オーディオにとって真の科学とは(その2)
「オーディオは科学だ」は正しい。
でも「オーディオは科学だ」とは、どういうことなのかが、場合によってひどく曖昧となる。
曖昧となったまま「オーディオは科学だ」を声高に叫ぶ一部の人たちがいる。
科学であるのだから、オーディオのすべての現象は、測定で捉えられるものだと信じきっている。
測定で差が出なければ音は変らない、と主張する。
わずかな差があったとしても、その程度の差は人間の耳では関知できない、ともいう。
科学は観察することから始まる。
「オーディオは科学だ」と主張するのであれば、
まずオーディオの現象を観察することから始めなければならない。
オーディオにおける観察とは、聴くことである。
測定することは、その次に来ることであって、
徹底的な観察は、徹底的に聴くことである。
ただし観察力は人によって違ってくる。
この当り前すぎることを「オーディオは科学だ」と主張する人の中には、
理解していないとしか思えない人がいる。
自分の耳で聴き分けられないから、他の人も聴き分けられない、となるようだ。
なぜか、音の聴き分けに関しては、人による能力差はないものとして、これらの人たちは語ってくる。
「オーディオは科学だ」といってケーブルの違いによる音の差を認めない人は、
100mを13秒くらいで走ることができたとしよう。
走るのもまた能力であり、人によって違う。
短距離を速く走れる人もいれば、長距離を速く走れる人もいる。
自分が100mを13秒くらいでしか走れないからといって、
100mを10秒を切って走る人たちを否定することはできない。
これはどんなことだってそうである。
自分にできないことを別の人は軽々となしえるし、その逆もある。
なぜか「オーディオは科学だ」と主張する人たちは、
音の聴き分けの能力に関しては、すべての人が同じだととらえている節がある。