オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その1)
古書店に、きれいなステレオサウンドのバックナンバーが並んでいるのを見つける。
きれいであることは嬉しい。
けれど、きれいであるということは、そのステレオサウンドはほとんど読まれていないということでもある。
これは、元とはいえ編集者だった者には悲しくみじめな気持になる。
そういえば、定期購読しているけれど、ここ十年くらいほとんど読んでいない、という声もきく。
別にステレオサウンドに限ったことではない。
他の雑誌・書籍についても同じことがあり、同じことがいえる。
私のところには、ステレオサウンド 38号が二冊ある。
一冊は岩崎先生が読まれていた38号である。
かなりボロボロになっている。
この38号は39号、40号などといっしょに私のところにある。
38号だけがボロボロになっている。
岩崎先生にしっかりと読まれたことで、38号は「本」としての役目を果したといえる。
岩崎先生によって「本」になったといえる。
書店に並んでいるのは、たしかに本である。雑誌であり書籍である。
けれど購入されても、禄に読まれなければ、紙の束でしかない。
しかも何も書かれていない紙の束は他の用途に使えるが、
印刷されている紙の束は、あまり他のことには使えない。
出版社にとっては、読まれようが読まれまいが、売れればそれでいい、ともいえる。
発行部数が多ければ広告は多くはいってくるし、広告料も強気でいられる。
それでもいいのが資本主義(商業主義)なのかもしれない。
どれだけの人が読み、どれだけの人が読まないのかはわからないが、
読んでいない人がいることは事実である。
そういう「本」になりそこね紙の束のままで終えてしまうものに、
文章を書いていくことに、まったく疑問を持たずにいられるのだろうか。
疑問を持っている人、いない人がいると思う。
疑問をもたずに書いている人は、商業主義的書き手といえるのか。
そして編集者は……、とおもう。