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Date: 6月 10th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(ブラック・ジャックを読んでいて……)

手塚治虫のブラック・ジャックに、こんなセリフがある。

《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》
「のろわれた手術(オペ)」より

ブラッグ・ジャックは少年チャンピオンに連載されているのを読んでいた。
だから、このセリフも連載時に読んでいる。
そのころは、まだオーディオマニアではなかった。

いまオーディオマニアとして、このブラック・ジャックをセリフに出あって、
はっとした。気づかされたことがあった。

オーディオマニアは、自分のシステムから出る音を良くしようとする。
それは好きな音楽を少しでもいい音で聴きたいがためである。

でも、それだけではないことに、ブラック・ジャックのセリフを読んで気づかされた。
《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》という、
ブラック・ジャックと同じ気持があることに。

Date: 6月 9th, 2015
Cate: 冗長性

冗長と情調(その4)

SMEの最初の製品は、よく知られているように3012であり、
このロングアームは、これまたよく知られているようにオルトフォンのSPU-Gのためのトーンアームである。

ここで考えたいのは、なぜSMEのアイクマンはロングアームとしたのかである。
私にはアイクマンが16インチ盤を再生するために、12インチのサイズを採用したとは思えない。
一般的なLPである12インチ盤を再生するためのトーンアームとして、
そして当時アイクマンが愛用していたSPU-Gを、
オルトフォンのトーンアームよりもよりよい存在として追い求めた結果が、
あのサイズ(ロングアーム)だと思えてならない。

もちろんオルトフォンのトーンアームを意識していたのであろうから、
オルトフォンのトーンアームがロングアームだったから、
ということも考慮しなければならない要素ではある。

事実イギリスのグラモフォン誌の1959年9月号に載ったSMEの最初の広告、
ここには3012のプロトタイプの写真が、なぜだか掲載されている。

この広告は1983年のステレオサウンド別冊「THE BRITISH SOUND」に載っている。
この広告の写真からわかることは、
3012は軸受けがナイフエッジだがプロトタイプはピボット方式で、
バランスウェイトの上部に針圧印加用のスプリングがある。
つまりオルトフォンのRMG309を意識したものであることがわかる。

3012は1959年に登場している。
標準型である3009も続いて登場した。

ちなみに3012のイギリスでの当時の価格は27ポンド10ペンス、
3009は25ポンドとなっている。

うがった見方をすれば、SPU-G愛用者、それもオルトフォンのトーンアームを使っている人たちに対して、
買い替えをうながすためのロングアームした、ともいえなくもない。
けれどアイクマンは、あくまでも自分のためのトーンアームとして製作している。

そのプロトタイプが、彼のまわりにいるオーディオ業界の友人たちのあいだで好評になり、
商業生産にふみきった、といわれているのだから、
やはり3012のサイズは、アイクマンにとってSPU-Gを十全に鳴らすために必要なものであった、といえよう。

Date: 6月 9th, 2015
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その1)

「コンポーネントステレオの世界 ’82」をひっぱり出してきて、
巻頭鼎談「あなただけの音楽を、音を探す旅にでよう コンポーネントはそのための興味ぶかい乗物だ」を
読みなおしていた。
この鼎談は岡先生、菅野先生、黒田先生によるものだ。

この鼎談、いま読み返してみると、やっぱりあれこれ思ってしまう。
この鼎談が行われたのは1981年の秋ごろだろう。
もう30年以上が経過している。

ここで語られていたことは、その後、どうなっていったのか。
そのことを考えながら読み返すことの興味深さは、
当時読んだときには味わえなかったものが、とうぜんのことながらある。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」をお持ちの方は、ぜひ読み返してほしい。

この鼎談の中に、音の品位について語られているところがある。
ここには瀬川先生の名前も出てくる。
     *
菅野 これは先日亡くなられた瀬川冬樹さんからきいた話ですが、あるとき、若いファンが瀬川さんに、よく先生方は、この音は品位があるからいいとか、品位が高いとかいわれるけど、その品位という意味がよくわかりません、という質問をされたそうです。ぼくもこれはいろんな意味で、たいへんおもしろい問題提起だと思う。たしかに説明しろといわれてもたいへんこまるし、ひとことで理解させるということは至難の技だと思ったけれど、強いていうとクォリティというのは、そういった意味に近いわけですね。
黒田 ぼくもそうなんです。
菅野 そうですよね。だから、決して物理特性のいいものを品位が高いとはいわない。クォリティを日本語に訳すと、品質ということになるから、これまたこまってしまう(笑い)。それで品位という言葉を使う。だから品位という言葉は、ある意味ではずるくてあいまいで、あやふやなところがある言葉だから、わからないというのはたいへん率直な質問だと思うんです。ただ、そういうものが音楽を聴く場合には大切な要素として存在しますから、あいまいであるけれども、品位という言葉を使わざるをえないわけです。
     *
音の品位。
品位は英語ではdignity、graceとなる。
この鼎談のころは、グレースというカートリッジの老舗ブランドがあった。
そんなことも思い出しながら、dignityとgraceとでは、ここでの音の品位は後者だろうな、と思いつつも、
人によっては前者のほうを思い浮べることはあろう。

音の品位といっても、人によって同じ場合もあれば違う場合もある。
これも「コンポーネントステレオの世界 ’82」で語られている。

Date: 6月 9th, 2015
Cate: 岡俊雄

アシュケナージのピアノの音(続々続・岡俊雄氏のこと)

菅野先生が、以前次のような発言をされている。
     *
たとえば同じクラシックのピアノ・ソロであっても、ぼくはブレンデルだとわりと小さい音で聴いても満足できるんだけれども、ポリーニだともうちょっと音量を高めたくなるわけです。
(ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’82」より)
     *
菅野先生の指摘されていることは、多くの人が無意識のうちにやっていることだと思う。
私も、いわれてみれば……、と思った。

岡先生はショルティとアシュケナージを高く評価されていたことは、以前書いた通りだ。
ショルティは、私の中では音量をけっこう高めにして聴きたくなる指揮者である。
ショルティのマーラーは、他の指揮者のマーラーよりも大きくしたくなるところがある。

これはすべての人に共通していえることなのか、そうでないことなのかはわからないけれど、
ショルティのマーラーをひっそりと鳴らしても……、とやはり思ってしまう。

アシュケナージは、どうなんだろうと、いま思っている。

意外に思われるかもしれないが、
岡先生はけっこうな大音量派だった。
岡先生の音を聴いたとき、その音量に驚いたことがある。

驚いたあとで、そういえば……、と思い出していた。
これも「コンポーネントステレオの世界 ’82」に載っていることだ。
     *
 ぼくは自分の部屋で、かなりレベルを上げて聴いて、ワイドレンジで豊かな感じを出したいなということでいろいろやってきて、専門的な言葉でいえば、平均レベルが90dBぐらいから上でピークが105dBから、場合によると110dBぐらいのマージンをもつ、ピアニッシモは大体50から55dBぐらいで満足できるような、その程度のシステムで聴いていた。わりと庭が広いので、春さきから秋にかけては窓をあけっぱなしにして聴いていたのです。
 隣の家までかなり距離はあるんですけれども、隣の家が改造して、昔は台所があってその向こう側に居間があったのを、こんどは居間を台所の横に移しちゃったんです。それでうちでデカイ音を出すと、平均レベルで90dB以上でピークで100dBを超えたりすると、モロにいくわけですね。それぐらいでやっていたら、ある日突然電話がかかってきて、お宅の音がうるさくて困ると、クレームがきてしまった(笑い)。
     *
これを読んでいたことを忘れていた。
そうだそうだ、岡先生はけっこう大音量派なのだ、ということを思い出していた。

だから岡先生もショルティはかなり大きめな音で聴かれていたように思う。
アシュケナージはどうだったんだろうか。
ショルティのマーラーほど大きくはなくても、他のピアニストよりも大きめの音量だったのだろうか。

Date: 6月 8th, 2015
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(思いついたこと)

コンプレッションドライバーのフェイズプラグを見ていて思いついたことがある。

この項ではカートリッジについて書いている最中だが、
今日思いついたこともカートリッジに関することである。

カートリッジの針先、ダイアモンドチップに関することである。
なぜカートリッジの針にダイアモンドを使うのか。
それはダイアモンドが地球上でもっとも硬度の高い物質だからである。

硬いということは、その表面を磨けるということである。
平滑であるためには、そのものの硬度が要求される。

針先の形状は丸針からはじまり、楕円針、ラインコンタクト針、超楕円針など登場した。
いうまでもないことだが、針先の先端が音溝の底をトレースしているわけではない。
針先の両サイドが音溝に接触しているわけで、
この部分の接触面積をできるだけ線、それも可能な限り細い線に近づけた方が、
理論的には精確なピックアップにつながっていく。

今日思いついたことは、形状に関することといえばそうなのだが、
丸針とか楕円針といった形状のことではない。
フェイズプラグを見ていて思いついたのは、
針先にスリットをいれたら、いったいどうなるのだろうか、である。

フェイズプラグには放射状、同心円状、そのどちらかにスリットをいれる。
針先のダイアモンドに、同じようにスリットをいれる。
あの小さなダイアモンドチップにスリットを入れることが可能なのか、それもわからない。

入れることが可能だとして、どういうふうに入れたらいいのかもわからない。
放射状なのか、同心円状なのか、
それにどのくらいの溝を、何本入れたらいいのか……、
スリットを入れることによるメリットがどういうことのなのかも、はっきりとはイメージできない。

けれどスリットを入れることでなんらかの変化が、トレースに起きることは確かなはず。
スリットによって、なにかが保持されるのではないか、と思っている。

Date: 6月 8th, 2015
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その2)

JBLの4350Aと同時代のダブルウーファー(それ以上)のスピーカーシステムは、いくつかあった。
国産スピーカーシステムては、デンオンのSC107(25cm口径二発)、
サンスイのSP-G2300(25cm口径二発)、SP-G300(30.5cm口径二発)、
テクニクスのSB9500(35cm口径四発)、
海外スピーカーシステムでは、アリソンのAlison:Two(20cm口径二発)、Alison;one(25cm口径二発)、
B&MのMonitor 5(16cm口径六発)、
BOSEの601(20cm口径二発)、
ボザークのB4000A(30cm口径二発)、B410(30cm口径四発)、
ダイナコのA50(25cm口径二発)、
エレクトロボイスのSentry iV(30cm口径二発)、
ESSのHD13(30cm口径二発)……、これら以外にもまだまだあるが、このへんにしておく。

意外にダブルウーファーのシステムはあった。
それに加え、1970年代後半はドロンコーン(パッシヴラジエーター)方式のモノも多かった。
ウーファーユニットよりも大口径のパッシヴラジエーターのモノもあれば、
同口径で見た目もウーファーと同じで、一見ダブルウーファーを思わせるモノもあった。

視覚的には同じように見えることもあるダブルウーファーとパッシヴラジエーター方式だが、
低域の拡張を図っているのは、ダブルウーファーではなくパッシヴラジエーターの方である。

意外に思われる方がいるかもしれない。
4350Aは15インチ(38cm)口径の2231Aを二発収めている。
4343は一発だけである。

二発と一発。
同じユニットを使っている限り、基本的には低域の再生帯域の下限をより低くすることはできない。
ダブルウーファーにしたからといって、同じユニットを使っている場合は、
一発では30Hzどまりだった低音の再生下限が20Hzになることはない。

もちろんエンクロージュアの容積が変り、バスレフ型ならばバスレフポートのチューニングも変えれば、
もう少し下まで延ばすことは可能だが、
同じユニットで、ウーファーに対する容積、バスレフのチューニングが同じであれば、
無響室での周波数特性的には一発も二発も変化があるわけではない。

Date: 6月 7th, 2015
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その1)

ダブルウーファーときいて、反応する人としない人とがいる。
前者がさしずめ肉食系オーディオマニアとでもいおうか、
後者はそうなると草食系オーディオマニア……。

あえて分けるとすると、こんなことを思いつく。

私にとってダブルウーファーのスピーカーシステムとして最初に強烈な印象を受けたのは、
やはりJBLの4350Aである。

ステレオサウンド 41号で見た4350Aが、
ダブルウーファーのスピーカーシステムは凄い、
こころときめかすものを感じていた。

つまり私にとっての「ダブルウーファー」とは、
15インチ口径のウーファーが二発ということでもある。

いつのころからか大口径ウーファーに対するアレルギーのようなものをもつ人が増えてきた。
少なくとも私はそう感じている。

15インチなどという大口径のウーファーを求めるのは、
知的とはいえない、野蛮な行為でもあるかのようにいう人が増えている。

小口径ウーファーのスピーカーを鳴らすことが、
知的な行為であるかといわんばかりの人が増えているような気がする。

低音を出すのに、大きさに走ってしまうのは、
あまり知的とは言い難いのかもしれない。
それもダブルにするとは、ますますもって知的とは言い難い。

大口径ウーファーを使うくらいならば、小口径ウーファーを複数使用したほうがいい──、
そんな風潮もいつのころからか強くなってきている。

大口径ウーファーを鳴らせば、
低音再生の問題は解決するほど単純で簡単なものではないことはわかっているし、
小口径ならではの良さがあり、大口径ゆえに発生しやすい悪さがあるのもわかったうえで、
それでもダブルウーファーは、オーディオのロマンの最もはっきりとあらわれたカタチといいたくなる。

Date: 6月 7th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その2)

CDプレーヤーが登場して一年ほど経ったころだったろうか、
井上先生が試聴中にあることを指示された。
実際にやってみると、こんなことでこれだけ音が変化するのか、と驚くほどだった。

いまでは多くの人が「聴感上のS/N比」という。
けれど、この人はほんとうに聴感上のS/N比が良くなった音がわかっているのだろうか、
そう思ってしまうことがないわけではない。

聴感上のS/N比が良くなった具体的な音を知らないまま、
なんとなくの想像で「聴感上のS/N比が……」を使っているような気もする。

この時の井上先生の指示による音の変化は、
はっきりと聴感上のS/N比が良くなった例である。

何をやったかというと、CDプレーヤーの天板をとり、
フロントパネルにあるヘッドフォン端子へのケーブルを引き抜いただけである。

この頃の国産のCDプレーヤーの大半は、
ヘッドフォン端子への配線はどこも同じようなものだった。
アナログ出力回路からフロントパネルのヘッドフォン端子まで、
プリント基板の上をケーブルを這わせていた。

このケーブルの両端はコネクターになっているからハンダゴテを使わずに抜き差しできる。
このケーブルを抜いて、また天板を取り付けての試聴だった。
ヘッドフォン端子へのケーブルがあるかないか、
たったこれだけの違いなのに、出て来た音の変化は少なからぬものがあった。

プリント基板のパターンにヘッドフォン端子への配線が描かれているモデルでは、
同じことはできないけれど、当時の国産CDプレーヤーはけっこうそういうモノが多かった。

Date: 6月 7th, 2015
Cate: 冗長性

冗長と情調(その3)

EMTのカートリッジとエンパイアの4000D/III。
このふたつのカートリッジを所有していたら、
EMTのTSD15を鳴らすには、やはりEMTのプレーヤーシステムに装着した状態を絶対的基準とするわけで、
そうなると927Dst、さすがにここまでいくのは……、ということであれば930stということになる。

EMTのプレーヤーという、いわば特殊な例を除くと、
トーンアームはSMEの3012-Rにしたい。
3009-R、3010-Rもある。優秀なトーンアームだとわかっていても、
ここは心情的にもロングアームの3012-Rにしたい。

では4000D/IIIはどうかというと、3012-Rでもうまくは鳴ってくれるはずである。
私にとって3012-Rは、もっとも使い馴れたトーンアームであるから、
このトーンアームでうまいこと鳴ってくれないカートリッジは、
私にとって縁のないカートリッジになっていくのかもしれない。

4000D/IIIと3012-R。
なんとなくではあるが、視覚的印象としてアームが長すぎる感じがする。
オルトフォンSPU-Gと3012との組合せは、視覚的印象も合っている。
SPU-Gというカートリッジの視覚的ボリュウム感に対してロングアームのサイズが合う。

けれど4000D/IIIとなるとカートリッジの形状からしても、
標準型トーンアームの方がぴったりくる。
3009ということになる。
3009SII、3009SIII、3009-Rのどれかを選びたい。

ロングアームのSMEよりも標準型のSMEの方が、
私が感じている4000D/IIIの良さをよりキモチよく引き出してくれそうな気がする。

私の場合は、当り前すぎる結果に落ち着くわけだが、
人が違えばまた違う結果に落ち着くことだってある。

Date: 6月 6th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その1)

オリジナルとは(続・独り言)」を二日前に書いた。
facebookに、40件以上のコメントがあった(私の分も含んでいる)。

こんなにコメントがつくとは思っていなかった。
コメントに返事をしながら、マーク・レヴィンソン以外の具体例も思い出していた。
そこで、既製品に手を加える行為について、改めて書いてみようと思い立った。

まずはっきりしたいのは、私は既製品に手を加えることがある。
以前書いたように、かなり徹底して手を加えたこともある。

スチューダーのCDプレーヤーA727を手を加えるときは、
47万円という価格もあって、下準備的なことをかなりやった。

A727と同じピックアップメカニズム、デジタルフィルター、D/Aコンバーターを使用している製品を用意した。
このCDプレーヤーで思いつくかぎり、手を加えてみた。
そこで得られたものをA727にフィードバックした。

ただしA727のモディファイには、いっさいハンダゴテは使っていない。

他にも手を加えたモノはいくつかある。
簡単な例ではトーレンスのアナログプレーヤー101 Limited。
このプレーヤーはEMTの930stのトーレンス版であることから、
つまりはコンシューマー用として使われることを前提に、
内蔵イコライザーアンプのインピーダンス整合のために、
出力端子の裏側に小さな抵抗が取り付けてある。

私の場合、受け側のアンプでインピーダンス整合をやるので、
この抵抗は取り外してしまった。

この抵抗はトーレンスによる930stのモディファイでもあり、
この抵抗を取り外した私の行為もモディファイである。
つまりモディファイをなくすためのモディファイともいえる。

私は既製品に手を加える。
だからといって、誰かにそのことをすすめることはしない。

Date: 6月 6th, 2015
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その1)

 とかく趣味の世界には、実際に使ったことがなくても、本やカタログなどを詳細に調べ、同好の士と夜を徹して語り明かし、ユーザー以上に製品のことを熟知しているという趣味人も多い。それはそれでよいのだろうが、オーディオ、カメラ、時計など、物を通じて楽しむ趣味の場合には、対象となる製品は基本的に人間が人間のために作った優れた工業製品であるべきだと考えるため、最初に巡り合った製品が、そのメーカーやブランドの価値を決定することになるようだ。
     *
井上先生がこう書かれたのは、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオブランド172」、
ソニーについての文章においてである。

これはつくづくそう思う。
自分自身のことだけにとどまらす、
オーディオ好きの人と話していると、同世代であっても、
あるブランドに対する印象がずいぶん違うな、ということは、少なからず体験している。

それでもう少しつっこんで話していくと、最初に巡り合った製品が、
たとえ同じ世代であっても違っていた。

カメラや時計であれば、
そのブランドの製品はカメラや時計であるが、
オーディオメーカー(ブランド)の場合、
アナログプレーヤーであったり、プリメインアンプもしくはセパレートアンプ、
それにスピーカーシステム(スピーカーユニットの場合もある)、
テープデッキだってあるわけで、
そのジャンルのどの機種という違いがある。

私があるブランドと巡り合った最初の製品がプリメインアンプだとしても、
ある人はカセットデッキ、また別の人はスピーカーユニットだという場合もある。

こうなってくると、
「最初に巡り合った製品」が決定する
「そのメーカーやブランドの価値」は時に大きく違ってきても不思議ではない。

まして世代がずいぶん違う人だと、もっと大きく違ってくることもあるし、
偶然にも、世代の違いをこえて同じ製品が「最初に巡り合った製品」なこともある。

Date: 6月 5th, 2015
Cate: アナログディスク再生

建造物としてのアナログプレーヤー(その8)

私は(その4)で、
ゲイルのGT2101は大小の三角形から成り立っている、と書いた。

こう書いたのは、GT2101のカタチを想像しやすいようにであり、
ゲイルのGT2101のカタチは本来的には二重円(◎)である。

円の外周を三分割する。
それぞれの弧の向きを反転させる。
つまり内側にカーヴを描くように反転させれば、GT2101の三角形になる。

ターンテーブルプラッターが二重円の内側、
ベースが二重円の外側。
それぞれを三分割して、弧を反転させたカタチがGT2101である。

そこに黒い円盤がのり、回転する。
つまり二重円(◎)の内側の円が黒に反転するわけだ。

GT2101を最初見た時には、こんなことには気づかなかった。
いまごろ気づいた。

GT2101のデザイナーの意図がどうだったのかは知りようがないが、
私は、いまGT2101のカタチを、こう解釈している。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド(195号)

ステレオサウンド 195号の第一特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問〜」、
小野寺弘滋、三浦孝仁、柳沢功力、和田博巳の四氏がそれぞれのリスニングルームを訪問するという企画。
本来は傅信幸氏も参加予定だったけれど体調不良のため四氏になったそうだ。

まだ読んでおらずパラッと見ただけなので内容についてはふれない。
ただ、うまい企画だな、と思った。
いい企画だな、ではなく、あくまでも、うまい企画だな、と思った。

今回は小野寺氏のところに柳沢氏が、柳沢氏のところに三浦氏が……、といった具合である。
ということは、この企画には次があるということでもある。
次回は小野寺氏のところに柳沢氏以外の人(三浦氏か和田氏)が、
柳沢氏のところに和田氏か小野寺氏が訪問する──。

今回の企画が好評であれば、ほぼ間違いなく次回も予定されているだろう。
おそらく一年後の199号の特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問~」第二回か。
今回と同じ四人のままでも三回目(203号)まで同じ企画のままいける。

次回では傅氏も参加ということになれば、あと四回はできる。
ステレオサウンドは年四回。
12月発売の号はステレオサウンド・グランプリとベストバイで固定されている。
残り三冊の企画を考えればいい。

今回の特集がしばらく続くのであれば……、
そう考えて、うまい企画だな、と思った次第。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: 冗長性

冗長と情調(その2)

ロングアームに関することで思い出すのは、
瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」で書かれていることだ。
     *
 それは、音の質感が、どちらかといえばカラッと乾いた感じで聴こえるか、それとも逆にどこかしっとりとしめり気を帯びたような印象で鳴ってくるか、という違いである。その違いはさらに、音の響きの違いにもなる。なった音消えてゆく余韻の響きが、どこまでも繊細にしっとりと美しく尾を引いて消えてゆく感じがヨーロッパのカートリッジなら、アメリカのそれは、むしろスパッと断ち切る印象になる。ヨーロッパの音にはえもいわれぬ艶があるが、そういう音は、たとえばカリフォルニア・サウンドを聴くには少し異質な感じを受ける。やはりそこは、アメリカのカートリッジの鳴り方が肌に合う。とうぜんその逆の言い方として、ヨーロッパの伝統的なクラシックの音楽には、やはりヨーロッパのカートリッジの鳴らす味わいが、本質的に合っているということができる。私がどちらかといえばヨーロッパのカートリッジを常用するのは、いろいろな音楽を気ままに聴きながらも、結局はクラシックに戻ってくるという個人的な嗜好の問題にゆきつくのだろう。そして、いわゆるカリフォルニア・サウンド、あるいはもっと広くアメリカの生んだ音楽自体に、クラシックほどのめり込まないせいだろう。
 現に私の友人でアメリカ系のポップ・ミュージックの大好きな男は、エラックもオルトフォンもEMTも大嫌いだ、という。あの湿った音、ことさらに響きをつけ加える感じが全くなじめない、という。低音のリズム楽器が、ストッと乾いて鳴らなくてはカートリッジじゃない、という。
 私もむろん、彼の言うことはとてもよくわかる。全くそのとおりで、そういう音楽を聴くときに、エンパイアの4000D/III LACやEDR・9、スタントンの881Sなどの鳴らすサウンド(そう、なぜかアメリカのカートリッジの鳴らす音には「サウンド」という言葉を使いたくなる)が、どうしても必要になる。
     *
エンパイアの4000D/IIIは、確かに瀬川先生が書かれている通りの音(サウンド)を聴かせてくれる。
湿り気がまったくなく、低音のリズム楽器が、ストッと乾いて鳴ってくれる。

クラシックを好んで聴く私には、
その乾いた音は一種の快感でもあったけれど、乾きすぎのような感じも受けていた。
4000D/IIIは、いま聴いてもいいカートリッジのような気もしている。
欲しい、と思ったこともある。

瀬川先生にとっても私にとっても、4000D/IIIはクラシックを主に聴くカートリッジでは決してない。
でも、クラシックを主に聴いているにも関わらず、4000D/IIIを常用していた人を知っている。
彼は瀬川先生、私がクラシックを聴くときに感じる、少し異質な感じを感じることはなかった、ということになる。
そのことをきいてみたこともある。
彼はまったく感じていなかったことを確認している。
おもしいろなぁ、と思ったことを憶えている。

この4000D/IIIを取り付けるとしたら、ロングアームは選ばない。
標準型のトーンアームを選ぶ。
それは針圧の重さということよりも、4000D/IIIの音の本質と関係してくることだ。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(「エマニエル夫人」を観て)

映画「エマニエル夫人」の日本公開は、1974年12月となっている。
私は小学六年生だった。

話題になっていた。
ポスターもよく目にしていた。

あの籐の椅子に坐っているシルヴィア・クリステルは、とにかく強烈だった。
観に行きたいと思っていたけれど、
当時は小学生がひとりで観に行けるわけはなかった。
親と一緒と、という映画でもない。

結局観ることはなかった。
東京に出て来てひとり暮らしを始めてもテレビを持っていないのだから、
ここでも観ることはなかった。

10年くらい前だったか、DVDになっているのをみかけた。
買おうとも思ったけど、買わなかった。

観る機会を逸したままになってしまうのかな、と思っていたら、
Huluで「エマニエル夫人」三部作が公開された。
意外な感じがした。

観て最初に感じたのは、主演のシルヴィア・クリステルが若い、ということ。
そして年齢設定も若い、ということだった。

小学六年生の私には、当時のポスターで見ていたシルヴィア・クリステルは、
とても大人のように思えた。

シルヴィア・クリステルは1952年生れだから、映画撮影時は21歳ということになる。
あのころの私には、もう少し大人の女性のように映っていた。

けれど映画の冒頭に登場するシルヴィア・クリステルは、むしろ少女の面影がある。
そんなふうに 感じたことに驚き、
それだけ私が齢を重ねてきたことを実感していた。それだけ老いたことを。