き継ぎ、共有されているように感じていた。
墓参は生きている人のためのものだという。
そうだと実感した。