Author Archive

Date: 12月 21st, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その12)

ステレオサウンド 197号が書店に並んでいる。
3月に198号、6月に199号が出る。

200号までにあと二冊出る。
どちらかのステレオサウンドに、オーディスト(audist)についてけじめをつけるのか、
それともこのままだんまりを続けるのか。

オーディスト(audist)はステレオサウンド 179号に登場した。
山口孝氏の造語である。

山口孝氏には、そういう意図はなかったのだろうが、
オーディスト(audist)は、聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われている言葉である。

おそらく200号には五味先生のことが誌面に登場すると思っている。
五味先生が補聴器を使われていたことは知られている。
そのことについて、何度か書かれている。

つまりは、ステレオサウンドの読者をオーディスト(audist)呼ぶのであれば、
ステレオサウンドは、ステレオサウンドの読者を五味先生を差別する人と呼ぶことになる。

ステレオサウンドにとって五味康祐の存在、
ステレオサウンドの読者にとって五味康祐の存在、
いまのステレオサウンド編集部はどう考えているのだろうか。

200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている。
そういう編集部なのだから……、と思えるからだ。

けれどオーディスト(audist)についてだんまりを決め込んだまま、
200号に五味先生のことが載るのであれば、ステレオサウンド編集部に対して遠慮することをやめる。

何も編集長が責任をとって辞めるべきとは考えていない。
誌面で、言葉でけじめをつけるべきである、と考えているだけだ。

なぜ、オーディスト(audist)という言葉が載ってしまったのか、
しかも179号だけでなく、姉妹紙のHiViでも使われたし、リンの広告でもう一度ステレオサウンドにあらわれている。
こんなことになったことをどう思っているのか、考えているのか。
きちんと説明をしたうえで、200号を送り出してほしいと思うだけだ。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その18)

こんなことも考えている。
もしグレン・グールドが生きていたら、と。

アンドロイドのピアニストに最も強い関心を示すのは、やはりグールドのはず。
グールドは、アンドロイドのピアニストを、自分の分身として捉えるのではないだろうか。

だとしたら、グールドはアンドロイドのピアニストで何をするのか、
アンドロイドのピアニストに何をさせるのか。

スタジオでグールドが「録音」する。
そこでの演奏を、アンドロイドのピアニストに再現させる。
コンサートホールにおいて、アンドロイドのピアニストに、スタジオでのグールド自身の演奏を再現させる。

こんなことを考えている。
これは、そのコンサートホールに集まった人たちにとっては、何なのか。

グレン・グールドとそっくりの外観をもつアンドロイドのピアニストが、
グールドが「録音」した演奏を、同じピアノを使って再現している。

コンサート・ドロップアウトしたグールドが、コンサートホールに戻ってきた、と受け取るのか。
とすれば、そこでの聴衆はコンサートホールで実演と認識していることになる。

けれど、グールド自身はどう認識しているのだろうか。
スタジオでの「録音」を再現しているのだから、レコード・コンサートのつもりかもしれない。

Date: 12月 20th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その17)

こんな状況を考えてみる。
自分のリスニングルームにピアノを用意する。
そのピアノで、あるピアニストに演奏してもらう。

同じピアノを使って、アンドロイドのピアニストにさきほどの演奏を再現させる。
これは原音再生となるのだろうか。

ピアニストの演奏をアンドロイドのピアニストに再現させるためには、
おそらくそうとうな数のセンサーが必要となるだろう。
ピアニストにもセンサーがいくつも取りつけられ、ピアノにもいくつものセンサーが取りつけられる。

精度を高めるためにはセンサーの種類と数、小ささ、軽さが要求される。
ここで演奏を捉えるのはマイクロフォンではなく、各種センサーとなる。

これまでは音によって演奏を記録してきたが、
こういうアンドロイドが可能になれば、音ではなくピアニストの動きそのものの記録であり、
ピアニストの動きによって演奏を記録することになる。

これもオーディオなのだろうか。

KK塾での講演で石黒浩氏は、
「コピーされた直後から、それはオリジナルとは別のものに成長していく」と話された。
とすれば演奏をこうやって記録(コピー)したアンドロイドは、
元のピアニストとは別物に成長していくのだろうか。

このことと同時に考えるのは、演奏者から演奏家へ、である。
成長することで、アンドロイドのピアニストは演奏者から演奏家になっていくのだろうか。

Date: 12月 19th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その16)

昨晩はKK塾の三回目だった。
講師の石黒浩氏は、人間国宝の落語家、桂米朝師匠の米朝アンドロイドをつくられている。

これから先、さらに技術が進歩すれば、ピアニストやヴァイオリニストのアンドロイドも可能になる。
現役のピアニスト、ヴァイオリニストのコピーをつくりあげる。
外観だけでなく、その演奏テクニックも完全にコピーできるようになる。

そうなったときに、このアンドロイドがピアノを弾く、ヴァイオリンを弾く。
これも録音・再生といえる。
ならば、アンドロイドによる演奏の再現は、オーディオなのだろうか。

スタインウェイのピアノで演奏されたものを、
そのピアニストのアンドロイドで再生する。

再生する際のピアノはスタインウェイを使う。
けれど元の演奏で使われたピアノそのものを使うことができるのは、ごく限られた場合となる。

このアンドロイドのピアニストを個人で購入し、どのピアノで鳴らすのか。
スタインウェイでも、まったく同じスタインウェイのピアノは用意できない。
同じ型番のピアノであっても、一台一台微妙に違う。

その違いをどう考えるのか。
さらに別メーカーのピアノを持ってくることも考えられる。
ヤマハやベーゼンドルファーのピアノを、そのアンドロイドに弾かせる行為は、どういうことなのか。

──こんなことをあれこれ考えている。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その3)

クラフトノーツのOT360へのリンクをクリックされた方は、
こんなスピーカーを? を思われたかもしれない。

私は、このブランドもスピーカーもまったく知らなかった。
10月開催の音展で初めて見かけた。

どちらかといえば貧相な外観のスピーカー、
このスピーカーが置かれていたブースに入った時、ちょうど鳴っていた。よく聴くディスクがかけられていた。
このディスクは、インターナショナルオーディオショウでもかけていたブースがあった。
このディスクが、思いの外、演奏の雰囲気を醸し出していた。

OT360はペアで11万円(税別)する。
約30年前の598のスピーカーに投入された物量からすると、いくら時代が違うとはいえ、
がっかりされるかもしれない。

世の中には原価厨と揶揄される人たちがいる。
なんでもかんでも、この製品の原価はこのくらいだから、
この価格は高すぎる、などとくだらないことをいう人たちだ。

この人たちからすればOT360は、
高すぎるスピーカーということになるだろう。

OT360のユニットは11cm口径のフルレンジユニットが一発。
エンクロージュアの材質はダンボールだ。
専用スタンドも段ボールでできている。

もうこれだけで拒否反応をおこす人がいるのはわかっている。
OT360はエンクロージュアをただ段ボールで作ったスピーカーではない。
段ボールでなければならなかった構造をもつスピーカーである。

もっと聴きたいと、音展で思っていた。
けれど時間がきてしまい、同じブースでデモを行う他社の時間になり、一曲しか聴けなかった。
でも、その一曲の鳴り方は印象に残っている。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: 川崎和男

KK塾(三回目)

KK塾、三回目の講師は、石黒浩氏。

先月、六本木にある国際文化会館で石黒氏の講演は聞いた。
今回のKK塾の予習になるだろうと思ってである。

よくデジタルは非人間的だといわれる。
一方アナログは人間的であると。

けれどどちらも人間が生み出した。
今回も話されたが、人間を円で表して、その中に小さな円がある。
この小さい円が動物で、それ以外の部分は技術であり、
技術の発想、元となるのは小さな円(動物)から生じるもの、ということだ。

とすればデジタルも、その小さな円(動物)から生じたものとなる。
にも関わらず、なぜデジタルは非人間的と受け止める人がいるのだろうか。

前回も話されたことだが、無機物の進化の過程に有機物がある、という説。
11月に聞いて以来、考えてきた。

無機物(デジタル、客観)であり、有機物(アナログ、主観)であると、今夜確信した。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その3)

ケーブルの交換で音が変ることを、オカルトだ、と決めつける人たちが昔からいる。
彼らは「オカルトだ」の次に口にするのが「オーディオは科学だ」である。

そういう主張をする人の中に、こんな人がいた。
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」
だからケーブルで音が変ることはありえない、ということだった。

菅野先生は、ケーブルによる音の違いについて、針小棒大に語られてはいない。
でもケーブルによる音の変化は認められているし、
ステレオサウンドのバックナンバーで確認できることだ。

にも関わらず、その人はたまたま彼が目にした範囲で菅野先生がケーブルについて語られていないから、
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」ということになる。

これは極端な例とは思う。
でも、この人も「オーディオは科学だ」というのである。

こういう例もある。
スピーカーケーブル長さを極端に変えても音は変らない、という主張だった。
同じ品種のスピーカーケーブルで、ひとつは1m、もうひとつは100mほどにする。

これだけ長くするとケーブルの直流抵抗も無視できない値になる。
1mと100mとでは、スピーカーからの音圧にはっきりとした差が出る。
そのことは、ケーブルで音は変らない、と主張する人も認めている。

けれどその先がある。
100mのスピーカーケーブルで減衰した分はボリュウムをその分上げれば同じになる。
よってケーブルの長さ(1mと100mとでは)で、音は変らない、というものだった。

「オーディオは科学だ」という人すべてが、こんな人ではない。
ケーブルで音が変ることを私は認めているし、同時に「オーディオは科学だ」と考えている。
私だけではない、多くの人が「オーディオは科学だ」という認識の上に立っている。

その上でオーディオにおける観察──先入観なしに聴くこと──の重要性を正しく認識している。
その違いが「オーディオは科学だ」にもある。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(オーディオと黒・余談)

サンスイのプリメインアンプAU111は、1965年の発売である。
ここからアンプのブラックパネルは始まったといえる。

ふと思ったのだが、コカ・コーラの普及とブラックパネルは、
まったく関係がないといいきれないような気がした。

日本でコカ・コーラの製造が始まったのは1957年である。
1962年にテレビ・コマーシャルを始め、びん自動販売機を設置している。
1964年に東京オリンピックに協賛し、1965年、缶入りのコカ・コーラが発売になっている。

コカ・コーラが広く知られるようになり、広く飲まれるようになったのは、いつからなのだろうか。
テレビ・コマーシャルが始まってからであろうし、さらなる普及は缶入りが登場してからだろう。

私が小さい時にはコカ・コーラは当り前のようにあった。
その色に抵抗感はなく飲んでいたけれど、
コカ・コーラは黒い液体である。登場したばかりのころ、この黒に抵抗を感じた人はいたように思う。

もしコカ・コーラが黒ではなく、違う色だったら……、
コカ・コーラがまったく売れなかったとしたら……、
ブラックパネルのアンプの登場は、もう少し遅れただろうか。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その4)

ステレオサウンド 45号のヤマハ(日本楽器製造)の広告は、
44号での広告とはがらりと変ってしまった印象がある。

見た感じはどちらもヤマハの広告とわかるものに仕上っている。
けれど45号では見開き二ページで一機種を紹介している。

プリメインアンプのA1、チューナーのT1、パワーアンプのB3、アナログプレーヤーのYP-D10、
これら四機種が、いわば通常のスタイルで紹介されている。
もうここには、44号でのGlobal&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupの文字はない。

ヤマハは45号、46号……と、
Global&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupでの広告展開をやっていくのだと思っていた。
44号の広告には、
《この秋、ヤマハは、GL groupとEF groupとに分けて、あらゆるジャンルに20機種に近い新製品を登場させます。それらは──それぞれが魅力的な個性を鮮やかにして、大方の期待をはるかに裏切る高次元に登場することになるでしょう。そこに──ヤマハオーティオのエレクトロニクス・エンジニアリングの限りない情熱と鹿知れぬ未来性を垣間見ていただけることでしょう。》
とあったからだ。

広告の展開が期待したものではなくなったけれど、A1への期待が薄れていったわけではなかった。
ステレオサウンド 45号の新製品紹介の記事にA1が登場した。

45号では案譜の新製品としてマークレビンソンのML2、マッキントッシュのコントロールアンプC32、
テクニクスのSE-A1とSU-A2のペア、ビクターのEQ7070とM7070、
これらの他にも話題となりそうな製品が多かった。

そのためかA1は新製品紹介のページをめくってもなかなか登場してこない。
話題性の大きなモノほど先に登場する。
後になるのはさほど話題性のないモノということがあるのは、すでにわかっていた。

ヤマハのA1は最後の方でやっと出て来た。
井上先生が書かれていた。
     *
 A−1は、他のヤマハのプリメインアンプとは異なるフレッシュで伸びやかな明るい音が大変に印象的である。音のクォリティが高く、十分な表現力があり、セパレート型アンプの魅力をインテグレート化したといえるユニークな製品である。
     *
この部分を何度くり返し読んだことだろう。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その2)

「オーディオは科学だ」は正しい。
でも「オーディオは科学だ」とは、どういうことなのかが、場合によってひどく曖昧となる。
曖昧となったまま「オーディオは科学だ」を声高に叫ぶ一部の人たちがいる。

科学であるのだから、オーディオのすべての現象は、測定で捉えられるものだと信じきっている。
測定で差が出なければ音は変らない、と主張する。
わずかな差があったとしても、その程度の差は人間の耳では関知できない、ともいう。

科学は観察することから始まる。
「オーディオは科学だ」と主張するのであれば、
まずオーディオの現象を観察することから始めなければならない。

オーディオにおける観察とは、聴くことである。
測定することは、その次に来ることであって、
徹底的な観察は、徹底的に聴くことである。

ただし観察力は人によって違ってくる。
この当り前すぎることを「オーディオは科学だ」と主張する人の中には、
理解していないとしか思えない人がいる。

自分の耳で聴き分けられないから、他の人も聴き分けられない、となるようだ。
なぜか、音の聴き分けに関しては、人による能力差はないものとして、これらの人たちは語ってくる。

「オーディオは科学だ」といってケーブルの違いによる音の差を認めない人は、
100mを13秒くらいで走ることができたとしよう。

走るのもまた能力であり、人によって違う。
短距離を速く走れる人もいれば、長距離を速く走れる人もいる。

自分が100mを13秒くらいでしか走れないからといって、
100mを10秒を切って走る人たちを否定することはできない。

これはどんなことだってそうである。
自分にできないことを別の人は軽々となしえるし、その逆もある。

なぜか「オーディオは科学だ」と主張する人たちは、
音の聴き分けの能力に関しては、すべての人が同じだととらえている節がある。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その2)

「最初に巡り合った製品」が同じであったとき、
「そのメーカーやブランドの価値」がふたりのあいだで同じになるかといえば、必ずしもそうとはいえない。

ささまざまな要因で、それは変ってくる(違ってくる)。
どちらのほうが多いのだろうか、同じになるのと違ってくるのとでは。

違っている理由がなんとくわかってくる(伝わってくる)こともある。
まったくわからない(伝わってこない)ときもある。

そういうものだよ、と納得すればそれですむことだけど、
つい、なぜなんだろう、と考えてしまう。

特にいくつかのメーカーやブランドに対する印象は同じか近いものを感じているのに、
ある一社に関しては、まったく正反対の印象を互いに持っていることがある。

なぜ、その一社だけがこうも違ってくるのか、と考える。
その答がわかった、とは思っていない。
けれど、もしかすると、価値と意味の違いからきているのではないか、と思っている。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その5)

水もまた鏡の役目を果たす。
澄んだ水であれば、波立たない静かな水は、鏡のようである。-

水は映す。
水は、時として物や人を移しもする。
大量の水が流れれば、その流れは何かを移す。
水は移ろいゆく。

そして洗い流す。
なにもかも洗い流すことがある。
汚れも流れとともにもっていく。

洗練──、洗煉とも洗錬とも書く。
「れん」の漢字は違っても、「せん」は洗のみである。

洗練は、磨きに磨きぬかれていなければならない。
磨かれたモノもまた、何かを映すようになる。

そのために研いでいく(磨いていく)。
研ぐには水が必要である。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その2)

あの人は輝いている、という表現がある。
輝いているわけだから、光をはなっているわけだ。
その光は自らの光なのか、それとも近くに輝いている人がいて、
その輝きを反射させての輝きということだってある。

どちらが上とか下とか、そんなことではなく、
月のように太陽の輝きを反射しての人が、自らを太陽だと勘違いしてしまっては困る。

オーディオ評論家も同じである。
輝いている人(いまどのくらいいるのかは書かない)、そうでない人がいて、
輝いている人は自ら光を放っている人と、誰かの光を反射して、の人とがいる。

私はどちらもいていいと思っている。
けれど月であることを自覚してほしい人がそうでなかったりする。

これは読み手側の問題ともいえるところがある。
読み手側が、書き手側(オーディオ評論家)に勘違いを起こさせてしまっているところがある。

読み手側が、あの人は月であることをわかって読んでいるのと、
月であっても太陽であると思って読んでしまっていては、書き手も勘違いしてしまう。

そしてここでの読み手は、オーディオ雑誌の読者のことだけではない。
読者よりも先にオーディオ評論家の文章を読む編集者も含まれる。

オーディオ雑誌の編集者こそが、はっきりとわかっていれば、勘違いはそうとうに減るはずだ。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その2)

オーディオ評論家の誰それは耳が悪い、とか、クソ耳だ、とか、
そんな物言いをする人がいる、残念なことに少なからずいる。
これに関しては年代はあまり関係がないようだ。

まあ確かに、そういわれても仕方ない人が、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちの中にいることは、私も感じている。
いまだけに限らない、昔だってそういう人たちは確かにいた。
これに関しても年代はあまり関係ない、といえる。

どこのサイトなのかは書かない。リンク先も書かないが、
あるオーディオ雑誌の編集を過去にやっていた人が書いているウェブサイトがある。
そこにあるオーディオ評論家の話が出てくる。

このオーディオ評論家は、いまもオーディオ雑誌に書かれている人だから特定されるようなことは控えたい。
どのようなことを書かれているのかも詳細は、検索にされないように書かない。

私はこの話を、その場にいた人から直接聞いている。
その話が偽りでないことを知っている。

そのオーディオ評論家(誰もが知っている人)は、あるスピーカーシステムの試聴を行っていた。
あとからその場に入った人はすぐに、左右逆に鳴っていることに気づいた。
にも関わらず、そのオーディオ評論家は最後まで左右逆に接続されていることに気づかず、
「いい音だな」という評価を下していた。

初めて聴くディスクでの話ではない。その人の試聴用ディスクとして長年聴いてきているディスクでの話である。

こんな話を書くと、だからオーディオ評論家を含めて他人の耳なんて信じられない、
信じられるのは自分の耳だけ、といいたくなるのはわかる。

けれど、左右逆であることに気づかなかった人もまた同じことを言っているのである。
信じられるのは自分の耳だけだ、と。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その2)

JBL PROFESSIONALのM2の存在を知ったのは、今年の春だった。
二年前にでていたモデルのことを、今年の春に知ったわけだ。

M2の存在を知ってからというもの、このスピーカーに搭載された技術が、
いつコンシューマー用モデルに使われるのか。
特にD2 Dual Driverを、なぜJBLはすぐにもコンシューマー用モデルに採り入れないのか。
このことが疑問だった。

来年のJBL創立70周年記念モデルまで採用しないのか、とまで思っていた。
そこに4367が、いきなり登場した。

見た目は4365とほぼ同じだし、型番も近いものだから、
D2 Dual Driverの採用はないものだと勝手に思っていた。
けれど、拍子抜けするくらいに、唐突に採用している。

去年からJBLの輸入元であるハーマンインターナショナルは、
インターナショナルオーディオショウに出展しなくなった。
もし出展していたら、今年のショウでは聴けたかもしれない。

4367の音は、まだ聴いていない。
聴いていないけれど、このスピーカーが悪いはずはない、という直感はある。
私としては、DD66000の登場よりも、4367の登場に昂奮している。

ただ残念なのは、そのデザインである。
D2 Dual Driverの写真を見ると、触りたくなるほどなのに、
スピーカーシステムとしての4367には、そんなことはまったく感じない。

そのためなのか、いまひとつ注目度が低いような気さえする。

スピーカーではもうひとつに気になった製品がある。
クラフトノーツというブランドのOT360である。